第2話 有川硝



 アイドル、やってやろうじゃないか。

 そう決意した日から、早数十か月。

 

「初めまして。有川硝ありかわ しょうと申します」

 こちらを凝視して、三秒。

 情熱的に注がれた視線と、黒くはっきりとした瞳の色。

 俺は、この男と深い関係になれそうだ。そう思ったあの日が、全ての始まりになった。




 八幡から資料をもらった数か月後、アイドル育成ゲーム「キラメキプロジェクト」は本格始動をした。

 打ち合わせや関係者との挨拶は、今時らしくほとんどリモートで行われた。

 俺の元に台本が届いたときゲームはまだ完成していなかったが、プロジェクトのお披露目時期は予定より早まったようだ。

 まずはカージナル含め主要キャラクターが発表され、少しずつ全貌やゲームのシステムが公表されていくらしい。クロスメディア展開も決まっていて、出演者にはすでに濃厚なスケジュールが約束されている。

 カージナルは最初のアイドルなだけあって、広報活動にも幅広く参加させてもらえるらしい。俺はいつにない「露出」の機会にジムに行く日を増やしてしまった。


 最近のソシャゲは、本編よりも前に「推し」を決めるのが主流らしい。

 絵やシナリオについているファンは勿論、声優でキャラクターを選ぶ人も多いと聞いている。有り難い話ではあるが、中身はただのおじさんだと知っているファンにも受け入れてもらえるのか不安な気持ちもあった。

 「クロウ」がどれだけの人に気に入ってもらえるのかはわからない。

 求められるものが増える分、応えたいという気持ちも成長していく。



 そんな時、共演者が決まったと連絡があった。

 豪華声優と謡うのにふさわしいメンバーの名前に、思わず声が漏れる。

 資料を持ってきた八幡には呆れられたが、自分が有名声優とは呼ばれないことも理解している故の反応だ。自分自身がアニメもよく見る為、錚々たる面子に興奮が勝つ。

 並んだ名前には間違いなく人気な人も多く、肩の荷が降りた気分だと言ったら叱られてしまうだろう。

 大所帯の現場になりそうだ。

 同期と呼べる名前も混ざっている。かと思えば大御所や新人に近いような名も含まれている。いい意味で現場の空気が想像つかなかった。

「すごいねえ、これ」

「最初のお披露目では、まだどのグループが最初のデビューを飾るのかは明かされないそうです。御神さんも口を滑らせないように気をつけていただけると」

「そういう情報、すごく大事」

 八幡の注意にメモをしようとすると、画面の向こうにいる本吉が資料の後ろにも禁則事項がまとまっていると教えてくれた。

 顔見知りのプロデューサーは、キラメキプロジェクトのリーダーでもあった。

 これからも長い付き合いになるであろう男は、まだ若い。しかし、面白く丁寧なシナリオを書くことは以前の現場で知っている。

「さっすが、本吉さんのホンだね。細やかで有り難い」

『実は、もう新プロジェクトが始動することと、主役級の役者さんの名前は、噂を流してるんですよ』

「そうなの?」

「カージナルからは有川さんと川島さんですね。あとはヴァーミリオンの小笠原さんと、ローズマダーの蘭輿らんこしさん……」

 彼が資料をめくりながら挙げた名前は、もらったばかりの資料にも並んでいる。

 俺が所属することになった「カージナル」は、若い役者が三人いた。

 一人は共演経験のある前田進まえだ すすむ

 もう一人が直接の共演はないが、以前同じメンバーが携わっていたアニメで名を並べたことのある川島科乃かわしま しなの

 そして最後の一人が、今回初対面となる有川硝だった。


 有川の顔と名前は知っていた。

 最近売れっ子の声優だ。

 確か川島と同じ事務所に所属していて、露出も多い「イケメン声優」である。


 流行りのテクノカットで涼しげな風貌は、男の俺でも見惚れてしまうスマートな印象だ。

 長身で美形となればモデルにでもなればいいとも思ってしまうが、彼は声もいい。

 元々は小劇団で役者をやっていたという彼は、発声が身についていて、マイクに愛された声をしている。どんな役でも説得力を生み出してしまうセンスがあって、業界でも注目株と言えるだろう。

 以前、彼が主演を務めていたアニメシリーズがヒットしている。

 飽和気味な男性声優界において、有川は間違いなく今年の顔の一人だ。

 まだ若いのに大したものだと、俺はどこか蚊帳の外から眺めていた存在でもあった。


 カージナルのハバタキが有川に決まった時、彼もオファーを受けた側かと思った。

 物語の中盤に登場する「ヴァーミリオン」のメンバーは半分がそうだと聞いていたし、カージナルのリトルを演じる貢木も、熱心な誘いがあって受けたと言っていた。

 話題の声優をオファーできるなんてすごい。

 そうのんきに考えていた俺に、有川はオーディションで役を勝ち取ったのだと教えてくれたのは、広報の人間だった。

 有川さんと御神さんを同時に押し出すなんて、贅沢すぎて怖い。

 そういっていたベテランの彼は、連日残業であちこちに宣伝をかけあっているらしい。


『実は、有川さんのSNSの投稿が、匂わせなんて騒がれてしまったんですよね。変な憶測が飛び交ってもしょうがないので、先にいくつかの情報は公開することになりました。僕たちももっとはやく徹底してればよかったんですが』

「注目されている人は、些細なことですぐ話題になっちゃうからね」

『僕もあのくらいの発言なら全然漏洩にならないと思ったんですが、集団っていうのは力がありますから』

 本吉の説明に、八幡が早速検索をかける。

 該当の「匂わせ」発言はたった数文字の簡単な報告だった。

 有川が毎日健康にやっていることをファンに知らせる程度のものに見えて、正直なにが匂うのかすら俺には検討もつかない。

 しかし、ファンの執着というのはすごいものだ。

 打ち合わせか何かで同日に複数の役者が顔を合わせていると誰かが嗅ぎつけ、有川の発言がやり玉にあがってしまったらしい。様々な憶測が飛び交うことになり、関係のない場所にまで噂が飛び火する騒ぎとなっていたようだ。

 本吉は騒ぎを受けて方針を変え、有川や川島などの話題性のある役者の名で「噂」を広めることにしたようだ。

 情報社会らしい宣伝方法に感心をして、俺は大人しく禁則事項に目を通す。


 守秘義務が課せられているものは、大体どの作品でも同じだ。

 ファンの楽しみを奪いたくはないし、たくさんの人が関わっている分、俺の迂闊さで台無しにすることはできない。

『なかなか反応もいいみたいですし、結果としては最高の流れですよ。アイドルにスキャンダルや噂はつきものですから』

「本吉さんが柔軟で実力のあるプロデューサーだから、そういうこと言えるんだよ」

『御神さんに褒めていただけるなんて、光栄です』

 隙あらばこちらを持ち上げる彼は、人が出来過ぎている。


 後日、いよいよ最初の収録がある。そこで俺はメンバーと顔を合わせることになるようだ。

 実際にアイドルグループを組むわけでもない。

 だが、そのくらいの意気込みで挑みたくなるスケジュールとプロジェクトの熱意に、胸が弾み始める。


 やるからには、丁寧に。

 いつも胸に刻んでいる言葉を繰り返して、息を吸う。

 俺は、緊張しいの自覚がある。

 緊張して身体が硬くなったり、呂律が回らなくなったり、というわけではない。

 いざ始まってしまえばリラックスして取り組めることが多いし、自分はやれるという経験から来る自信もある。

 仕事があるのは、求められている仕事に応えることが出来ているからだ。そこを卑下するのは評価してくれた人に逆に失礼である。


 しかし、いつになっても、仕事の前は緊張する。

 こればかりは、生まれ持った性質や考え方の癖というやつだろう。

 余裕がなくなれば、焦りが行動にも出る。四十になるおっさんが周囲へ八つ当たりをするなど目も当てられないので、メンタルを調整することは、俺の中で大事なルーティンの一つだった。

 資料を読み込むのも、下準備を欠かせないのも、そのためだ。

 ひと月にこなせる仕事の数は少ない。

 事務所には迷惑をかけてばかりだが、八幡はそのあたりをよくわかってくれていた。彼が担当になってからは俺も調子を崩すことなく仕事が出来ている。


 資料に並ぶ若手の名を眺める。

 彼らはきっと、休む暇もなく働いているはずだ。

 俺なんかとはくらべものにならない活動量に、想像だけで目が回る。

「有川くんって、どんな子なんだろうなあ」

「そういえば、御神さんってSNSやってましたよね」  

 俺の独り言を八幡が拾った。頷いて、すっかり眺めるだけになっているアカウントを見せる。

 すいすいと画面を操作した若者は「やっぱり」と小さく声を上げた。

「有川さん、御神さんのことフォローされてますよ。返してあげましょうよ」

「そうなの」

 戻ってきた画面には、俺の数か月に一度くらいしか動かないアカウントを眺めている稀有な人たちが並んでいる。

 仕事仲間や古い友人のアイコンに混ざって、宣材写真の美しい顔の写真があった。

 先ほど発言を確認したときにも目に入ったはずの、涼しげな顔だ。

 いつからそこにあったのかもわからない。

 どこかで見かけてフォローしてくれていたのだとしたら、申し訳ないことをしてしまった。

「フォローしとく。長い付き合いになりそうだし」

『有川さん、良い子ですよ。御神さんと共演できるって喜んでました』

 本吉の持ち上げに恐縮しながら、慣れないアプリをタップする。

 フォローの欄に新しい名前が並び、ついでにおすすめされた共演者もフォローしていく。

「あ、御神さん、公開状態で仕事の話をするのもダメですからね。全部外から見えちゃうんですから」

「一応、アプリの使い方は知ってるよ……」

 アイドルをやるならば、俺も頑張らなくてはならない。

 一気ににぎやかになった画面を見ながら決心すると、それこそ匂わせだからやめてくれと本吉に笑われた。



 

 

 カージナル顔合わせの日は、猛暑日となった。


 俺は緊張のせいか、早めにスタジオに着いてしまった。

 ロビーでどうしようかと途方に暮れていると、気がついたスタッフが控えの部屋まで案内してくれた。

 普段は時間まで駐車場で寝ていることも多かったが、ここは車で来れない場所だ。同じように時間を持て余した関係者が多くいるらしく、クーラーが効いた部屋にありがたく入る。


 扉を開けて挨拶をする。

 見知った顔と初めての顔が半々で、懐かしい顔もいくつかある。

 視線を感じて部屋の奥を見る。

 そこには若い男が数人座っていた。幾人かの顔は知っている。川島や蘭輿の姿もあったから、あのあたりに出演者が固まっているようだ。

 集団から、一人の男が腰をあげる。


 ずんずんと近づいてくる顔は、知らないはずなのに、すでに知っている気がした。

 記憶が、先日見たばかりの宣材写真と重なる。

 脳内で二つが一致するのと、彼が俺の前に立ちはだかるのは、ほぼ同時だった。

御神蒼生みかみ あおいさん」

「はい、」

「初めまして。俺、有川硝と申します。キラメキプロジェクトではハバタキ役を頂戴いたしました」

 早口で告げられ、言葉に詰まる。

 写真や映像では見たことがあったが、思っていたより背が高かった。俺も上背はある方だが、彼を見上げる形になったことに驚いてしまう。

 はきはきと所属事務所を告げた若手は俺を凝視するように見つめると、折り目正しく頭を下げた。

 今時、こんなにしっかりとした挨拶ができるやつも珍しい。

 圧倒されてから、まだ何も言っていないことを思い出した。

「御神です。これから長い付き合いになると思うから、よろしくお願いします」

 有川につられて、俺も丁寧な挨拶になってしまった。

 周囲に集まってきたスタッフたちが、何故か拍手をする。

 盛大に迎えられているようで照れくさいが、居心地の悪い空気ではない。


「俺、御神さんに憧れてこの業界に入りました。お会いできて光栄です」

 拍手がやんだあと、有川が言った。

 周囲の注目に気づいていないのか、気にしていないのか。まっすぐにこちらを捉える瞳には曇りもなく、蛍光灯を反射してキラキラとさえして見えた。

 整えられた前髪の間から、広くしっかりとした額が見える。

 微かに汗をかいているのは、彼も到着したばかりなのだろう。

 彼も自分と同じ人間なのだと何故か感じて、身構えてしまった気持ちがほんの少しだけほぐれた。

「そんなこと、初めて言われたよ。ありがとうございます」

「社交辞令じゃありません。マジです」

「ん?」

 軽く流した会話に噛みつかれて、首を傾げる。


 嘘をつかれたとは思わなかったが、本気にしていなかったのは確かだ。

俺は声優としてのキャリアでいうと遅咲きの方だし、少年少女があこがれるほど花のある役者でもない。

 有川と俺は、事務所のプロフィールによると、干支一回りの歳の差があった。

 世代の違いと言われても、想像の範疇を超えている。

 相手を子供というつもりはないが、そこまで離れてしまえば別世界の人間だと考えた方が話は早い。

 見上げた顔には、皺ひとつない。

 写真で見るより男前だ。

 そんなことをぼんやり考えていると、ふと、彼に言わなくてはならなかったことを思い出した。


「そうだ。SNSのフォローありがとう。ずっと気がつかなくて申し訳ない」

「いえ。こちらこそ、ありがとうございます。俺、御神さんからフォロー通知来て、もう死んでもいいって思いました」

「死……?」

 大げさな言葉に思わず聞き返すと、彼はニコリともせずに首を横に振った。表現は過激だが、冗談らしい。

「でも、御神さんと仕事ができる機会を逃すわけにはいきませんから、死ぬ気で今日まで生きました。ハバタキ役は死んでも手放しません」

「そう、か」

「はい。今日は、よろしくお願いします」

 再び丁寧に頭を下げられ、俺もつられる。

 至近距離でかち合う瞳は、真剣そのものだ。

 真顔で冗談を言うタイプなのかとも思ったが、そういうわけでもないようだ。

 遅れて、彼の言葉の意味を実感する。

 どうやら彼は、思っていた以上に俺のことを認識していたらしい。

 不思議な子だと首を傾げているうちに、知り合いのスタッフに声をかけられ、彼から離れることとなる。



 一通りの挨拶を終え、空いた椅子に座る。

 いつの間にか集合時間になっていた。

 共演者や関係者が集まり、今日の流れの打ち合わせが始まる。実際のブースに入るのはまだ先になりそうだが、やることは山積みだ。

 通常、ゲームの収録で出演者が顔を合わせることは少ない。

 ある程度まとまって収録にはなるが、収録ブースに入るのは基本一人だ。割り当てられた台詞を順番に録音してあとから繋げることが多いのが、アニメの収録と異なる部分である。

 しかし、今日多くの共演者が集められたのは、グループごとの掛け合いを大事にする本吉のこだわりである。その分、誰かのミスで簡単に時間が押すため、生まれる緊張感も大きい。

 持ってきていた水で、喉を潤す。

 緊張はこれ以上ないくらいしている。

 でも、いまは別の感情も大きい。


 少し離れたところで待機している有川の姿が、自然と目に入った。

 ここからでは彼の横顔しか見えなくて、端正な顔は前髪でほとんど隠れていた。


 彼の視線。

 黒々とした大きな瞳。

 芸術のようにすっと通った鼻。

 声優のような影の仕事をしているなんて勿体ないと言いたくなるような、美しい男だった。

 その男が俺を見る仕草が、目に焼きつけられたように残っている。


 胸が煩いのは、緊張とは違う高鳴りだ。 

 感情に当てはまる言葉を探す。最終的に、いい役がもらえたときと同じ、という曖昧なものに落ち着いた。

 その時すでに、俺は有川の瞳に魅入られていたのだろう。今となってはそう思う。


 俺は一目で、あの美しい生き物の虜になってしまったのだ。




 衝撃的な挨拶をしたわりに、その後の彼の態度は淡々としたものだった。

 最初に各自台詞録りをすることになって、一人ずつブースに入る。その間にカージナルの持ち曲を練習して歌収録に備える。五人の掛け合いまで一気に録るから、現場は長丁場になった。

 カージナルには、気心が知れた貢木もいる。

 他の三人も実力でのし上がってきた面々なだけあって、息を合わせるのは難しいものではなかった。

 何度かやり取りを重ねただけでオッケーが出て、ディレクターからも褒められた。


 その後は、ハバタキとクロウの二人芝居の時間になった。


 アイドル育成ゲーム「キラメキプロジェクト」は、キャラクターの成長を描くことに焦点を当てている。

 数多くのキャラクターものを扱う作品がキャラクターが歳をとらない形を採用する中、キラメキプロジェクトは実際の人間のようにキャラクターが歳を重ねる。

 更に年月が経つにつれ、アイドルの流行りも変化していく。

 最初のアイドルとしてデビューした「カージナル」には様々な後輩ができ、いつまでもトップでいられないという試練が降りかかっていくことになる。


 俺が声をあてるキャラクターの「クロウ」は、カージナルのサブリーダーだ。 

 グループの中では最年長で、事務所の入社時期も誰よりも早い。それだけデビューに時間がかかったということにもなる名の通りの苦労人のようである。

 彼は、グループの顔として皆を引っ張る様子が印象的だ。

 粗削りのままデビューが決まったグループは、空回りをすることも多かった。

 クロウが皆を叱咤し、話し合い、時にはぶつかり合って、いつしかグループの絆を深めていく。

 カージナルが音楽チャートの一位をはじめて取るシーンで、一章は終わる。

 待望のシーンを収録しているときは、俺も柄になく涙が出そうになった。それだけ丁寧にキャラクターを描く作品は、俺にとっても挑戦と刺激の連続だった。


 有川は、カージナルのリーダー「ハバタキ」役だ。

 なんでも、彼の声の為に大規模なオーディションがあったと聞いている

 長いプロジェクトになることは、最初から決まっていた。

 ゲームはアプリゲームの形をとっているが、サービス開始時点で様々なメディアミックスも決まっていた。

 本編登場より前に、育成メンバーを応援する方法もたくさんある。詳しいことは俺も把握できていないが、新人声優にとっても活躍の場として門が開かれていたというわけだ。

 そんな中、役を勝ち取った男は、もともと小さな劇団の役者をやっていたらしい。

 基礎ができている発声は、聞き取りやすく、耳にも心地がいい。

 だが、どこか掠れたような響きが残る。そんな唯一無二の声を武器に、近頃様々なアニメなゲームで活躍している若手声優だ。


 リーダー格の二人は共に行動することが多く、グループについて話し合うシーンは緊迫した空気すら漂わせなくてはならない。

 台本の最終チェックをしていると、遅れてブースに入ってきた有川が、俺見て首を傾げた。

「……失礼だったら申し訳ないんですけど」

「ん?」

「御神さん、緊張されてますか」

 突然の指摘に俺も驚くと、彼は、その日初めて表情を崩した。

「あ、すいません。マジで失礼でした。御神さんのような神に向かってマジで死んだほうがいい……」

 早口でまくし立てた男は、まるで、怒られるのを恐れる子供のように眉を下げていた。

 見るからに慌て、自分が放った言葉を撤回する。その様子がやっと年相応に見えて、俺はマイクの前で自然と笑ってしまった。

「怒ってないから、大丈夫。本当のこと言われて、驚いただけ」

「じゃあ、本当に……?」

「うん。俺、緊張しいなんだよねえ」

 ガラスの向こうでは、ディレクターたちが打ち合わせをしていた。

 こちらの声はまだ向こうには届いていないだろう。

 有川と共演するのは、今日が初めてだ。

 しかし、一目で俺の性質を見抜いて指摘までしてきたのは、流石に彼が初めてである。

 挨拶したときのまっすぐな瞳を思い出す。

 彼の瞳には、本当に俺がしっかりと映っているらしい。

 まるで捕食されたような気分になったのは、あながち間違いではないようだ。そう思うと変に身構えた気持ちが楽になって、自然、呼吸が深くなる。

 メイキングカメラが他の共演者を映しているのを確認してから、彼にだけそっと明かすことにした。

「どうしても本番に弱いんだ。いまでも収録の前は緊張している。この歳になっても情けないけど」

「……情けなくなんか、絶対、未来永劫、あり得ないです」

「ありがとう」

 彼の表現は独特だが、若者言葉の一つなのだろう。

 伝えたい気持ちはそのまま届いて、失礼な感じは一切しない。


 ヘッドホンをつけた有川が、台本を開く。

 ちらりと見えたページにはみっしりと書き込みがされていた。

 今日の数時間で全てを理解したわけではないが、彼はとても真面目なのだろう。彼の人気や実力は、その真摯な姿が認められた結果だ。

 

 やっはり、すごい子だった。

 俺も台本を開く。

 ディレクターが気を遣ってくれて、マイクは互いの顔が見える位置にセットされている。

 有川と改めて向かいあえば、こちらを凝視するまっすぐな瞳で視界がいっぱいになる。

 こちらを凝視して、三秒。

 情熱的に注がれた視線と、黒くはっきりとした瞳の色。

 俺は、この男と深い関係になれそうだと、何故だか強く思った。


「御神さん。俺、緊張が解けるおまじないを知っています」

 小声で囁かれて、ヘッドホンをずらす。

 聞かせてほしいと頼むと、彼はなめらかに動く唇をそっとすぼめた。

 ほとんど聞こえるか聞こえないくらいで吐き出されたのは、俺の名前だった。

 

 あ、お、い。

 美しい唇が優しく囁き、頬をゆるめる。


「こうやって、誰かに名前を呼んでもらうんです。蒼生さん、俺が見てますよ、って」

 花が開く。

 そう表現するのにふさわしい穏やかさで、有川が笑った。

 美しい。

 誰にも、渡したくない。

 役者ならだれもが持つ一番熱い部分が、カッと燃え上がる。

 止まった心臓が動き出すのと同時に、収録が始まる合図があった。

 ハバタキが喋る。

 クロウが応える。

 二つの声が響き合った瞬間、俺はまた、言葉に当てはまらない感情で胸がいっぱいになった。




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