第3話 居心地のいい瞳



 収録が終わっても、有川とは何度も顔を合わせるようになった。

 ただの共演相手が仕事仲間になって、収録後に飯を食いに行くようになった。

 俺が更新を再開したSNSでも、よく反応を飛ばしてくれる。

 そうしている間に、彼はあっという間に俺の生活に入り込んでしまった。


 アイドル、やってやろうじゃないか。

 そう決意してから数か月。

 俺はどうしてか、貴重な休みの日に後輩の住むマンションの部屋でのんびり鍋をかき混ぜている。



 つけっぱなしのタブレットが、次の曲を再生する。

 覚えのあるイントロに思わず声を漏らすと、ソファーと一体化していた住民が動いたのがわかった。

「知ってる? 『ぷにぷにこうちゃさん』」

 鍋から目を離さないまま、問いかける。

 寝転がったまま呻いた後輩は、まだ眠たそうな声で「いいえ」と答えた。

「日常系ですか」

「ううん。当時はそういうジャンル分けみたいなのなかったから、なんていえばいいのかな……。どっちかというと、冒険ファンタジーかな」

「ストーリーが全く想像できなくてウケますね」

 有川の声は、まだ掠れている。

 昨日は重めの収録だったと言っていた。声を枯らしやすい彼は、喉を酷使したあとはいつも電池切れのように眠ってしまう。それで食事を抜くことも多いようだ。

 不規則な生活になりやすいこの仕事は、体調管理も重大な務めである。

 やっぱり今日は、家に来てよかった。

 ふつふつと沸騰した鍋の中身をもう一度攪拌してから、火を止める。


 懐かしいメロディーは、俺が子供の頃によく見ていたアニメの主題歌だった。

 この年代生まれに刺さる、なんてタイトルがつけられたプレイリストだ。王道だが、聞いていてテンションはあがる。

 元々、料理をたくさんする方ではない。

 気合入れにはちょうどよくて、すっかり家事の御供なのだ。

 歳が違うと、見てきたアニメも違う。

 有川と互いの趣向を話す時間は、わりと好きだ。

 共通の話題がアニメの声優なんて二人とも真面目極まっているが、仕事にも活きるなら一石二鳥だ。

 

「飯、できたぞ。食べるのはもう少し後にするか?」

「すぐ食べます。でも、あと二分待ってください」

 振り向くと、有川はまだソファーの住民だった。

 だが、覚醒はしたようだ。大あくびをしながらしょぼしょぼの目で携帯電話を睨みつけている。

 仕事の連絡なのか、仲間内の会話なのか、寝ぼけていても液晶をタップする指はしなやかだ。 

「ゆっくりでいいよ。先に洗い物したいから」

 サビに入った曲を聞きながら、調理に使った道具を水につける。

 仕事で疲れて帰ってくる後輩の為にミネストローネを作るなんて献身的な日が来るなんて、数か月前の俺に言っても絶対信じてもらえないだろう。

 トマトの香りが残るボウルやまな板を洗いながら、思わず笑う。

 だが、そんな変わってしまった自分が嫌いじゃない。

 そういうことを思えるようになったのは、いまの生活が楽しくて、充実していて、満ちてたりているからだろう。



 仕事仲間が気の置けない友人となって、有川の家にも遊びに行くようになった。

 少しして、彼から真っ当なお付き合いを申し込まれた。

 この歳になって改められる気恥ずかしさはあったが、真剣な彼の気持ちに応えたくなった。

 俺は案外表情の変化が多い男にすっかり夢中だったし、有川は何故か俺を神格化しているところがあるらしい。初対面の言葉に嘘偽りないと知ったのは、彼が「恋人」になってからである。

 俺は久しぶりにできた親密な存在を持て余しつつも、少しずついろいろな顔をみせてくれる彼の存在に慣れていった。


 文字通り深い関係になったあと、単に、顔が好みだったのかもしれないなんて思うこともあった。俺はもともとゲイだし、有川のことはイケメンだと素直に思う。

 だが、恐らく違う。

 あの瞬間、俺は彼の瞳に捕食されたのだ。

 あれから随分と月日が経ったようにも感じるが、いまもなお、彼の瞳には、俺しか住んでいないらしい。向けられるまっすぐな好意は心地が良く、俺は彼に食べられるがままである。



「すいません、洗い物までさせて」

 ふいに、近くで声がする。

 いつの間にか完全に覚醒したらしい有川が、キッチンに入ってきた。

 俺の手元を見て、しゅんと前髪を垂らす。寝転んだことでぐしゃぐしゃになったテクノカットは見る影もなく、頬にはまだソファーの痕がついている。

 色男がしょんぼりとしている顔は、可愛いものだ。

 俺は水道を止めて、タブレットの音楽を止める。

「食べた皿と鍋は硝が洗ってよ。そっちの方が大仕事だから」

「うー……、すいません。気を使わせて」

「いいから。さ、食うか」

 まだ湯気の立つスープを皿によそう。

 他に用意していた総菜や作り置きの漬物なんかを並べるだけで、食卓はそれなりに豪華に見える。

 大人しく席について礼儀正しく手を合わせる男を見て、やっぱり来てよかったなんてもう一度思う。

 事務所も違う。

 受ける仕事の数も違う。

 互いのスケジュールが合わないときは何日も会えないなんてことはザラにある。いまのところ俺と有川の唯一の接点は「キラプロ」だけだ。

 お陰様で好評な滑り出しのゲームは、多くの人に愛される作品となったらしい。

 不随して、俺も女性向けと呼ばれているジャンルからの誘いの声が増えた。おじさんにもまだまだ活躍の場所があったと思えるのも、アイドルになるという一大決心のおかげである。


 もりもりと食事を口に運ぶ有川の様子は、まるで育ち盛りの青年のようだ。

 可愛いなあなんて目じりを下げて彼の為に作ったスープをすする。トマトとコンソメさえあればできるミネストローネで喜んでもらうのは申し訳ないような気がするが、凝ったものを作れるほどの技術はないのでしょうがない。

「御神さんのミネストローネが食える日が来るなんて、俺、死んでもいい……」

「いまお前が死んだら俺が疑われるだろ。毒を盛ったのかなんて言われちゃうよ」

「それは駄目。御神さんを犯罪者にするくらいなら一緒に死にましょう」

「いちいち物騒なんだって」

 有川は、今時風の見た目のわりに、言動がいちいち大げさだ。そういうところがしっかりオタクっぽくて面白い。

 声優を目指したのも、アニメが好きというまっすぐな動機だと、事務所の公式ホームページに書いてあった。若い声優には多いタイプだが、彼を知るまでのギャップにいまでも笑ってしまうことが多い。



 だが、それも表向きの理由だと豪語する彼は、本当に俺のことが好きらしい。

 有川は、俺の声をずっと探していたという。

 彼が見たのは、古い外国の映画だった。

 俺が吹き替えで演じたのは、数シーンしか出てこないようなチョイ役だ。彼は出てくるたびに印象的なセリフと仕草で画面を魅了する。俺はたった数行の台詞を遅くまで練習して収録に挑んだ記憶があった。


 ――あの人の為なら、俺はもう死んだっていい。


 マイクに向かって叫んだ声は、古いビデオと共に人々の記憶から薄れていく。

 でも、それが有川の人生を決めたのだと、男は言う。


 「クロウ」は彼に似ている。

 勝手につなげた連鎖に唾を飲み込んだとき、心はすでに決まっていた。



 昨日、仕事が終わって帰ると、有川からメッセージが来ていた。

 先日俺に新しく決まった主演の祝いで、意味もなくケーキを買ったという内容だった。

 添付されていた写真には、コンビニのケーキが、どこかの収録現場のテーブルに置かれている様子が写されていた。

 自分のことでもないのにケーキを買ってまで祝う男に、俺はすっかり夢中だ。

 すぐに支度を整え、遅くまで収録をしているであろう後輩の為に、最近買った鍋を取り出した。まだ新品に近いそれを箱に詰めて、必要な材料を調べた。

 朝早くに有川のマンションに向かうと、住民はソファーで力尽きていた。

 合鍵の交換は交際を始めた次の日に済ませていた。俺が寝室から毛布を持ってきてやると、一瞬だけ目を覚ました男は、飛び上がらんばかりに喜んだ。


 有川の黒い瞳が、輝く瞬間が好きだ。

 クールな表情は崩れ、一気に頬を上気させる。目なんて潤んで、今にも泣きだしてしまいそうだ。

 喜ぶ有川の顔を見ていると、この先も一緒にいたいなんてべたなことを考えついてしまう。

 それ以上に離れようとしても、彼が俺を離さないのかもしれない。



 食事を終え、張り切って洗い物をする有川をキッチンへ見送って、俺は彼が寝転んでいたソファーに移動する。

 俺は明日も珍しくオフだ。

 有川は昼から収録がある。

 二人で共同で使っているスケジュールアプリとにらめっこして、またしばらくすれ違う日々に嘆息する。

 四六時中、毎日べたべたと一緒にいたいわけではない。

 だが、疲れている様子の後輩を、ゆっくりさせてやりたいと思うくらいは許されるだろう。

 鞄の中に入れっぱなしにしている封筒のことを思う。

 すっかりよれよれになってきたが、ほんの少しの期待でつい持ち歩いてしまう。

 俺の方が、若造のようだ。

 苦笑いをしながらアプリを閉じて、動画アプリを開きなおす。

「あ、そうだ。御神さん」

「ん?」

 動画サイトの広告で、カージナルが歌いだした。普段はすぐにスキップボタンを押してしまう広告も、自分が出ているものだとつい最後まで再生したくなってしまう。

 自然、有川も口を閉じていた。


 広告に使われていたのは、先日発表になったばかりの新曲だった。

 はじめてのチャート一位を獲ったあとの新曲で、期待やプレッシャーもある中のリリース。しかも、同日には後輩グループが電撃デビューを飾り、話題はそちらに集まっている。

 だが、堂々とパフォーマンスをするカージナルには、自信と勇気が備わっている。

 全てゲームの中の出来事なのに、まるで本物のアイドルの話のようだ。

 演じている俺でも、つい感情移入をしてしまう。

 本当にアイドルになった気分なわけではない。

 彼らの苦労や努力を俺は知らない。知った気分になった演技にはしたくないとは思っているが、多分俺が実際のアイドルに敵う日はこない。

 だが、クロウを演じているときだけは、誰よりも輝くアイドルになりたいという決意を燃やしている。


 広告の三十秒を聞き入ってから、有川を振り返る。

 彼も曲に聞き入っていたようで、皿を洗う手は完全に止まっていた。俺の顔を見て我に返り、再びスポンジを握りなおす。

「クロウの下ハモ、超かっこいいですね」

「サンキュ」

「貢木さんのベースがいい味出してるんですけど、前田もどんどんうまくなるし……。でもクロウがマジでかっこいい。クロウがいなければカージナル成り立たないってくらいすごい」

「……なんか、俺のこと呼んでなかった?」

「あ、そう。こないだのイベントで貰った温泉、いつ行きましょうか」

 何気ない言葉に、息が気管に入った。

 咳払いで誤魔化して、首を傾げる有川と改めて向き直る。

「いつって、一緒に行くつもりか」

「だって、ペア券ですよね。あ、御神さんが別の人と行きたいなら使っちゃっていいですけど、俺も行ってみたいんで付き合ってもらいます」

「俺も、行くならお前とと思ってたよ」

「よっしゃ。楽しみですねえ」

 うきうきで流しに向き直った有川は、軽快に洗い物を再開した。

 俺は慌てて動画アプリを閉じる。


 「こないだのイベント」も、キラプロで行ったものだ。

 カージナルのデビューイベントと題したそれは、トーク半分、パフォーマンス半分で行うよくあるステージイベントで、俺と有川も勿論参加した。

 俺は人前で歌唱披露をすることが珍しく、それなりに話題を作れたらしい。緊張した甲斐があったと漏らすと同期の貢木からは笑われた。

 イベント中、ミニゲームコーナーでは、リーダーサブリーダーコンビの俺たちが優勝をした。報酬として最近オープンした高級スパの体験チケットをもらったのだ。

 オフの日に二人で行きます。

 ファンの前で有川が公言したことを真に受けるほど初心ではないが、期待して、俺が預かったチケットを持ち歩いていたのは事実である。


 しかし、売れっ子の有川とそこそこ中堅の俺に、自由な時間は多くない。

 このままズルズルと消えてしまったもおかしくない約束だ。そんな諦めの気持ちが、スケジュールアプリを見る度に募っていた。

 こうして、時間を見つけて会えればいい。

 そう細やかな気持ちを持つ俺と違って、どこまでもまっすぐな男は、まっすぐに好意を伝えてくれる。

「そんな暇なんて、お前にないだろ」

「ありますよ。二十四時間営業だし泊まれるし、俺は絶対御神さんと行きたい」

 俺の呟きが、聞こえていたらしい。

 水音に負けない声量で、有川は言う。

「なんなら、今から行けますよ。俺は若いし体力あるし、御神さんに合わせるって言ってるじゃないですか」

「……」

「でもそういうと御神さんが怒ると思ったから、ちゃんと決めましょう。計画」

 水音が止まる。

 有川がこちらに向かってくる、裸足がフローリングを歩く音が聞こえてくる。

 歩幅にして三歩。

 図体がでかく足も長い男のものにしては狭い部屋は、あっという間に俺の元に辿り着いてしまう。


 繕う暇すらなかった顔は、赤かったのだろう。

 俺を覗き込んだ有川が笑う。

 一見クールな色男は、案外、俺の前ではよく笑うのだ。

「すいません。俺、いっぱい御神さんに癒されてほしくて、何度も勝手に予定いれようとしてました」

「……マジか」

「でもチケットは御神さんが持ってるし、俺とは行きたくないかもって躊躇って……。さっきも、結構勇気だして誘いました」

「そうなら、もっとわかりやすくしろよ」

「すいません、『大根役者』で」

 彼は、昔よく言われていたという雑言で謙遜する。

 有川をクールだと最初に言い出した人間は、見る目がない。いまではそう思っている。

 彼は、昔一度耳にしただけの俺の声を、いつまでも探していたという。

 声に辿り着くために紆余曲折し、役者として舞台に立ったのもその一つらしい。経験が浅く大根役者だと客に揶揄われても、彼は自分の目的を見失うことはなかった。

 誰よりも熱い男は、自分の力でほしいものを手に入れることができる。

 後から抱きしめられ、そのしっかりとした体温と体躯に俺は甘えることしか考えられなくなる。 


「俺も、いつ行こうっていうかずっと悩んでた。でも、お前に無理させるのは嫌だからさ。こうして飯作りに行くなんて口実つけて様子みて……、我慢してた」

「え、じゃあ最近よく来てくれてたのって、俺を誘うためだったんですか」

「いや、それは普通に……会いに来てた、けど」

「けど?」

 どうにでもなれと、ソファーの横に置いていた鞄を引き寄せる。

 取り出した封筒を見た有川が、目を輝かせるのがわかった。

 黒目がちの瞳が目に見えて綻ぶ。

 そのギラギラとした表情を見るのは、嫌いではない。


 だからつい、俺は彼を喜ばせようとしてしまうのかもしれない。


「やべえ。俺、御神さん超好きだわ……。本当好き。大好き」

「わかったから。あー、なんか、普通にさっさと計画立ててればよかったな」

「俺がすぐ言わなかったからですね。イベント終わった瞬間、すぐ決めるべきでした」

 カージナルのリーダーのハバタキと、カージナルを影支えるクロウ。

 彼ら二人がファンから「オシドリ夫婦」なんて呼ばれるようになっていったのは、彼らの名前が鳥を連想させるからだろう。

 呑気に考えていた俺に、男同士のキャラクターが「夫婦」と呼ばれるのは、関係性こみなのだと教えてくれたのはマネージャーの八幡である。

 

 事務所の違う有川と俺の絡みが増えたのも、最近どこに行ってもペア扱いされるのも、くすぐったいが悪い気持ちではない。

 実際、有川とは声や呼吸も似ているらしく、演技の相性は悪くない。

 だからといってここまで深い関係になるとは思わなかったが、自分の変化を楽しめるくらいの余裕はある。


「決めた。俺、明日の収録マッハで終わらせるんで、二十時に待ち合わせましょう」

 有川が俺のタブレットを奪い取る。

 スケジュールアプリに予定を打ち込む指は、いつだってしなやかだ。俺がなかなか習得できないフリック入力で追加された予定が、新たにカレンダー上に保存される。

「マッハって、仕事はちゃんとやれよ」

「うっす。この日最後の仕事が歌録りなんで、俺がめっちゃ練習すればすぐ終わります」

「ガラガラの声で現れたら帰るからな」

「めっちゃケアします」

 有川が封筒を再び俺の鞄に戻した。

 その札束でも触るような慎重の手つきに笑いながら、俺は改めて動画アプリを開く。


 夕食のあとは、放送された自分の仕事をチェックするのが長年の習慣だった。

 すっかり把握している有川は、大人しくキッチンに戻っていく。片付けの続きを済ませて、彼が家事をこなす音が細やかに続く。



 その日のノルマを終えた頃、バスタオルを持った有川が再びソファーの横に戻ってきた。

 子犬のような顔で、可愛い後輩は俺を見上げる。

「高級スパは明日ですが……、今日は有川スパで我慢してもらえますか?」

 きゅん、としか言いようがないような音が、胸の奥でする。

 アイドルにファンサをもらうファンはこういう気持ちなのかと内心で頭を抱えながら、俺は大事なメンバーで恋人の、可愛いぼさぼさ頭を撫でた。



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