第5話 存在意義


 運気というのは、帳尻が合うようにできているんだろうか。


 たまたま通りすがりの人に命を救われた。

 それもとびきりの美少女だった。

 こんな幸運を得たからこそ、俺はもうすぐ魔獣に食い殺されるのかもしれない。


 いや、でもやっぱり帳尻合ってなくねーか? 

 そもそも目が覚めたら記憶喪失で森の中だぞ。

 むしろマイナスだろ。

 こんなわけのわからないまま、俺は死にたくねえ……!


「遅かったぁ……っ、ど、どうしよう……」


 周りにいるのはヘルハウンドという魔獣だ。

 アピスは肩を抱き、怯えた。


「アピスちゃん、だよね? 大丈夫だから、私から離れないで」


 ソラはアピスの頭を安心させるように撫でた。

 だが、その横顔に余裕はない。


 ヘルハウンドから洩れる荒い息。

 よだれが滴る獰猛な牙。

 目先に蔓延する死の気配を感じて、ソラも、アピスも、もちろん俺も、誰もが恐怖に駆られていた。


「……で、よりにもよって、なんでお前は魔獣に追いかけ回されてんだよ」


「いや、ちょっと遠くまで遊んでたら道に迷っちゃって……そしたらこいつらが……」


 理由がガキで、俺は少しホッとする。

 だが、そんな現実逃避に意味はない。


 四方を窺うが、隙はない。

 こっちの武器はソラが構えている細剣だけ。

 だが、彼女はさやから剣身を抜いていない。

 おそらく、護身用に持ち歩いているだけで扱えないのだろう。


 体長二メートル近くある魔獣に、素手で勝てるビジョンは見えない。

 一匹ならまだ何とかなったかもしれないが、四匹は無理だ。


 ジリジリと、魔獣が擦り寄ってくる。

 獲物が逃げないよう慎重に、距離を詰めてくる。


 これはやばい。本気でやばい。

 やばい、やばい、やばい……!

 俺にも何か……何か、武器はないのか!

 石でも枝でも何でもいい!


 思考が乱れる。

 動悸が激しくなる。

 嫌な汗が背を伝う。

 そして、俺がソラの方に視線を向けようとした、その時だった。

 ソラの正面にいたヘルハウンドが飛びかかってきた。


 俺は固まった。

 牙だとか爪だとか、それだけが脅威じゃなかった。

 それ以前に、こいつらは圧倒的に速かった。

 俺は反応すらできなかったのだ。


「く、ソラッ!!」


 俺は咄嗟に叫んだ。

 ソラが食い殺される光景が脳裏を過ぎる。

 なんの意味もないけど、手を伸ばした。


「大丈夫っ!」


 だが、ソラは鞘に収まったままの細剣を棒のように扱い、魔獣の攻撃をなんとかいなした。

 俺はその光景に目を見開き、心の底からホッとした。

 よかった。俺なんかに心配されるほど、彼女はヤワじゃなかった。


 そして、俺は彼女の体が白い光を放ったのを見逃さなかった。


「ソラ、お前、『身体強化』を使えるのか!」


 彼女は魔力によって肉体を強化する術を持っていた。

 彼女の体が一瞬光に包まれたのは、魔力を解放したからだ。


「うん。でも、少しだけね。私は身体強化が苦手だから、ヘルハウンドを倒すような力はない……」


 ソラが悔しそうに言った。

 やはり、状況の打開には繋がらないか。

 ソラは僅かな期待を込めて、俺に聞いてきた。


「あなた、魔力の操作方法を覚えてたりしない?」


「悪い、覚えてない……」


 そもそも、魔力を扱えていたのかもわからない。

 魔力は全ての生物に宿っているため、身体強化は誰にでもできる。

 だが、それは長年の鍛錬を積めばの話だ。

 以前の俺が長年の鍛錬を積んでいたかすら、今ではわからないのだ。


 もし、以前の俺ができていたなら……。

 いや、無意味な思考だ。

 仮に身体強化ができていたとしても、使い方を忘れた今となっては意味がない。


「えっ、お、覚えてないってなんの話!? あんた、私を助けるって言ったくせに戦えないってこと!?」


 そこで、アピスが声を荒らげた。

 さっきまでは脅えていたが、今は恐怖のメーターが吹っ切れて興奮していた。


「助けるなんて言ってねーけど……ソラ、ひとまず隙を作って魔獣の間を抜けるか!」


「そういう流れだったじゃない、なんて役に立たないの……!!」


「うん。二人とも、走る準備をして!」


 頭を抱えるアピスを無視して、ソラが指示を出す。

 彼女は魔獣を剣でいなしながら、リュックの横ポケットから黒い球体を取り出した。

 彼女はその球体を握り締め、魔力を込めた。

 すると、球体が弾け飛び、黒いモヤが周囲に広がった。


「こっち!」


 俺はソラに腕を掴まれ、引っ張られた。

 少し足がもつれて転びかけるが、咄嗟にソラが抱き留めてくれる。

 顔が柔らかな双丘に埋まり、すぐに体勢を建て直せた。

 そのまま三人で魔獣の間をすり抜け、全力で走った。


「くっそ、こんな時じゃなけりゃ喜べたけど……! 間一髪だったな!」


「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! あんたアホなの!?」


 一部始終を見ていたアピスに呆れられた。

 だが、俺の思考はすでに切り替わっていた。


 ソラが使ったのは目眩しの魔道具だ。

 広範囲に広がった黒いモヤは視界を覆うだけではない。

 まるで生き物のように体に纏わり付き、聴覚、嗅覚など、あらゆる感覚を惑わしてくる。

 ソラが手を引いてくれなければ、俺は走るべき方向すら見失っていただろう。


「ソラ、これでヘルハウンドから逃げ切れると思うか?」


 黒いモヤの外に飛び出したところで、俺は尋ねた。

 ソラは走り続けながら答えた。


「ううん。ヘルハウンドは鼻が利くから、モヤっとボールの効果が切れたら追いつかれると思う……!」


 今は一時的に、ヘルハウンドもモヤの中で動きを止めているだろう。

 だが、俺達の足では奴らの嗅覚からは逃げ切れない。


「くそっ、どうすれば逃げ切れる……っ」


 俺は顔を歪めながら、頭をフル稼働させた。

 何か、何か手はないのか……?

 魔獣を振り切るための、例えば臭いの痕跡を消したりするような、そういう何かが!


「……一つ、策があるの」


 不意に、ソラが不安そうに言った。


「ううん、策なんて言えない、人任せの賭けになるんだけど……」


「まじか!? なんだ、策って!」


 俺はすぐに食い付いた。

 アピスも目を光らせた。

 策があるなら、やるしかないはずだ。

 何を躊躇う必要があるんだ。

 だが、彼女は躊躇いながら、言った。


「あなた、死ぬ覚悟はある?」


「え……」


 急な言葉に、俺は足を止めてしまった。

 二人も足を止めて、俺の方に振り返った。

 少し息が切れている。


「死ぬって、どういう意味だ?」


「もちろん、死なせるつもりはない。でも、そうなる覚悟があるかってこと。これはあなたの命を賭けた、あなた頼みの作戦になるから」


 俺は視線を彷徨わせた。

 死ぬ覚悟……?

 そんなの、あるわけないだろ。

 死にたくない。

 帰る場所なんてないけど、それでもこのまま死ぬのなんて絶対に嫌だ。


「もちろん、強要はしない。でも、もう私達が助かるためには、あなたしか頼りがいないの」


「俺しか……? 俺なんかに、いったい何が……」


「大丈夫、あなたは一人じゃない。私がついてる。私がなんとかする。だから、信じて欲しい。きっと、あなたにならできるから」


「俺に、なら……」


 ソラの真紅の瞳に、真っ直ぐ見つめられた。

 優しい声だった。

 でも、力強い瞳だった。

 彼女は適当なことを言っているわけではない。

 諦めてもいない。

 その覚悟が、真っ直ぐ伝わってきた。


 ……そうだ。

 何を弱気になっているんだ。

 彼女が何をするつもりかはわからない。

 でも、俺がやらなきゃ全員死ぬんだ。

 俺が勇気を出さないせいで、命の恩人が魔獣に食い殺されるんだ。


 そんなの嫌だ。

 俺は、彼女に恩返しするって決めたばかりじゃないか。

 ここで動かなければ、俺の存在価値は本当になくなってしまう。


 それに、ソラは俺に期待してくれた。

 あなたならできると、そう言ってくれたのだ。

 ただ俺を奮い立たせるための、ていのいい言葉なのかもしれない。

 それでも、俺なんかに期待してくれたことが、嬉しかった。


「俺は、何をすればいい?」


 だから、俺は命を賭ける覚悟を決めた。

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