第27話 俺の名前は


 俺は倒れ伏していた。

 アビルと同じように、肩から斜めに斬られた。

 血がたくさん流れていた。


 でも、痛みはなかった。

 俺の頭の中は、エレクサに言われたことでいっぱいだった。


 ああ、そうだよ。

 俺は怖かったんだよ。


 自分が誰なのかわからない。

 家族も、友達もいない。

 帰る場所がない。

 これからどうすればいいのかわからない。


 そんなの、怖いに決まってるだろ。

 気がおかしくなりそうなほど不安だったよ。

 だから最初は、記憶を取り戻したいとも思った。

 だけど、もし記憶を取り戻したら、今の俺はどうなるんだろう……?

 消えて、いなくなるんじゃないのか?

 そう考えたら、もう何もできなかった。


 だから、俺はソラを利用したんだ。

 彼女と一緒にいることで、不安を紛らわしていた。

 彼女に恩返しするという目的を持つことで、自分にもやることがあるって思い込んでいた。

 俺は、彼女の優しさを利用したんだ。

 酷いやつだ。


 ここ最近もやもやしていたのだって、みんなを妬んでいたからだ。

 ソラは泣いていた。

 苦しい人生を送ってきた。

 それでも、母親を助けたいという自分の願いがあった。

 また前を向いて頑張り始めた。


 アビルだってそうだ。

 自分の意志を持って、理不尽と戦い続けてきた。

 村の人達もみんな、自分の帰る場所があって、大事な家族があった。

 それを守ろうと、必死になっていた。


 みんな、ちゃんと『自分』があったんだよ。

 輝いてたんだよ。

 それは俺にはないものだった。

 俺に『自分』なんてない。

 自分が誰かもわからないんだから、当然だ。


 だから、俺は『自分』が欲しかった。

 生きる目的が、生きてていいと思える理由が、欲しかった。

 ハル、って呼ばれていれば、別の誰かになれる気がしてたんだよ。

 あんな適当に付けられた名前でも、嬉しかったんだ。

 そうやって現実から目を逸らし続けてきた、空っぽの人間なんだよ、俺は。

 

 でも、しょうがないだろ。

 どうすればいいんだよ。

 誰か教えてくれよ。

 記憶とか、色んなことと向き合わなきゃいけないのはわかってる。

 でも、怖くて、不安で、消えたくなくて、何もわからないんだから……。

 

「まだ息があるな。ギリギリで避けられた分、傷が浅かったか」


 頭の上から声が聞こえた。

 エレクサだ。

 斬られた胸の傷が熱かった。

 地面に広がる血が温かかった。


「今度こそさよならだ、名無し君」


 ああ、終わるんだ。

 短い人生だったな。

 無意味な人生だったな。

 ……でも、いいか。

 このまま生きてても、したいことなんてないんだし。


「ち、ちがう……っ」


 不意に、かすれた声がどこかから聞こえた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「ちがう……っ!」


 絞り出したような声だった。


「なんだ、起こしてしまったか。待たせて悪いな、今終わるところだ」


「ぅ……ッ」


 エレクサが誰かと喋っている。

 俺はなんとか顔だけ上げて、声の方を見た。

 アピスだった。

 目を覚ましたのか。

 でも、苦しそうだ。

 木に縛り付けられたまま、苦しそうな顔でエレクサを睨んでいた。


「そう睨まないでくれ。父親とアビルのことは残念だったが、お前の人生はこれから――」


「お兄ちゃんは死んでない!!」


 アピスが叫んだ。


「お兄ちゃんは、私を残して死んだりしない!!」


「幻想の類か? お前も見ただろ、あの傷はベータにだって治せやしないよ」


「そんなの、ソラが治してくれる! あんたなんかに、お兄ちゃんも、ソラも負けないッ!!」


「はっはっは! 笑わせないでくれ。あんな魔力操作もろくにできないガキに治せるわけないだろ。お前の脳みそはお花畑か?」


 エレクサの言葉は事実だろう。

 ベータにも、ソラにも、きっと治せない。

 俺は二人の会話をぼんやり聞いていた。

 会話に入る気力なんてない。

 どうせ死ぬんだから。

 ……アピスだけでも、逃がしてやりたかったな。


「おい、しっかりしろっ!! あんたにはちゃんと、名前があるだろッ!?」


 アピスが叫んでいた。

 なぜか俺と目が合っていた。

 何を、言ってるんだろう。


「偽名なら、な。こいつに名前なんてないよ。生きる理由が欲しくて欲しくてたまらない、嫌なことから逃げ続ける、孤独で空っぽのガキなんだよ」


 エレクサが口を歪めて、言った。

 その通りだ。

 俺は、誰でもない。


「違う……ッ!」


 だが、アピスはエレクサの言葉を否定した。

 俺に訴えかけてきた。


「あんたには大事な名前があるだろうがッ!! だって、ソラは言ってた……」





 ――時は遡る。


「ねえ、なんでハルって名前なの?」


「え、急にどうしたの……?」


 これは、アピスが初めてソラ達と出会った日の会話だ。

 アビルと合流して、村を目指して歩いていた時の会話だった。


「いや、たいした理由はないんだろうけどさ……名前を付けてって頼まれた時、悩むことなくあっさり決めてたから。単純に響き?」


 ふと気になって、私はソラに尋ねたのだ。


「ふふっ。ちゃんと考えて付けたんだよ。誰かに名前を付けるなんて思わなかったから、すごくビックリしちゃったけど、やるからには一生懸命考えないと」


「でも、その割には随分と早かったじゃない」


「まあね。なんか閃いちゃって、ピンときたから」


「ちゃんと、って言うわりに直感を信じたのね……」


 真面目なのか適当なのか、どっちなんだろう。

 でも、ソラの笑顔に嘘の気配はなかった。


「まあいいわ。で、なんでハルって名前にしたの?」


「あーそれはね、ハルって名前は、季節の『春』っていう意味なの」


「え、春……? 今は夏だし、あいつに春っぽい爽やさなんてないじゃない」


 私はきょとんとした。

 たしかに『ハル』と聞けば『春』を連想する。

 でも、あの性格が悪い男に、桜が舞うような美しいイメージは一ミリもない。

 ソラは「聞こえちゃうよ」と人差し指を立て、悪戯っぽく微笑んで、言った。


「ううん、そうじゃなくて……春って、始まりの季節じゃない? また一から新しい気持ちで始まる、そういう節目の季節」


「始まりの、季節?」


「そう。ハルに記憶がないのは、アピスちゃんも聞いたよね?」


「うん」


「自分のことを覚えてないのって、きっとすごく辛いことだと思う。怖くて、寂しくて、不安で……自分はどうすればいいんだろうって、すごく悩むと思う」


「それは……そうかも」


 本人が普通にしてるから気にしてなかったけど、たしかに辛い状況だ。


「でも、それなら、一から始めちゃえばいいと思うの。季節の春とおんなじで、新しい自分の人生をここから始めればいい」


「人生を、一から始める……?」


「うん。人はみんな、生まれつき名前が付いてる。でも、それだって自分で決めたわけじゃないでしょ?」


「……」


「だったら、自分で決めていいと思うの。名前も、生き方だって、全部自分で決めて一から始めればいい。そういう願いを込めて、『ハル』って名前にしたんだ」


 ソラは不安を吹き飛ばすみたいに、明るい声音で言った。

 前を歩くハルの背中を見ながら、柔らかく微笑んだ。

 その横顔は、優しさに溢れていた。


「だから別に、無理に記憶を取り戻そうとか考えなくていいと思う。好きなように生きていいと思う。今のハルだって、本当の自分なんだからね」


「…………す、すっっっごく素敵ねっ!! ソラ、あんた天才よ!!」


「えっ、そ、そんなっ……でへ」


 私は感動した。

 なんて素敵な名前なんだ!

 私はそれから、ハルのことを名前で呼ぶようにした。





 ――時は戻る。


「だから、あんたは『ハル』なんだ! 誰がなんて言おうと『ハル』なんだよ! ここから始めて欲しいってソラが願ったんだっ!! だから……っ」


 アピスが、全身全霊で叫んでいた。

 その赤い瞳は、真っ直ぐ俺のことを見ていた。


「だから、そんな顔すんじゃないわよッ! ハル!!」


 俺は呼吸が止まった。

 気付けば涙が溢れていた。


「……そんな……っ、そんな風に、想って……」


 適当に付けた名前だと思っていた。

 でも、ソラは大事な願いを込めていた。

 俺のためを想って、ちゃんと考えてくれていたのだ。


 胸の奥が熱かった。

 嬉しくてたまらなかった。


「ぁ……あ、りがとう……ソラ……」


 ここで、投げ出したらいけない。

 諦めたらダメだ。

 俺は今度こそ、彼女の想いに応えなければいけない。


 俺は立ち上がった。

 剣を突き立てて、膝を震わせながら、立ち上がった。

 アピスの顔がパッと明るくなった。

 エレクサが驚き、不快そうに顔を歪めた。


「チッ、気に入らない面だな。お前はここで――」


 エレクサは俺に剣を向けようとして、止まった。

 すぐにバッッと振り返った。


「死ねェ――ッッ!!」


 突如、茂みから紺色の大狼が現れ、エレクサに襲いかかった。

 鋭い鉤爪が振るわれる。

 エレクサは即座に反応した。

 剣で受け止め、そのまま跳ね返そうとした。

 だが、大狼はエレクサの剣ごと、エレクサを叩き飛ばした。


 大狼は、木に縛られるアピスの前に着地した。

 エレクサから大切な妹を守るように、いつの間にか人の姿に戻ったアビルが、そこにいた。


「待たせたなァ、アピス」


「お、お兄ちゃん……っ!!」


 アピスは泣き笑った。

 涙をボタボタ垂らしながら、無邪気に笑った。

 その頭を、アビルは少し照れくさそうに撫で回した。


「あ、アビル!? バカな……なぜ生きているッ!?」


 エレクサが目を剥き、声を荒らげた。

 なぜアビルが生きているのか。

 いったい誰が治したのか。

 そんなの、一人しかいないじゃないか。


 

「ハルっっっ!!」



 鈴のような声が、木々の奥から響いた。

 俺は勢いよく振り向いた。

 気が付けば、夜が明け始めていた。

 一筋の陽光が、駆け付けてきた少女の姿を照らす。

 すると、宝石のような真紅の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめていた。


 眩しい光景だった。

 その姿を見ただけで、心が晴れ渡っていった。


 そうだ。

 大事なのは、今の俺がどうしたいかだ。

 記憶を取り戻したらとか、昔の俺はどうだったとか、関係ない。


「……俺は、ハルになりたい」


 俺は、エレクサに向かって言った。

 真っ直ぐと、迷いのない瞳で。


「俺の名前は、ハルだ」


 俺は、ハルとして生きていこう。

 なりたい自分になろう。


 空っぽだっていいじゃないか。

 これから中身を注いでいけばいいのだ。

 一から始めよう。

 ここから本気で生きていこう。


 俺は心に誓った。

 その瞬間、俺の心臓から魔力が溢れ出した。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 何かが決壊した。

 胸の奥から魔力が溢れ出して、濁流のように全身を駆け巡った。


「いったい、何が起きている……?! なんだ、その魔力量はッ!?」


 エレクサが声を荒らげ、数歩後退った。

 いや、他の全員も驚愕していた。


「魔力が、剣に……?」


 ソラが吐息のように呟いた。

 魔力が勝手に、右手に持つ剣に吸い込まれていく。

 収束していく。

 全身が熱かった。

 周囲の音の一切が掻き消えた。

 心が穏やかになる感覚があった。


 ……たぶん、今なら魔法を使える。

 俺はそう直感した。

 理由はわからないけど、なんとなくわかったのだ。

 俺は目を閉じた。

 瞼の裏に、英雄の姿が浮かんだ。


 魔法の詠唱なんて、俺は一つも知らない。

 だけど、なんとなくなんて言えばいいのか、わかっていた。

 だから俺は、英雄の名前を静かに唱えた。


「“フレイム“」


 次の瞬間、俺の剣から炎が吹き出した。

 剣に収束していた魔力が炎と化し、轟然と燃え上がったのだ。

 炎の光が、森を赤く染める。

 その熱量を高めていく美しい光景に、俺は静かに息を呑んだ。


「はっははははは! ああ……付与魔法か!」


 エレクサが笑い始めた。


「その魔力量には肝を冷やしたが……単なる付与魔法なら脅威ではない。剣身に炎を纏おうが、防いで斬ることに変わりはない。それに、その魔力量は制御できないだろう?」


 俺が発動した魔法は、火の付与魔法だ。

 武器に魔法効果を付与する、『最弱の魔法』とバカにされる低威力の魔法だ。

 燃えるだけの剣。

 それはエレクサにとって、大した脅威にはならないのだ。


「それにアビル……よく生き残ったが、まだ病み上がりだろう? ずいぶん消耗してるようだが、その様子ではここに来るまでに力を使い切ったようだな」


 エレクサがアビルに視線を向けた。

 アビルは否定しない。

 息を切らし、顔を歪めている。

 傷が塞がったとはいえ、ダメージが残っているのは明らかだった。


「予想外のことも多かったが、私はまだ天に見放されていない!!」

 

 エレクサの言うように、形勢は逆転していなかった。

 だが、不思議と不安はなかった。


「ごちゃごちゃとうるせーよ、性悪女」


 俺に恐れはなかった。


「エレクサさん、ハルはあなたなんかに負けない」


 ソラも恐れていなかった。

 なんだか、彼女と心が通じ合っている気がした。


「チッ、死にかけのガキが……! 来いよ、今度こそぶっ殺してやる、名無し野郎」


「――いくぞ」


 俺はつま先に力を込めた。

 魔力が炎に搾り取られる。

 膨大な魔力が全身を蝕む。

 胸の傷が深い。

 それらを無視して、俺は突貫した。


「……ッ!?」


 その突貫に、エレクサの笑みが途切れた。

 俺は魔力を制御できず、ほぼ暴走状態で突っ込んだのだ。

 だが、それ故に、俺は速かった。


 エレクサに躱す余裕はなかった。

 だから、彼女は受け流そうと剣を構えた。

 俺の力任せの一振りを防いで、カウンターで首を狙う気だ。


 それを見ても、俺は止まらなかった。

 目の前の空間を貫き、エレクサが眼前に迫る。

 時間が凝縮される。

 この一撃に全てを乗せて、俺は叫んだ。


「ぅぁあああああああああああああああッッ!!」


 大上段に構えた細剣を、一気に振り下ろす。

 炎を纏った斬撃が、エレクサの鉄剣と衝突する。

 直後、俺の剣がエレクサの剣を打ち砕き、そのままエレクサをぶった斬った。


「ご、ふ…………ッ!?」


 半ばから真っ二つになった刃が、宙を舞った。

 エレクサの胴体から鮮血が吹き出す。

 燃え盛る業火が血を呑み込み、傷口から内蔵を焼く。

 その光景を見て、俺は魔力を解いた。

 もう、力が入らない。

 そのままエレクサと衝突して、二人で仲良く地面を転がった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 勢いが止まると、俺は仰向けで倒れていた。

 呼吸をするだけで全身が痛かった。

 だけど、朝焼けが綺麗だった。


「ぅ…………ばか、な……ッ」


 エレクサの断末魔が耳に届いた。

 ああ、終わったんだ……。

 そう思った瞬間、俺の意識は緩やかに落ちていった。


「ハル! 大丈夫っ!?」


 最後に、やけに綺麗な声が聞こえた気がした。

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