第6話 身体強化


「ちょっと、試したいことがあるの」


 魔獣から十分な距離を取ったところで、ソラが言った。

 樹齢何千年かという大木の影に隠れながら、俺は頷いて先を促した。


「あなた、魔力に関する知識は覚えてる? 人はみんな魔力を持っていて、身体強化は誰にでもできるっていう」


「そこら辺なら、覚えてる。俺が忘れたのは自分自身のことと、歴史関係だけだからな」


「よかった。なら、話は簡単。今からあなたの魔力を覚醒させる」


 彼女は真剣な表情で言った。

 そこに冗談の気配はない。

 だが、俺にはそれが、冗談だとしか思えなかった。


「ちょっと待って! 今ここで、いきなり!? 無理に決まってるじゃない! いきなりできるのなんて一握りの天才だけよ。わたしだってできないのよ? こいつは絶対に天才じゃなくてただのアホよ!」


 アピスが眉を逆立てて抗議した。

「勝手にアホ呼ばわりするな」とツッコミつつ、俺もアピスの意見には同意する。


 魔力操作、身体強化は簡単に習得できるものではない。

 才能があるならまだしも、多くの人は長年かけて習得する。

 もし無理やり魔力を覚醒させると、うまく制御できずに、体内で魔力が暴走してしまうのだ。

 暴走した魔力は、肉体を内側から破壊していく。

 そうして命を落とした者も少なくない。

 だからこそ、魔力の覚醒は慎重にやるのだ。


 もちろん、それも兵士を志すものだけだ。

 普通に暮らす平民は、そもそも魔力操作など習得しない。


「それに、仮に身体強化ができたとしても、今の俺に戦闘の心得なんてないぞ。そもそも、前の俺が単なる平民だった場合、戦ったことがない可能性すらある」


 俺は懸念点を付け加えた。

 長年の鍛錬と経験が活きる戦闘において、記憶喪失の男なんて役に立たないと。

 だが、ソラは間髪入れずに答えた。


「大丈夫。頭が覚えてなくても、体は必ず覚えてるから」

 

「体が……?」


「うん。ずっと思ってたんだけど、あなたの魔力量は普通の人よりも高いの。私は『魔眼』持ちだからわかる。あなたの魔力の感じは、才能と呼ぶには小さくて……たぶん、鍛えて高められたものだと思う。だからそれが、昔のあなたが魔力を扱っていた証拠になる」


 少しだけ頬を赤くして、ソラは続けた。


「それにね、手を……握った時に思ったの。あなたの手は、一生懸命、剣を振ってきた人の手だって。それに、体つきもしっかりしてるしね」


「俺の手が……?」


 俺は自分の手を見下ろした。

 彼女の言うように、手のひらの皮膚が硬かった。


 初めて気付いた。

 記憶のことで混乱していて、自分の手のひらなんて見ていなかった。

 でも、彼女は初めて握手を交わしたあの瞬間から、俺が戦える人間だと認識していたのだ。


「少し前にできてたことなら、きっかけさえあればすぐに感覚を取り戻せるはず。頭では覚えていなくても、長年積み重ねてきた体の感覚は、すぐに忘れたりしないから」


 体は記憶を失くしたりしない。

 それが彼女の根拠だった。


「でも、もし魔力を制御しきれずに暴走させてしまったら、最悪、体が弾け飛ぶかもしれない」


 ソラは眉をきゅっと寄せた。


「それは……そうだな」


「それに、仮にうまくいったとしても、結局魔獣と戦うのはあなた自身。だからこれは賭け。あなたの命をチップにした、大きな賭けになる」


「それでもいい?」とソラは問うてきた。


 やるか、やらないか。

 やって死ぬかもしれないか、やらずに死ぬか。

 そんなことを初対面の相手に聞く胆力。土壇場での判断力と行動力。

 強かな女だなと、彼女の印象が一つ変わった。


「ああ、やってくれ」


 俺は迷わず答えた。

 彼女を信じることに躊躇いはない。

 その覚悟を見て、ソラも頷いた。


「じゃあ、はじめるね。少し荒療治になるから、我慢してね」


 ソラが伸ばした右手が、俺の胸に添えられた。

 そして、彼女が目を閉じた、次の瞬間。

 ソラの体から白い光が放たれた。


 美しい白銀の髪が、白く滑らかな肌が、森の中で幻想的にきらめく。

 まるで妖精のようだと、俺は目を奪われた。


 ソラの指先から俺の胸の内側に、温かい『何か』が流れ込んでくる。

 実態のない空気のような、もわっとした感触だ。


「ぅ――ッ!!」


 直後、流れてきた『何か』に反応して、心臓が強く軋んだ。

 そして、俺の心臓からも『何か』が溢れ出し、胸元から赤い光が放たれた。


 全身が脈打つ。

 苦しい。

 心臓が突き破られそうだ……!

 俺は顔を歪め、胸を強く押さえた。


「大丈夫、落ち着いて、深呼吸して」


 安心させるように、ソラが声をかけてきた。

 彼女の手が、俺の背中に優しく添えられる。


「今あなたの心臓から溢れ出してるのが、魔力。心臓の出口を狭めて、魔力をゆっくり全身に巡らせるようにイメージして」


 そう、心臓だ。

 この感覚は知っている。

 血液も、魔力も、生命の源はすべて心臓から生み出される。


「ほんと情けないわね! 頑張りなさいっ!」


 不意に、腰のあたりに小さな体が抱きついてきた。

 アピスだ。

 二人に励まされながら、俺は全力でイメージした。

 魔力の放出を抑え込み、体の中に巡らせた。


 全身が悲鳴を上げる。

 骨が軋んでいる気がする。

 だが、俺は徐々に、まるで体が感覚を思い出すかのように、魔力を制御していった。

 赤い光が抑え込まれ、体が全能感に包まれた。


「すごいっ、こんなに早くできるなんて……っ」


 ソラが真紅の瞳を見開いた。


「すごい! あんた、本当は天才だったの!?」


 アピスが赤い瞳を輝かせた。


「……これが、身体強化か」


 呟いて、俺は手のひらを開閉してみた。

 体が軽い。

 力が漲ってくる。

 指の先々まで感覚が研ぎ澄まされている。

 初めての体験なのに、昔もこれを使っていたという実感があった。


「深く考えずに、本能と感覚を頼りに戦って。そしたらきっと、体に染みついた動きを引き出せるはずだから」


 ソラが腰に携えていた細剣を鞘さやごと握り、柄をこちらに向けきた。


「こんな曖昧な指示で、危険なことをさせてごめん。あとでたくさん私を罵ってくれて構わないから……だから、絶対に死なないで」


 そして、無事を祈るように唇を引き結んだ。


「……じゃあ、あとで死ぬほど罵るよ」


 俺はニッと唇を曲げて、剣を抜いた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 俺は先ほどのやり取りを思い返し、身体強化を発動した。

 目の前には今、俺達の臭いを追ってきたヘルハウンドがいる。

 場所は少し開けた草原だ。

 木々などの障害物がない戦いやすいところで、俺は魔獣を出迎えた。


 戦った経験や、剣を振った日々は、記憶の中には残っていない。

 だけど、剣の柄を握る感触はどこか懐かしい。そんな気がした。


 魔獣と戦うのは、正直怖い。

 今も体が震えそうだ。


 それでも、ソラの力になりたい。

 恩を返したい。

 絶対に、死なせたくない……!


「……よし」


 俺は眦を決した。

 同時、正面のヘルハウンドが地面を蹴った。


『グォァァア!』


 俺は少し驚いた。

 さっきまではヘルハウンドの速さに全く反応できなかった。

 だが、魔力で強化された今の視力は、その動きをはっきり捉えていた。


「見える……」


 凄まじい速さで、鋭い牙が迫ってきた。

 俺は一歩左に飛び退いて躱す。

 真横を通り過ぎたヘルハウンドの横っ腹に、両手で握り締めた細剣を叩き込んだ。


「ふ――ッ!」

『ガァァッ!?』


 剣尖が魔獣の硬い皮膚を容易く断つ。

 ヘルハウンドが断末魔を洩らし、地面に血の海を広げた。


(動いた……!)


 自分の動きに、俺は改めて驚いた。

 ソラの言うように、本当に体が覚えていた。

 本能的に剣を扱えた。

 まさか、ここまでとは……


『ガォァァアッ!!』


 すぐに次の魔獣が飛び掛かってきた。

 俺はハッとして、意識を切り替える。

 集中しろと自分に言い聞かせる。

 大丈夫だ。心臓はバックバクなのに、思考は驚くほど冷静だ。


 鋭い牙が、鉤爪が、連続で降り注ぐ。

 俺はそれを回避し続け、隙を見極めた。


 正面から迫る爪を躱す。

 ヘルハウンドの横をすり抜け、すれ違い、急停止。

 自分の右側を通り過ぎたヘルハウンドを、振り向きざまに叩き斬った。


 続いて、背後から襲い掛かる爪を身を捻って躱す。

 爪が俺の鼻先を掠め、ジンと痛みが走る。

 その爪先とすれ違う形で、無防備に開いたヘルハウンドの口の中に、剣先を突っ込んだ。

 

 そのまま剣の先端が魔獣の後頭部まで貫く。

 血が弾け、ヘルハウンドが即死した。


「後ろからかよ、今のは危なかったな……っ」


 俺は剣を引き抜き、最後の一匹となったヘルハウンドに視線を向けた。

 ヘルハウンドは眼光をグァッと裂き、吠えた。


『グォォォォォォォォォォォォオッッ!!』


 魔獣の咆哮には二つの意味がある。

 一つは、相手に本能的恐怖を与え、動きを鈍らせること。

 もう一つは、追い込まれた魔獣が死力を尽くすという宣言だ。


 そして、今回のは後者だった。

 ヘルハウンドの本気の咆哮だ。

 だが、その咆哮を正面から浴びてなお、俺の体が震えることはなかった。


「――いくぞ」


 俺は地面を蹴り付け、正面から突っ込んだ。

 全力の加速に、ヘルハウンドの反応は遅れた。


「ふッッ!」


 勢いそのまま、振り上げた細剣から繰り出される縦断の一撃。

 剣の刃がヘルハウンドの眉間に叩き込まれ、骨を経つ鈍い音を立てた。


『ガァッ……』


 べちゃっ、と脳みそが地面にぶちまけられる。

 ヘルハウンドの胴体が、ゆっくりと倒れた。


「はぁ……はぁ……うわ、血なまぐさい」


 俺は身体強化を解除した。

 血と内蔵の生臭さが周囲に広がる。

 自分でやったことだけど、気持ち悪いな……。


「けど、なんとかなちゃったな」


 ともあれ、危機を乗り越えた。

 ホッとした瞬間、疲れがドッとくる。

 俺は長めに息を吐き出して、額を伝う汗を腕で拭った。


「あんたすごいじゃない! 見直したわ!!」


 少し離れたところから興奮気味の声が響いた。

 振り返ると、両手を広げてはしゃぐアピス。

 その後ろに、目を丸くしたソラがいた。


「あいつはどこから目線でもの言ってんだ……」


 とりあえず、二人の無事な姿を見れて、よかったと思った。

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