第4話 俺の神様



 御神さんは、俺の神様だ。




 子供の頃、親が家に長くいた記憶がない。

 今の時代の言葉で表現するとすれば、ネグレクト寸前だったのだろう。

 両親は若い夫婦だった。子供が子供が育てていると近所からは陰口されるような、典型的な田舎の家庭だった。

 父親は、幼い頃から転勤が多く、長い間単身赴任をしていた。母親は何をしているのか詳しくなかったが、働きに出て夜遅くまで帰って来なかった。

 今なら二人が家計の為に苦労していたと理解できるが、幼い子供にとって最適な環境ではなかったことは確かである。


 家は常に荒れていて、どんよりとした空気が流れていた。

 幸いにも、近くにまともな感覚を持つ叔母が住んでいた。

 叔母は定期的に家に訪れ、清潔な空気を持ち込んでくれた。俺と弟が病気をすることもなくすくすくと育ったのは、ほとんど彼女のおかげである。


 彼女は、滅多に家に帰ってこない兄の為に息子たちを教育した。何の期待にも答えない義姉への愚痴をこぼしながら家事をした。

 彼女は俺がアニメを見ていたら母親のようになると脅した。勉強をサボって漫画を読んでいると、父のように社会からいい様に使われるようになると叱った。

 俺が一人で身の回りのことをできるようになるにつれ、叔母が顔を見せる回数は減っていった。

 大人の存在は有難かった。だが、幼い頃は厳しい叔母よりも、何も言ってこない母の方が好ましく考えていた。こればかりは何も知らない子供に罪はない。

 彼女にも自分の生活がある。

 俺が知る限り彼女は独身で、どれだけ俺たちに時間を割いてくれていたのだろう。

 彼女の不憫さを、いまなら同情することができる。


 

 叔母が来ない日は、俺にとってご褒美のようなものだった。

 弟の夕食を用意したあと、深夜までアニメを見ることができるからだ。

 当時、地上波で放送されていた作品はほぼ全部見ていた記憶がある。

 親にテレビを制限されている友人よりも恵まれているとさえ思っていた。

 放任に慣れていた弟も、俺がテレビの前にいるときはまとわりついてこない。彼は彼で父に与えられたゲームに夢中で、いまはゲームを作る会社に勤めている。

 兄弟の行動が逃避の一つだったと知ったのは随分と大人になってからのことだが、蓄積された知識は俺の財産である。



 ある日、俺はなんとなく寝付けない夜を過ごしていた。

 俺よりも早くに眠ってしまう弟は、今日も布団の中で指しゃぶりをしていた。

 弟がいつまでも幼い様子なのは、母のせいだろう。

 俺は周囲よりも劣る部分が多い家庭で育っていることに、気がつき始める年齢になっていた。


 そっと寝室を抜け出し、リビングに向かった。

 母はまだ帰っていないらしく、いつも玄関に転がっているヒールの靴も見当たらなかった。


 叔母は、ルーティンを大事にする人だった。

 規則正しい生活こそが美徳。毎朝同じ時間に起きて、同じようなものを食べる。同じ仕事を淡々とこなし、同じ家事をする。

 当然俺たち兄弟にもそれらの習慣を押し付け、はみ出ることは許さなかった。

 暗いリビングに灯りを点ける。

 叔母の厳しい叱咤を思い出し、灯りは最低限まで暗くした。見てるはずもないのに、今にも叔母がやってきて俺を𠮟りつけるのではないかという幻想で胸がどきどきした。

 薄暗い部屋で、そっとテレビのリモコンを手に取る。電源ボタンを押す指が震える。

 それは、俺がした初めての「大人への反抗」だった。



◇◇



『正常に配信されました』

 表示された文字を確認して、画面を閉じる。

 便利な世の中になった。

 なんて俺のような若者が言ったら、周りの大人たちは苦笑いをするかもしれない。しかし、嘘偽りなくそういう感覚なのだからしょうがない。


 昔、何かで読んだことがある。

 人は自分が生まれるときにはすでにあったものを世界の一部と感じて、物心がついたあとに発明されたテクノロジーは新しいものと感じる法則があるらしい。

 そして自分がある程度の年齢を迎えたあとに生まれたものには、自然ではないと考えるようになるようだ。

 俺はまだその域には達していないが、昔バイトをしていたときに近い様子は観察することができた。

 俺がバイトを始めた頃、クオカードがコンビニエンスストアで使えるようになったと話題になっていた。

 当時から電子マネーは存在していた。

 だが、携帯電話で支払いをする人は稀だった。

 使えるブランドもまだ限られていて、使えないものの名前を出して舌打ちをされるなんてしょっちゅうだった。多分、あれはただのマウントだったのだろう。

 それが、いつしか棚の一角を電子決済のカードで占めるようになった。

 いつの間にか、半数以上の人間が何かしらの電子決済で支払いを済ませていくようになった。

 レジでやることは増えたようにも、減ったようにも感じたくらいの頃、俺はアルバイトを全て辞めた。

 辞めることができた、と言った方が正確だろうか。

 仕事が忙しくなって収入も安定する頃には、俺も現金を持ち歩くことは滅多になくなった。


 今日、昼飯を買ったコンビニで、自分より年上の人が携帯電話で決済をしていたのを見た。

 上質なカバーをつけた最新の機種。

 身に着けているものも上品で、昔の映画に出てくるスターのような佇まいの男性は、とても素敵でかっこよく見えた。 

 俺もそういう歳の取り方をしたい。

 そう決意したことを画面を眺めながら思い出して、うっすらと映る自分の顔を引き締める。



「ん、なんか本買った?」

 御神さんが、ふいに声をあげた。

 部屋の向こうでタブレットを操作していた彼は、こちらを振り返って眼鏡をずらした。

 彼がいることを、半分忘れていた。あまりにもそれが自然で、日常だからだ。

「ごめん。通知行っちゃいましたか」

 俺のスマートフォンと、御神さんに貸していたタブレットのデータは同機している。

 仕事の邪魔になったかと謝ると、彼は優しい笑みを浮かべて首を振った。

「いや、休憩してたから大丈夫。何買ったんだ?」

「漫画です。今度出る作品の」


 今日は、御神さんが家にいる。

 お互いにオフだが、今日は夜に予定があった。

 昨晩は遅くまで収録があって、御神さんとお泊りデートができない。そう落ち込んでいたら、俺が寝ている間に家に来てくれたらしい。

 昼間で眠って、起きたら恋人の姿があった。

 幸せ過ぎる光景が当たり前のように目の前にあって、うっかりすると忘れてしまうほど自然になっていることに、俺はいちいち感動してしまう。


 御神さんは、休みのうちにチェックしたい仕事があったと言って、俺の部屋で映画を見ていた。

 俺は久しぶりに自分の家のキッチンに立って、オートミールをかき混ぜている。あとは電子レンジで膨らませるだけで、食物繊維が豊富な蒸しパンができあがる。

 前田に教わったレシピだ。

 料理と言えないくらい簡単なものだが、御神さんは俺の家で食べるおやつを気に入ってくれている。


 仕上がりを待つ間に、ふと思い出して買い物をしたのだ。

 漫画は一昨年くらいに全て電子書籍に移行した。タブレットの画面で読みたいから、購入したものはタブレットに全部送っている。

 見ていいですよ。

 いつものように声をかければ、俺よりも機械に詳しい御神さんが、機種の違う俺のタブレットを器用に操作する。

「あー、なるほど。相手、誰だれ?」

「矢川さんです。俺がネコ」

「へえ。矢川くん初めて?」

「はい」

 買ったのは、BL漫画だ。

 今度、ドラマCDの収録がある。

 出演する作品は有難いことに読ませてもらえる。でも、なんとなく新人時代からの習慣で、主演作品は自分で買いなおすことにしていた。

 

 肌色が多い表紙を見ても、御神さんは嫌な顔をしない。

 この仕事をしていれば嫌でも目に触れる機会は多くなるし、彼も何作か出演している。もともと漫画はなんでも読む俺は抵抗がないが、同業者の中には「嫌い」という人もいる。

 御神さんは、自分が出たことをきっかけに読んで、好きになったと言っていた。 

 彼は、柔軟でかっこいい大人だ。


 ダウンロードが終わった表示を見届けて、俺は彼が座るソファーへ近づいた。ホーム画面を前に柔軟をしていた背後から、指を伸ばす。

 画面に触れるだけで開く本は不思議だ。

 でも、新しいテクノロジーは便利で魅力的だ。

 そう思える自分が、俺は嫌いではない。

「お先にどうぞ」

「どうぞって、読んでもいいのか」

「その作者さんの話、面白いですよ。俺、前の作品も持ってます」

「へえ。じゃあ遠慮なく」

 昔から、漫画やアニメはなんでも好きだった。

 少女漫画と呼ばれている作品も読むし、幼女向けのアニメも見る。

 弟の影響で始めたゲームに、仕事で触れるアニメや海外ドラマ。この世にあるエンターテインメントの全てが許容範囲と言っても過言ではない。

 声優の仕事をするようになってからはますます見境がなくなった。

 最新アプリでスマートフォンの容量は常に怪しい。

 そんな俺を周囲や周りの大人は苦笑いする。

 感心して、本当に好きなんだなあとしみじみする。

  

 思えば、御神さんだけはどの反応もしなかった。

 ただ、自分との共通点を見つけて喜んでくれた。

 そういうところが好きなのだと思っているうちに、電子レンジが主張する。

 もらった紅茶を開けることを思いつく。

 御神さんは漫画を読むのが早い。

 きっと湯をわかしている間に、読み終わってしまうだろう。そして目を輝かせて、俺の好きなものを好きになる姿を見せてくれてくれるはずだ。

 


◇◇



 幼い俺は、真夜中にテレビをつけるのが初めてだった。 

 テレビは夕食の時だけ許されていた。

 ゴールデンタイムのアニメが終わる頃、叔母が電源を切る。彼女が帰ったあとは弟が眠る時間まで宿題をして、母が帰って来るまで深夜アニメを見る。

 それが俺のルーティンだった。

 それを破ることに抵抗があったのは、叔母の洗脳の一つだったのだろう。

 ドキドキとしながらリモコンを取り、電源を押した。テレビは昼間と変わらない明るさで画面を点け、俺を別世界に連れて行ってくれた。


 テレビでは、古い映画が流れていた。

 新聞なんてものは家になかったから、タイトルを調べる方法もなかった。当時のテレビはいまほど機能的じゃなかったことは、念のために付け加えておこう。


 普段見る映像と言えば、叔母が見るニュースかアニメ番組ばかりだった。

 外国の大人が新鮮で、俺はしばらく立ったまま映像を見ていた。


 何やら、学校のような場所が舞台らしい。

 日本の学校とは違い、皆ポロシャツのようなものを着ている。派手な髪やメイクをしている生徒も多く、校則がないのだと初めて知った。

 話は途中からだったが、主人公はすぐにわかった。一番派手でやんちゃな男の子だ。

 彼らは、ダンスパーティーに誰かを誘いたがっているらしい。

 俺にはわからない言い回しで女の子を揶揄う男の子たちが、新鮮だった。

 喧嘩のように言い合っているのに、次の瞬間にはハグしあっているのが不思議だった。

 気がつけば俺はテレビの前に座り込んでいて、早口で交わされる会話に聞き入っていた。


 外国の人間の顔は、区別がつきにくい。

 声はどれも日本語だが、日本人の役者が後から声をつけなおしていることは知っていた。役者の口と聞こえてくる音が微妙に合わないのはそのせいだ。

 印象的な声。

 高い声、低い声。

 金髪の役者から普段耳馴染みの声が聞こえてくるのが不思議で、俺はすっかり画面より音に夢中だった。


 ふいに、新しい男が登場した。

 彼は切羽詰まった様子で息を吸い込むと、会話をしていた主人公らにわって入った。



 ――彼女をパーティーに誘えたんだ。

 ――あの人の為なら、俺はもう死んだっていい。



 その声を、なんと表現したらいいか。


 高過ぎず低すぎない。少し掠れたような響きと、弾けるような響きが両立した、柔らかい声。

 耳にすっと入り込んで、鼓膜に響き渡る。

 水のようになめらかで心地よいのに、炭酸のように何度でもほしくなる。

 媚薬のような魅力的な響き。

 幼い知識をかき集めても表現しきれない声を、俺は「好き」だと感じた。

 


 きっとその瞬間、俺はその声に恋に落ちたのだ。



 男がいなくなっても、映画は進む。

 俺は先ほど喋った男の姿を画面に探した。

 大勢いる役者に、彼は紛れてしまっていた。首を伸ばしても映像との距離は変わらない。その後も何度か顔は映るが、喋る言葉は少ない。

 男は重要人物ではないらしい。登場してもすぐに画面の端に消えてしまい、最後まで台詞らしい台詞はあの一言だけだった。


 でも、俺には誰よりも美しい声を持つ男に見えた。


 その後、近所のビデオ屋に行って、必死に覚えたタイトルを探した。

 映画自体はすぐに見つかったが、ビデオになっているものとテレビで放送されたものでは、吹き替えをしている声優が異なるらしい。

 珍しく叔母に強請ってレンタルをしてもらいまでしたのに、求めていた声を聞くことはできなかった。

 そのまま彼の手がかり一つないまま数年が経ち、俺は小さな舞台に立つようになっていた。


 アニメ好きはそのまま継続されている趣味だった。

 アニメも声優が声をあてている。

 当たり前のことに気がついたのは中学生になってからで、そのときようやく声優という仕事を認識した。

 なり方がわからなかった俺は、高校で演劇部に入った。

 演技の勉強をしていれば声優にもなれるかもしれない。そんな甘い考えが元ではあったが、演技は思いのほか俺を夢中にさせた。

 声が特徴的だと言われるのが一番嬉しかった。

 あの人の声のようになりたくて、自分で発声を研究したりもした。


 大学に行かせてもらえるとわかったとき、俺は迷わず演劇が強い場所を選んだ。

 サークルでは本格的な集客をして、客の前で演技をすることができた。

 いつしか評判が広まり、俺はあちこちのサークルに助っ人として出演させてもらえるようになっていった。

 卒業後は、先輩の伝手で小劇団に入団することになった。

 そこでもいろいろな役を演じた。

 身長があった俺はヒール役が多かったが、声色を操り様々な人物を演じることが一番好きだった。


 そんなとき、声優を本職にしている人物と知り合った。

 彼は元々演劇畑の人間で、劇団の人と知り合いだった。

 彼が出ているアニメを俺は見ていた。今度行われる朗読劇のチケットを頂いて、俺は軽い気持ちで会場に出向いた。

 

 そこで、俺はあの声に再会した。



◇◇


「面白かった」

 御神さんが言う。

 ふと気がつくと、彼は俺にタブレットを戻しているところだった。

 ぼんやりしているうちに二人分の紅茶は減っていて、おやつの蒸しパンも食べつくされている。

 俺は広げていた台本を読んでもいないことに気がついて、少しだけ損をしたような気分になった。

 忙しい間は、次の休みにまとめて片付けようと考えている。

 なのに、いざ休みになると気が抜けて仕事ができないことがほとんどだ。


 でも、それでもいいかと思う。

 俺は、自分の生活にルーティンを作らないことにしている。

 いつでも柔軟に突発的な行動をしたい。

 そのおかげで神様に出会えたのだ。決まりきった人生では得られなかった幸福を、俺は大事にしたいのだ。

 俺は、自分の考え方や生き方が好きだ。

 叔母の呪いは根深い。親への恨みや同情は消えない。

 だが、自分で掴み取ってきた習慣や幸福は、俺だけの財産である。


 磨かれたようなダイヤの声を耳に入れて、それが当たり前のようにそこにあることに感謝する。

 そんなことをしていると大げさだと御神さんは笑う。

 だが、俺にとって何年経っても、彼の声は神様のそのものなのだ。

「この役、硝に来たのがわかるよ。俺でもこのキャスティングにする」

「ありがとうございます。結構、楽しみなんですよね。矢川さんの演技も間近で見れますし」

「矢川くん、いい声してるもんなあ」

 あなたの方が、よっぽど。

 もう何度も伝えた言葉を口の中で飲み込んで、少しだけ残っていた紅茶を飲み干す。


 二杯目は、御神さんが煎れてくれることになった。

 この家に紅茶があるなんて珍しいと彼は言う。俺はファンからもらったのだと明かして、いただきもののパッケージを見せる。

「これ鳥がモチーフで、ハバタキの衣装の色と似ていたって手紙に書いてました。いい香りですよね」

「お洒落なものがあるんだなあ」

「この店、事務所の近くにあるんです。今度、別のも見に行ってみませんか」

「いいけど、俺、詳しくないよ」

「俺もです」

 そういえば、先ほど買った漫画の中にも紅茶が出てきた。

 俺が演じるキャラクターが恋人に紅茶をふるまうシーンがあるはずだ。

 勉強をする機会かもしれないと告げれば、御神さんは「真面目だなあ」と笑う。

 彼の声が嬉しそうなのは、彼も同じくらい真面目だからだろう。

「そういえば、こないだファンの子に言われたんだけど」

 詳しくないというわりに手際いい彼は、ポットに湯を注ぎながら口を開いた。

「それ、直接ですか。手紙ですか」

「直接。ゲームのイベントに出たときだっけな。……拗ねるなよ」

「俺が御神さんのファン一号ですから」

「はいはい。で、その子が言うことには、クロウの顔立ちってお前の顔に似ているんだって。なのに声が俺だから、お得感が強いって」

 嬉しそうに語る御神さんが、新しいカップを並べる。

 同じものでもよかったが、この家にはグッズのカップがたくさん眠っているのだ。有効活用をしてくれる御神さんは、多分俺よりもこの家に詳しい。

「俺までイケメンって言われているみたいで確かに得はしている。それに、初めてクロウを見たとき……」

 彼が淹れた紅茶は、俺がなんとなくでやるよりも、色が綺麗だ。

 御神さんが淹れた茶を飲める日が来るなんて。

 俺はまた一つ幼い自分に自慢することを増やして、暖かい茶の香りを吸い込む。

「見たとき?」

「ん?」

「クロウを見たとき、なんですか」

 言葉の続きを促すと、御神さんは何故か俺の顔を見て言葉を濁した。

 しつこく何度も尋ねているうちに、せっかくの紅茶が冷めてしまう。


 やがて俺の熱心さに折れた御神さんは、俺が大好きで心地のいい声で、そっと秘め事を明かした。

「初めてクロウを見たとき、心底かっこいいと思った、なあって……」

 御神さんは、俺の神様だった。

 何もなかった俺に情熱をくれた。目標をくれた。生き方を与えてくれた。

 だからこうしていつでも触れられるだけで、俺は心の底から幸せなのだ。

「もう、死んでもいい……」

「もう少し一緒に生きてくれって」

 口癖になってしまった大切な台詞に、御神さんはいちいち向き合って答えてくれる。

 彼は、これが自分の台詞だったと気がついているのだろうか。覚えているのだろうか。まだ聞くことができない大事な記憶は、いつか、とっておきの時に明かすと決めている。



「今日、前田のところに行くの何時だっけ」

 ふいに、御神さんが聞く。

 俺は待ち合わせの時間を伝えて、彼がそういうことを聞いてくるのは珍しいと考える。

 御神さんは、時間にきっちりしている人だ。

 収録の前にタバコを吸いに行っても、いつも時間ぴったりに戻ってくる。

 あまりにもぴったりすぎてやきもきするのは、俺が演劇人間だからだ。十分前行動が染みついている身として、彼の生き方はいつまでの新鮮で、かっこよく映る。


 思わず、御神さんの顔を見る。

 マグカップを両手で弄んでいた彼は、ふいに俺を見上げた。


 彼が口を開く。

 短く息を吸うと、言葉をそっと吐き出した。


 彼が読んだばかりの漫画の台詞だと、すぐにわかった。

 俺も最初に読んだときに印象に残った台詞だった。

 ありきたりだが、矢川が演じることになるキャラクターが告げるのにはふさわしい愛の言葉だ。

 

 御神さんの声が俺の耳にぐるぐると回って、脳を溶かす。


「……なんて、な。こんな演技を見せて、矢川くんに申し訳ないな」

 彼は、現場でよく見る笑みで自分の言葉を回収した。

 おじさんがアイドルなんて。こんなおじさんがクロウ役で申し訳ない。

 最初の頃はイベントの度に言ってファンを怒らせていた。

 そのたびに全力で反論していたら、いつしかハバタキとクロウは夫婦のようだと言われるようになった。

 身近な夫婦がすれ違いばかりの両親だった。俺にとっては曖昧な評価だ。


 でも、彼は知らない。

 俺がクロウと近い役であるハバタキを全力で獲りに行ったことも。

 数年前に再会した古い映画を、何度も繰り返し「聞いて」いることも。 


 何度も聞いている所為で、すっかり口癖になってしまっていることも。


「俺、マジで明日死んでもいいです」

「またそういうこと言ってる」

「だって、今の……、お誘いですよね」

 時間を確認したのも、漫画の台詞を再現したのも、御神さんなりの不器用な愛の言葉だ。

 彼のそういう変なところで照れ屋で、不器用なところが好きだ。

 誰にも負けない声と演技があって、真面目な姿勢もあるのに遠慮がちなところも、現場で偉そうにしないところも、後輩に気を遣わせない為に時間ぴったりにスタジオに入るところも。

 全部俺が自分の力で知ったことだった。


 同じことを繰り返しているだけの人生では、決して手に入らなかったものだ。

 俺はあの深夜にテレビをつけた日のことを多分忘れない。

 でも、戻ろうとは思わない。

 新しいものをどんどん受け入れて、挑戦して、何もかもとちゃんと向き合って、全部自分のものにする。


 そう決めているから、彼を愛することに迷わない。


 腕を伸ばす。

 触れた御神さんの頬は、しっとりと熱い。

 熱を持った瞳で見上げられるともう俺は夢中になって、美しい神様を捕食することしか考えられなくなった。





 

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