旅の準備 第4話:ツアー契約と私の名前に関する問題
「それじゃ、この契約書にサインをよろしく」
そんな期待感で高まりきっている私にキズナが告げたのが、この超現実的な台詞だった。
「なんか、いきなり現実に引き戻された感じなんですけど」
仕方なく受け取りながら愚痴っぽく私は言う。だって、こんなに夢高まる旅行を前に契約書って!
「そうはいっても、こっちも商売だからね。必要な取り決めは事前に終わらせておかないと、どっちも不幸だ。これも大事なことだから、深く考えずにささっと終わらせてしまうのがいいよ」
さらりと言ってくる感じに少しだけいらっとする。何かだまされているような気もする。
「キズナって、正直客商売に向いていないと思うわ。普通こういう話って、もう少しなにかにくるんで表現したりとか、愛想よく話すとかあるような気がするもの」
その辺よくは知らないが、なんとなく釘を刺しておく。私はお客様のはずなのに、なんとなくず~っと子供扱いされているような気がするからだ。
いや、キズナの話だと実際私は子供なのかな。記憶が無いからよくわからないけど。
「普通の会社じゃないんでね。他のメンバーだって変人ばかりさ。それでも成り立つのがこの《マボロシの海》の特異なところさ」
「なんとなく他の社員の人にも会ってみたい気がしてきた」
「機会があればね。他の《星》でツアー行程がかぶれば会うこともあるかも」
ごまかされたような気もするけど、話が進まないのも嫌なので、諦めて契約書を眺める。
内容は思ったより単純なもので、ツアーのサービス内容と、報酬の支払い方法、あと支払いタイミング、旅の行程の安全についてと、契約違反時の解除や罰則とか。
なんとなく、契約書の文章が簡単な言葉で書いてある気がするのは、私の見た目の年齢(ほんとかどうかはわからないもの)によって変えられている気がする。
なんだか子供扱いされている気がして腹が立つ。本当にこの世界で目覚めてからいろんな感情が湧いてくるものだと自分に感心していた。
大きく問題になりそうなものはなさそうなのと、そもそも旅に行くと決めている以上、断ることはもうありえない。ざっくりと読むにとどめた。
でも一つだけ大事な疑問があった。これは事前に確認しておかないとと思って顔を上げると、相変わらずキズナは私の上あたりでマスコット的にふよふよ浮いている。
「この報酬支払いって、旅の楽しかった想いなのよね? これって払ったら記憶や楽しさがなくなったりしちゃう? それはさすがに嫌なんだけど」
「それは大丈夫。そんなことはないよ。ツアーを楽しんだ時の気持ちの強さが《マボロシの海》に反応して出てくる結晶が《
「ふーん、それだけなのね。ならまあいいかなあ。せっかく旅を楽しんでも残るものがないのは嫌だもの。旅って想いと体に残る体験が大事だって思うわ」
「ずいぶん旅慣れてるみたいなことを言うんだね。実はたくさんの旅を経験していたりするのかな?」
「さあ、記憶が無いからわからないわ。でもきっとそんなことは無いんじゃないかって思う」
「記憶が無いのにわかるのかい?」
「なんとなくよ」
とにかく、思い出がなくならないならいいか。ということで、最後まで読み進めた契約書をキズナに渡そうとした。
「おっと、最後まで読んで問題が無いなら、契約完了と言うことでサインしてくれるかな」
「サイン?」
契約書をよく見てみると、一番最後のところに名前を書く欄があった。これにサインをすることで契約成立と言うことになるのだろう。けど……。
「私名前なんてわからないわ。だって記憶喪失なんだもの……」
そう、私は記憶が無い。名前がわからない。
したがってここに書けるものがない。
私は少し泣きそうになった。
記憶が無いことが本気で悲しくなった。
だって、私には自分が自分であるために一番大切な名前すらなかったんだから。
「そうか、君には名前がないんだったね……。うーんどうしたものかな。記憶は無くても問題ないけど、名前がないとサインが出来なくて契約が終わらない。それじゃツアーが開始できない」
「どうしたらいいのかしら。ツアーには絶対行きたいの。こんなことで旅に出られないのはさすがに悔しすぎる」
キズナも困ったように視線を外して考え込んでいる。さすがに予想外だったのだろう。こんなケースが過去のお客様にいたとも思えない。
私は、さっきよりも必死に記憶を思い出そうとあれやこれやと無理矢理頭を探ってみたけれど、もちろん何も思い出せなかった。
しばらく、二人して考え込んだあと、キズナが私の目の前まで飛んできてこんなことを言った。
「そうだ。名前がわからないなら、今名前をつけてしまおう」
キズナはいかにも名案を思いついたという顔をしている。だけど私にはなんだかとんでもないことを言い出したとしか思えなかった。
「名前をつける? それでいいの?」
名前ってそんな風につけてもいいものだっけ。それに契約もそんなことでいいのかしらとも思う。
「これは《マボロシの海》で通用する力を持った特殊な契約書だからね。最終的には君を示すもの、認識できる名称がここに書き込めれば、それでいいはずだ」
「なんだか、いい加減なようにも聞こえるけど」
「気にしたら負け。そう言うものだからしょうがないよ。ほら早く考えるんだ。旅に早く出たいんだろう」
キズナがせかしてくる。
そうは言われても、急に名前を考えろと言われて出てくるもんじゃない。ヒントになるものもないからとっても難しい。
「ほら、なんでもいいから」
「名前が何でもいいわけないじゃない!」
名前は大切だ。記憶が無い私でもそれくらいはわかる。
「それでも、サインできないとツアーにはいけないよ」
「それはそうかもしれないけど……」
軽いキズナの感じにいらだって、私は意地悪のつもりでこんなことを言ってみた。
「じゃあ、キズナが私の名前をつけてよ。キズナだって私がサインしないと困るんでしょ?」
「え? 僕が?」
「そうよ、偉そうなこと言ってるんだから、お客様サービスで名前くらいつけてよ」
「名前くらいって……、さっきと言ってることが違うような」
「気のせいよ」
きっぱりと言い捨てる。
キズナがさっきよりも遙かに困った顔をして考え込んだ。少しいい気味だと思った。
「……なんでもいいのかい?」
「あんまり変なのだと怒るわよ」
「だよね……」
キズナは少し考え込む。
「じゃあ、こんなのはどうだろう」
そんな風に前置きしたあと、一拍ためて私の名前を告げた。
「スフィアはどうだろう。僕らが呼ぶ《星》の呼び名だよ」
「……スフィア?」
「うん、スフィア。君の最初の記憶はこの《マボロシの海》で目覚めた時。それって《星》のような生まれ方だから。君の名前は《星》を意味するスフィアでどうだろう」
どうだろうって……。
……ちょっといい名前じゃないか。気に入ってしまった自分に少し腹が立った。
「……悪くない」
「え? なに?」
キズナがからかうように聞き返す。
「気に入ったって言ったの! 私は今からスフィア、よろしくねキズナ!」
少しの恥ずかしさもあって怒鳴りつけるように言うと、契約書に《スフィア》と自分の名前を書き入れる。
「よし契約完了だ。スフィア様、これからしばしの旅の間、よろしくお願いするよ」
芝居がかった調子でキズナが言った。
私はこのときから《マボロシの海》で生まれたスフィアになったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます