3.人生の善

 人生が一度きり。どう使おうが個人の自由。なら別に、死んだっていいじゃないか。それも別に個人の自由でしょ?大体、どうして人間は、生物は生きようとするんだ。いつだか、生物は子孫を繁栄させることが目的であるとする文章を読んだか、話を聞いたかした覚えがある。確かに誰もが人生の中で結婚を重要なものとして、誰かが結婚すればそれが素晴らしいことであると褒め称える。だが、それは本当に重要で素晴らしいことなのだろうか?生命の繋がりがどうなろうがどうしようが知ったことではない。大事なのは自分自身の存在ではないのか?単なる精子と卵子の結合に、一体どんな価値があるというのか。失礼、いや価値がないというのはいささか言い過ぎた。でも、別にその価値を重要視しない姿勢があったっていいじゃないか。少なくとも僕にとって大事なのは僕自身の人生であって、僕の子どもの人生も、そもそも出来るかどうかもわからない恋人の人生でもなんでもない。僕にとって大事なのは僕自身が一体どうやって生きるかだ。そして、どう死ぬかも、僕には大事だ。だって、僕にとって大事なのは、始まりから終わりまでを含む僕の人生なんだから。


 そういえば僕は、人間は誰しもが他人のためには生きられないと考えている。そう、つまり、自分のためにしか生きられないんだ。いやいや私は伴侶のために身を削っておりますよ、という老人がいたとしても、僕は全く意に介さないだろう。だって、「伴侶のために生きたい」という自分の欲求を満たしているだけではないか、と思うからだ。そんなことを言ったら誰だって自分のために生きているって言うことになっちゃうじゃないか、他者のための善行というものがなくなってしまうじゃないか。大いに結構。だって善行なんてものは人間が作り出した虚構に過ぎないのだから。そう、僕はそう考えているのだ。善も悪も主体次第。よく言うではないか、誰かにとっての善は、誰かにとっての悪である。良かれと思ってやったことが悪い方向に進むこともしばしばだ。この時、「良かれ」は相手にとってではなく、自分にとって良かれだったのであり、結果として相手のことを考えた行動が出来ていないことになる。だから「悪い」、それも相手にとって悪い結果になるわけだ。少し話がズレたな。とにかく、確たる事実としての善行などこの世には存在しない。存在するのは主観を伴う善行だけだ。そして、話を本筋に戻す前にもう一つ。人間は誰しも、自分が善と思うものに向かって進む習性がある。これは非常に重要な事実だ。人間は誰しも痛みを積極的に求めたりはしない。もちろんSMプレイをご所望の方は痛みを求めに行くが、それは痛みにより引き出される快楽、すなわち、本人にとっての善を求めて動いていくだけである。苦しい労働に耐えて働く人も、その労働の苦しさの先にある報酬の価値が、本人にとって、苦しさとの足し引きの結果黒字だから働き続ける。ああ、ブラック企業に残り続ける私はどうなの?と尋ねる人がいるなら答えよう。環境を変えることのストレスだったり、今の経済状況だったり、社会情勢だったり、全ての足し引きを考えた結果、黒字、つまり、マシだからその状況に居続けるだけである。そう、黒字、つまり、その人にとっての善に向かって行動しているのである。


 さて、ここまで事実としての善行はなく、あるのは主観に伴う善行だけであること、そして人間は常に己の善に向かって進んでいることを説明してきたわけだが、つまり僕が何を言いたいかをまとめよう。

 冒頭でも申し上げたが、僕にとって大事なのは僕の人生だ。僕自身がどう生きて、どう死ぬかである。そう、僕にとって(=主観に伴う)大事なこと(=善行)は、僕自身がどう生きて、どう死ぬかを自分で決めることなんだ。

 今こうやってそそり立つマンションの屋上で、夜の海のように冷たい鉄格子を後ろ手で掴みながら身を乗り出してくどくどと考えているわけだが、僕にとって、僕がどう死ぬかは重要なことなんだ。それを決める権利が僕にはある。いや、なければならない。僕は僕の善に従って生きる事しか出来ないのだから。

 さて、もういいだろう。僕はもう十分自分を鼓舞した。本当はわかっているんだ。僕はただ怖いだけ。僕はただ正解がほしいだけ。いつだって正解を求めて歩いてきた。それがなくなってしまったんだ。壊されてしまったんだ。筋の通っているかよくわからないこのクソ論理は、僕を勇気づけるためのものに過ぎなかったんだ。

 さあ覚悟を決めろ。僕は、僕の手で、僕が悪だと思った「生きる」を切り捨てていくんだ。


 最後に覚えているのは、身体を切り裂く刃のように鋭い風の轟音と、ちらと開けてしまった眼に飛び込んできた凸凹のアスファルトの黒だけだった。

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