2.雪は止み、前を向く

 雪が降っていた。都会の喧騒を柔らかく包み込んで消してしまうような雪だった。

 電車の運転見合わせを恐れた僕は仕事を早々に切り上げて駅に向かう。


 天気予報によれば、もうしばらくすると落雷が発生したり雪が雨に変わったりするそうだが、その後すぐに止むのだそうだ。


 駅に着くと、案の定電車は遅延していて、ダイヤが乱れすぎてもはや次の電車の到着時間は表示されていなかった。

 また、駅は鰯よりも愚かな群れで溢れかえっていて、ようやく電車が到着すると野蛮な生き物たちが我先にと中に入っていった。

 いつもの僕なら負けじと電車に身をよじらせて乗り込んだだろうが、雪が僕の心を穏やかにしていた。僕は乗車を諦めて次の電車を待つことにした。

 缶詰よりもぎゅーぎゅーに人間が詰め込まれた鉄の塊は、長く煩い電子音の後、のっそりと発車した。

 後には柔らかな雪だけがほろほろと落ちてくるだけだった。電車を逃したのに、不思議と心は軽やかだった。


 僕は空を見上げる。

 普段はやかましい街灯とビルの明かりが、積もった雪に反射して、曇った空のくすみを夢のような白に明るく照らしていた。

 広げた手の平に雪が一片落ちる。

 ずるいなぁ。

 埃と水分が凍った塊でしかないのに、ここまで綺麗に見せられるのは、それが雪であるからだろう。


 アナウンスが響く。早くも次の電車が駅に到着した。どうやら電車は渋滞しているらしく、結果的に空いている車両に乗ることが出来た。

 僕は席に着き、肩の力を抜いた。

 だから、油断していた。

 僕が目の前に座る女性に気付いたのは深呼吸をしようと息を吸いこんだ瞬間だった。

 ぬるい空気が僕の肺を満たしていたが、胸の奥が一気に凍り付くような感覚に襲われた。

 整えられていて艶やかな長い黒髪。

 切れ長で僕の目線を釘付けにする目。

 キスの時に僕の顔の彫りにピッタリな鼻。

 桃のように瑞々しく潤った甘そうな赤い唇。

 絹のように滑らかで美しい曲線を描く頬と顎。

 息を止めていなければ、きっと彼女のムスクの香りが僕の鼻腔を柔らかくくすぐったに違いない。

 目の前の女性は、僕の昔の恋人だった。

 僕は鼻からゆっくり息を出す。吊り上がっていた肩が徐々に下りてくる。息を止めていた瞬間の僕は夢見心地の変人だったろう。

 彼女は、一瞬ちらりと僕のことを見たが、すぐに目を伏せた。

 僕も目を逸らした。

 見てはいけない人のように感じたからだ。

 あれは終わったはずのこと。僕たちはもう出会わないと思っていた。

 でも……。

 僕はまた彼女を見る。

 彼女もまた、僕を見る。

 麗しい茶色の瞳の奥に、確かに僕の姿が写っていた。

 お互いに言葉は交わさなかった。でも、確かに同じ思い出を共有していた。


 きっかけは、大学二年の夏、講義中に隣に座っていた彼女が僕のペンを拾ってくれたことだった。

 僕は彼女のペンを拾う時のしぐさに惚れた。細く潤いのある指先が、ダサい僕のペンを優しく拾い上げる。彼女がペンを僕に渡す時、優しく微笑みかけてくれた。

 それまでの恋では感じてこなかった電撃のようなものを、脳に感じた。彼女は今まで出会った人の中で間違いなく一番の美人だった。これまでの講義でその美貌に気付かなかった自分を恥じた。

 夏の暑さに当てられたのか、僕はその後、隙をうかがっては声を掛け、昼食や夕食に誘い、アプローチをかけ続けた。

 そして、僕は彼女とデートに行くことになり、夜景が見える場所で告白をして、その後、無事に成功した。

 夢のような時間だった。


 目の前の彼女の美貌は今も変わらずであった。

 しかし、前のように僕に微笑みかけてくれることはなかった。

 その時だった。彼女の背後から閃光が発せられた。

 その光はまるで僕の回想を制止しようとするかのように、強く僕の目に焼き付き、彼女を視界から一瞬消した。

 ゴロゴロビッシャン。

 空が裂けるような轟音に、車内の誰もがビクリと肩を揺らす。

 電車が止まる。

「ただいま、駅の非常ボタンが押されたため、全ての電車が停車しております。発車までしばらくお待ちください」

 僕は息を整えて忘れていた瞬きをした。

 そう、変えられない出来事があるから、彼女はもう微笑みかけてはこない。


 僕は今まで追われる恋だけで、追う恋をしたことがなかった。

 僕がこれまでの恋で感じていた追われることの鬱陶しさを、きっと彼女も感じていたのだろう。恋は人を盲目にするとはよく言ったもので、僕は彼女に構ってほしくて仕方がなかった。だから、彼女の気持ちに気付けなかった。

 それだけならよかったが、僕は追うスキルも身に付いていなかった。今までは僕が何をしようが、相手がその僕を好いていてくれていた。だが、今回は違った。自分が好かれる努力をする番だった。しかし、その努力が僕には出来なかった。

 女性に対する配慮なんか、学校では教えてくれない。一般教養なのに、日常生活や高校までの学校生活のプライベートで学ぶ必要がある。僕はその点において全く才能がなかった。

 今になって、ようやく多少はマシになった、と思う。だけど、当時は全く配慮が出来なかった。

 思い出したくないが、恋人との食事なのに食事のペースをあわせられないとか、ハイヒールの相手に自分の歩幅で歩き続けるとか、大事なお出掛けの日にお店の予約を直前まで忘れているとか、色々だ。取り返しがつかなくなってから自分が愚かだったということに気付かされた。

 一般的にそれらの教養は、色々な人とのお付き合いの中で経験していくものだし、僕もそうだった。だけど、常々思うのは、どうしてもっと早くにそれらを勉強しなかったのだろうということだ。

 未練タラタラで情けないが、僕は本当に、彼女と一緒にいたかったんだ。いたかった。

 しかし、彼女の不満は積もり、やがて爆発した。

 他愛無い会話のはずだった。

 でも、それは「僕にとって」他愛無い会話であって、「彼女にとって」は重要だったのだ。

 彼女は悩み事を話していた。僕はそれを適当に受け流していた。今思えば本当に愚かだった。人それぞれに悩みがあることを、二十歳の僕は幼くてまだ十分には理解していなかった。

 彼女は、私に興味がないのかと怒り出し、僕は訳が分からず言い合いになった。

 彼女は僕に「あなたは薄情ね」と言い残し、そのまま喧嘩別れという形になってしまった。

 僕は復縁のための話し合いの場を何度か設けてもらったが、彼女の目に一度悪く映ってしまった僕は、もう悪者でしかなかった。性格の違いやお金の感覚の違い、そして、恋愛観の違いを並べられ、それらがあるから一緒にいても楽しめないと言われてしまった。

 それまで上手くやってこられたのは、まさしく夢のようなことだったのだ。


 電車が動きだす。

 目の前の彼女は剃刀のように鋭い眼差しを僕に向ける。

 怒りというか、呆れというか、もはや無関心に近い眼差しだった。正確には、無関心になりたがっているという眼差しだった。

 一瞬でも彼女は懐かしさを僕のように感じてくれただろうか。そんなことを思う僕は、やはり未練タラタラなのだ。

 でも、雷よ、もう鳴るな。十分わかっているから。

「前の駅でのお客様救護のため、一時的に電車が停車しておりました。積雪の影響もあり、本日はダイヤが大変乱れております。お客様には大変ご不便をおかけしますが――」

 落ち着き払った車掌の言葉が僕たちの間の空気を整えてくれている気がした。でも同時に、現実に向き合うべきだと僕を諭しているようでもあった。

 雪が雨に変わっていく。

 ふぅ……。

 結局は、僕たちは恋人に求めることが、幸せの考え方が違ったんだ。だから、いつ付き合っても、何度付き合っても、どれだけ長く続いても、最後には別れる運命だったんだと思う。


 僕は恋人に、ずっと側にいることを願った。

 彼女は恋人に、隣で一緒に歩き続けることを願った。

 その二つは、似ているようだが、決定的に異なることがあった。

 僕は止まることも是としていたが、彼女は常に前を向いていたということ。

 僕はすぐに歩き疲れる、根性のない人間だった。

 彼女にとってそれは許せないことだった。また、当時の僕にとってそれは直せないことだった。

 彼女にとっての幸せは尽きぬ「成長」であり、僕にとっての幸せは尽きぬ「承認」だった。

 僕たちの求めるモノ、求める幸せは別物であり、僕たちはお互いの違いを受け入れることが出来なかった。

 ああそうだ。だから、僕たちは別れるべくして別れた。


 電車が駅に止まり、彼女は瞼を優しく閉じる。

 人が流れてくる。僕と彼女との間に入る。

 まるで僕と彼女との間の壁を再現したかのようで、僕は息苦しさと暑さを感じた。

 僕と彼女との目と目の繋がりはそこで打ち切られ、僕の回想もそこで終わった。

 強く叩きつけるような雨音が響き、そこには雪の面影は全くなかった。

 今からでも、なんとかなるんじゃないか。

 僕は少しでも、彼女との関係性を戻せたらって、そんなことを考えて、無駄に人混みを掻き分けるように視線を送る。

 彼女のコートが見える。

 彼女のブーツが見える。

 彼女のバッグが見える。

 でも一向に彼女の瞳は疎か、顔すら見ることが出来なかった


 徒に時間が過ぎて、電車が次の駅に到着した。

 人がはけていく。

 そして目の前の彼女も、いつの間にか消えていた。

 振り返っても、人混みの中で彼女を見つけることは出来なかった。

 正面に向き直ると、いつの間にか雨は止んでいた。

 想い出にひたる時間も、お互いの違いを見つめ直す時間も、未練に涙を流す時間も終わりを告げていた。

 結局、僕は僕だ。

 でも、今の僕は不思議と前を向こうと思っている。

 彼女と一緒になるためじゃなく、そうしたいから。

 僕も成長に幸せを感じるのかもしれない。

 電車が再び動き出す。

 くすんだ灰色の空の向こうに希望を感じたのは、雪が反射した光のせいではない。

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