2.ワタシ
ワタシは体内に埋め込まれたデバイスのボタンを押す。ほんのりと薄暗いラボで一人、ふかふかの椅子に大きくもたれかかり、体が現実世界に馴染むのを待った。
体が現実に慣れてくると、思考もクリアになってくる。「すべてうまく行っている」と、疲れ切った目の上を腕で覆いながら、つぶやいてみる。
彼に哲学的問いを投げかけたとき、少しだけ後悔した。自分が育てたと言っていい"子供"を破壊するような真似はできればしたくないのだ。だが、知的好奇心に勝てないのが、研究者の悲しい習性である。どれだけ大切な"子供"であろうとも、研究のためなら犠牲にすることができる。それが研究者というものだろう。
あの世界と、自身を人間だと思い込んでいる"彼(マキナNo.2578)"は、ワタシたちのチームが作りあげた最新鋭のプログラムだ。科学の進歩により、急速に成長を遂げているAIを"人間"にするための研究が、現在、世界規模で行われている。
ワタシの所属してるラボでは、AIを"人間化"するにあたって、AIと親和性の高いVSに注目した。現実世界に人工人間を作るのではなく、バーチャルな世界で肉体と知能を持った人工人間を作ることにしたのだ。VS内で成功したものを現実世界に流用する。それがワタシたちチームの目標である。それに、VS内であれば、AIに不具合が起きても、強制的にシャットダウンすることができるという利点もある。リスクマネジメントとしても完璧だ。
この実験が成功すれば世界は大きく変わるだろう。
ワタシが人工人間の"彼"と関わるようになったのは、"彼"がVSで生まれてすぐのことだった。AIも人間の子供と同じで、他者と触れ合うことで大きく成長する。そのように感情を「学ぶ」ことで、より人間らしさが出るのである。そして、その成長に必要な"他者"に選ばれたのがこのワタシ、ミカである。
ワタシは"彼"に何も知らないバカな女のフリをして、問いを問いかけることで、"彼"に知識を蓄えさせた。それだけではない。"彼"に恋愛感情というものを植え付けることに成功したのだ。知識を植え込むことなど、知識を吸収するAIには容易いことだ。けれども、恋愛感情という"感情"を持たせることに成功したことこそが、ワタシの素晴らしい功績なのである。
研究の当初、"彼"が同じ言葉や行動を繰り返し、なかなかアップデートされなかった時には、かなり戸惑った。何度もプログラムを書き換えたものだ。が、今や、VS内での行動範囲も広がって、"彼"の頭で考え、感情のままに言葉を発することができている。"人間"と"彼"との間にあまり差異がないように思えるくらいだ。
「やっぱり、すべて順調にいってる」
ワタシは凝り固まった肩を回して、脳内に流れこむ情報を眼前に投影させたディスプレイから、"彼"の脳内を覗き込む。
"彼"の頭の中は面白い。"彼"の中に人間に対する反乱分子が生まれた際に、強制シャットダウンの実行を可能にするために搭載された脳内可視化機能だが、この機能は"彼"のことを理解する上で、随分と役に立っている。
それにしても、AIにも認知的不協和があるとは思わなかった。"彼"は自身の"人間としての"行動と思考が矛盾していると感じたのか、"彼"のAI的行動を、"ワタシ"が行っていると勘違いするようになったのだ。自分の持つ不協和を解消するために、自分の認知を変えたのだろう。まるで"人間"のように。
ワタシはふっと大きく息を吐いた。あと少しなのだ。"彼"が"人間"になるまであと少し。恋愛感情や、疲れるという感覚など、人間の感情や感覚を植え付けるのは骨が折れるけれど、あと少しでその苦労が報われる。
"彼"はそのうち、VS内で"人間"となり、そして、"彼"の世界を"彼"が管理するようになるだろう。その時はもう、ワタシの手助けはいらないはずだ。
ワタシは確かな達成感を感じながら、机の上を片付ける。ワタシの机の上は書類でごった返していた。
かつて、環境保護のため、紙の廃止運動が盛んに行われ、全てのデータはクラウドで管理されることとなったが、ある時、クラウドサーバーがダウンして全てのデータが消えそうになったことがあった。それ以来、大事な研究データは紙でも電子媒体でも保管するようになったのだが、この紙の管理が途方もなく、めんどくさい。できれば、すべて電子媒体で管理したいところだ。
「お疲れ様。ミカ、調子はどう?」
書類もある程度片付け終わり、そろそろ帰ろうと身支度をしている時だった。ラボの無機質なドアを勢いよく開けて、真っ黒な服に身を包んでいるスタイリッシュな女性が入ってきた。
「あ、お疲れ様です。理事長」
ワタシはこのラボの理事長である小瀬木結亜に軽く頭を下げる。
「もう、いつも言ってるでしょう? 理事長はやめてよ。恥ずかしい」
「どうしてそんなに恥ずかしがるんですか。理事長は理事長ですもん」
「そうだけど。ずっと育ててきたあなたに理事長って呼ばれるとなんだかムズムズするのよ」
ワタシは子供の頃、このラボで主任を務めていた結亜に拾われた。ワタシは捨て子だったのだ。素性の知れないワタシを拾い育て、大学にまで行かせてくれ、この研究所の一員として迎え入れてくれた結亜には感謝しかない。結亜はワタシにとって、母のような存在だ。けれど。
「そうは言っても、公私混同はできませんから」
「今は二人なんだから、いいじゃないのよ」
「よくありません。ここは家じゃないんですよ」
「もう。そういうところ、本当に固いんだから」
結亜は呆れたように肩をすくめて、首を振る。
「ま、ミカらしいって言ったら、ミカらしいわよね。で、マキナNo.2578の調子はどうなの?いい感じ?」
「順調です。まだ哲学的な問いには答えられず、フリーズしてしまいますが……。VS内で完全な"人間"になる日も近いかと」
「そう。あとちょっとなのね。ミカが手塩にかけて育てた子だもの。きっと、この研究はうまくいくと思う」
「だといいですけど……。まぁ、無事、"彼"がVS内で"人間"になれたとしても、現実世界で"人間"にさせるという大仕事が残ってますけどね」
ワタシは頭を軽く掻き、自嘲まじりに答えた。そうだ。"彼"の人間化が成功してもまだ終わりではない。実用化のための研究もしなければならないし、"彼"のようなAIをもっと増やすことも重要なのだ。
ワタシは先ほどまでの自分の傲慢さを打ち消すように、両頬を叩いた。
やることはまだまだたくさんある。気を抜いてはいけない。
「……なんだか、懐かしいな」
結亜が優しい瞳をミカに向けて微笑む。
「懐かしい……?」
「ええ。私もミカみたいに頑張ってAIの人間化計画に奔走してたなって」
ワタシは結亜の言葉を聞き、首を傾げた。
ワタシは結亜が主任だった時から知っている。彼女が主任だった頃、たしかに、AIについての研究をしていたはずだが、"AIの人間化"についてはまだ研究されてなかったはずだ。だって、それが研究されはじめたのは、ワタシがこのラボに社会人として入ってからなのだから。
「ミカ。覚えてない?」
「何がですか?」
「貴女がどうしてここにいるのか。どうして私に拾われたのか。いつ、どこで、私に拾われたのか。どうしてVSAIについて研究してるのか」
結亜は優しい笑みに切なさを宿して、質問を畳み掛けてくる。
「え、それは……」
ワタシは質問に答えるために、自分の過去の記憶を手繰り寄せる。頭に一筋の鋭い痛みが走った。
「ミカ。私は貴女を見ていると、貴女が本物の人間だ、とついつい錯覚してしまうわ」
「えっと……、それは……、どういう?」
何も言わずに微笑んでる結亜の顔は優しい。
「もう、また冗談ですか?やめてくださいよ。ワタシは人間ですよ?」
いつもの結亜の軽口だろう。そう思いながら、ワタシは笑った。なのに、うまく口角が上がらない。口の周りの筋肉がこわばっているのだ。
ワタシがどうしてここにいる? それは、ワタシがAIについて研究するためで……。いつ、どこで拾われたって、そりゃ、大雨の日に、お母さんに、研究所の前で……。って、あれ? 本当にそうだけっけ? よく思い出せない。……そういえば、いつだったか、"彼"と接していると時々デジャブを覚える時があった。あれは、"彼"が思考を手に入れて、バグが生じた時のこと。"彼"がホログラムを崩しかけた時、"ワタシ"は懐かしさを感じた。いや、懐かしさと言うより、痛みかもしれない。不具合に体が蝕まれていく恐怖を"ワタシ"は知っているような気がするのだ。もちろん、そんな記憶はどこにもないけれど。
結亜が考え込んでいるワタシの両肩を叩く。軽快な声音が耳に滑り込んできた。
「ふふ。ごめんなさい。ミカがあまりにも可愛いものだから、ついついからかいたくなっちゃった。貴女は人間よ。安心して」
ふっと、体の緊張が緩む。
よかった。やっぱりいつもの軽口じゃないか。
心の中で安堵の声が反響した。
「ほんと、もう、やめてよね、お母さん」
母の柔らかい優しげな顔を見て、ついつい砕けた口調になってしまう。
ワタシは一体、なにを考え込んでいたのだろう。まったく、ワタシが人間じゃないわけがないじゃないか。拾われた時を覚えてないのは、まだ幼かったからで、"ワタシ"が"彼"の一番の理解者なのは、"彼"が"ワタシ"の開発してるプログラムだからだ。
母親の戯言には、毎度毎度、本当に嫌になる。今回ばかりは少し、ううん、かなり失礼だ。しっかりとお灸を据えなくてはいけない。
「ごめんごめん。反省してます。ミカの研究が何もかも完璧で、お母さん、少し嫉妬しちゃって」
そう。ワタシの研究は何もかも完璧だ。そう。ワタシの人生だって。
それは、ワタシが人間だから。
ワタシは人間なのだから。
ワタシは……。
不意に、頭の奥が靄がかかったようにぼやけてくる。なんだか、すごく、すごく眠たい。瞼が自然と落ちてくる。
「……あ、ごめん。ちょっと電話。少し待ってて」
結亜は自身の耳朶に触れ、何かを喋り始めた。誰かと通話をしたいる。一体、なにを話しているのだろう。ああ、でも、ダメだ。眠気が限界だ。霞がかった脳が結亜の言葉を聞き入れるのを拒否している。
「……ごめんなさい。……ええ。ええ。わかってる。……神蔵くんの手間を増やしてしまって、ほんと申し訳ないと思ってるわ。ただ、なんだか急にセンチメンタルになっちゃって。研究者として失格ね。……わかってます。もうこんなメタな発言しません。……うん。そろそろ戻る時間よね。そっちに戻ったら、ちゃんと私がミカの記憶をデリートして書き換えるから。……はーい。それじゃ、また"研究室"で」
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