VSAIに関する観察記録

佐倉 るる

1.ボク


 太陽の沈まないこの世界に、彼女は決まった時間にやってくる。虹色のホロホロとしたおぼつかない細かな多数の長方形の光を身に纏い、突然世界に現れるのだ。ボクは光を注視して、彼女の姿がハッキリと明確になるのを見届ける。


 おぼろだった姿が輪郭を帯びる。彼女だ。


 ボクの胸は高鳴った。昨日会ったばかりなのに、毎日会っているのに、彼女が現れることがこんなにも嬉しい。


「ミカさん!」


 ボクは目の前に突如現れたミカに駆け寄って、とびっきりの笑顔を向ける。ミカもニコリとはにかみ、そして、申し訳なさそうな顔をして、割れたスマートフォンの画面にかかる虹色の線ようにザビザビしている両手を合わせた。


「ごめんなさい。いつもより二分三十六秒遅くなっちゃった。待った?」


「いや、全然。ボクも今来たところ」


 これは嘘だ。ボクはミカが来るずっと前から、ここでミカを待っていた。だけど、それがバレるのはなんだか気恥ずかしくて、ボクは小さな嘘をついた。


 そよそよと吹く風が木々を揺らす。街外れにあるこの場所は、緑豊かに生い茂っていた。木々の隙間から太陽の光が溢れ落ち、暖かく穏やかな雰囲気を醸し出している。


「今日はどこに行く?」


「あぁ……、えっと、こないだは街に出かけたし……。その前は湖。海にも行ったし、竹林にも入ったもんなぁ……」


「この辺はあらかた行き尽くしちゃったよね」


「そうなんだよ。まぁ、一度行った場所だとしても、ミカさんと一緒なら楽しい気もするけど」


「そうね……。……ねぇ、もう少し遠くの方へ行ってみる? 記録更新できるかも」


 ミカはニカッと悪戯っぽい笑みを浮かべる。ボクはわざと視線を頭上の枝葉に向けた。


 どうしよう。


 ボクは思い巡らせる。ミカを遠くへと連れて行っても平気だろうか。最近、ミカの行動範囲拡大のために、少しずつ移動距離をのばしているのは事実だ。が、ここから半径三キロ以上先に進むのは不安だった。


 前のように、目の前からミカがいなくなってしまったら、どうしよう……。


 背筋がぞわりと粟立つ。想像しただけで恐ろしい。以前、ミカの移動範囲外に足を踏み入れた時、彼女はホロホロとした光になり、消えかけたことがあった。できることなら、前轍を踏みたくない。


「やっぱり、ダメ?」


 ミカが瞳を潤ませて首を傾げる。ボクは頭を掻いた。


 こんな瞳で見つめられたら、ダメとは言いづらい。なんてったって、ボクはミカに惚れてるんだから。ミカの現れる何時間も前から、待ち合わせ場所で待つくらい、惚れているんだ。ミカもそれがわかっているのか、何かをおねだりする時、こうしてあざとい動きをする。


「……やっぱり危ないよ。遠くに行くのはもっと体と機械が慣れてからで……」


「でも、ワタシ、貴方と砂漠を見てみたい。雪だって見てみたいの。頭が狂うほどの暑さや凍えるような寒さを体験してみたいのよ」


「そう言われても……」


 ミカはまっすぐにボクを見つめる。ボクは気まずさを誤魔化すように、再び頭を掻いた。


「はぁ……、わかったよ。その代わり、無理だってわかったら、すぐに引き返すからね。いい?」


「うんっ! もちろんっ! ありがとう!」


 ミカが笑顔の大輪を咲かせ、グイッと体をボクに寄せる。ぎゅっと腕に巻きついてきたミカは、優しい温もりと柔軟剤の混じったような甘やかな香りと重さ持っていた。ニセモノではないと、ここに存在する人間だと、その熱が匂いが重さが訴えているようだ。


「どういたしまして」


「じゃあ、行こう! 新天地を目指して!」


 ミカの声は華やぐような明るさを宿していた。そして、いつものようにミカの右手がボクの左手を奪い取る。

 温かい。柔らかな手のひらは生命力に溢れている。ボクはこの手を失いたくない。たとえ、それがこの世界が見せるニセモノの存在だとしても。


 ボクは繋がれた左手にぎゅっと力を込める。


 もし、ミカが消えそうになったら、前みたいに完全に消える前に、この手を引っ張り上げればいい。完全に消滅さえしなければ、修復することができるアバターなのだから。


 ボクとミカは『とにかく遠くへ』を目標に北へ歩く。進む先は見渡す限り浅緑で、木々の明るく爽やかな木の葉がボクたちの旅路を後押ししている。


「ねぇ、今回もやっぱり歩くの?」


 ボクは不満を声に滲ませて、口を尖らせる。


「もちろん! だって、ワープなんてしたらつまらないでしょう?」


「つまらなくても、目的地のすぐそばまで一瞬で着くし、なにより疲れないじゃないか」


「大変な思いをして、目的地に着くのがいいんじゃない。達成感よ、達成感」


 ミカはこの広大な大地を自分の足で踏み締めることに異様にこだわっていた。


 この世界には車も電車も飛行機もなく、移動する手段といえば、徒歩か、特定の地点に超光速で瞬間移動(ワープ)するかのどちらかだ。ワープを実行するには、各地点にあるワープ登録所へ行き、そこの電子メディアに名前、生年月日、住所、自分の身分がわかる書類、その他諸々の情報を登録しなければならない。一連の手続きはお役所的でめんどくさいが、一度登録してしまえば、どんな場所からでも登録した場所までひとっ飛びすることができるのだ。


 とても便利な機能なため、この世界にいる人々はほとんどワープを使って移動している。


 だから、ミカが徒歩にこだわる理由がよくわからなかった。


「それに、ワープしたらワープ酔いが酷いじゃない。ワープで酔うのは御免なの」


 ミカはボクの数歩先を歩きながら、答えた。ボクも彼女の歩幅に合わせるため、歩調を少し早める。

 ミカがワープ酔いをするなんて意外だ。ボクも詳しくはわからないのだが、この世界の時空と重力を歪めることで瞬間移動することを可能にしているらしい。中には急速な空間の歪みに耐えきれず、乗り物酔いのような感覚を持つ人もいるという。


「ワープ酔いか。ボクはしたことないからわからないけど、そんなに辛いものなの?」


「うん。かなりね。一度経験したら、二度と味わいたくないくらい、辛いわ」


 ミカが肩をすくめる。ボクが一度も経験したことのないワープ酔いをミカがしたことがあることに、やはり違和感を覚える。


 だって、ミカはこの世界において人間が操作していないキャラクター(Non Player Character)、つまり、バーチャルスペース(VS)のNPC(AIアバターと呼ぶ人もいる)だからだ。それなのに、人間のような感覚があることに疑問を抱いてしまう。


 ミカがNPCであることを知ったのは、ちょうど一年前だった。ボクは一年半前からこのVSに入り浸るようになっていて、四六時中VSの世界にいた。VSは仮想現実世界、つまり、ゲームの中の世界のようなものだ。昔はゲームをやる時にパソコンやテレビにゲーム機器を繋げて、ゴーグルをつけることでVS内に入っていたらしいが、ボクが生まれた現代では、そんなまどろっこしいことをしなくても、体内に埋め込まれたデバイスのボタンを押せば、いつでも簡単にVS内に入り込める。


 VSの中では現実世界と同じように、学校に通えるし、仕事もできるし、映画鑑賞や観劇、スポーツや旅行などの娯楽を享受することもできる。もちろん、遊ぶためにはお金(VS内で使用できる仮想通貨が存在している)が必要だ。それを稼ぐにはやはり、仕事しかない。


 ミカに声をかけられたのは、この世界の維持費として、事前にチャージ(現実世界の現金を仮想通貨に変換)しておいた資金が底をつき、VS内で職を探している時だった。いきなり、「ねぇ、バーチャルスペース進化論についてのモニターになってくれないかしら?」と声をかけられたのだ。なんでもミカは現実世界でVSの研究をしているらしく、自身のことをこの世界を構築している開発者、すなわち、『神』だと述べた。ボクは『神』に選ばれたことに優越感に浸りながら、そして、NPC技術の発展、ひいては、AI(人工知能)技術の発展という人類の大願に役に立てることを嬉しく思い、彼女の研究に手を貸すことにした。……なんて、カッコよく言ってみたけれど、本音を言えば、研究費として提示された金額に目がくらんだ、と言うのが一番大きい理由だ。

 モニターの仕事は思った以上に簡単なものだった。ミカがログインしている時は常に共に行動し、このVS内に存在しているNPCを見かけ次第、話しかけ、どれほど言葉や感情を学習しているのか調査するという単純明快なものだ。ボクはミカと一緒に毎日NPCに話しかける。そうして、あることに疑問を持ち始めた。


 これボクがいる必要、ある?


 ボクとミカがやってることは全て、ミカ一人でもできるような内容だ。なのに、なぜボクを必要としているのか。


 人というのは一度疑惑を持ったら、疑問が解決するまでモヤモヤする生き物らしい。ボクの疑問は瞬く間に、ボクの全身に駆け巡り、ボクの言動を支配した。ミカに疑いの目を向けながら、慎重に行動するようになったのだ。こうして、とうとう一つの答えに辿り着く。それは、ミカがNPCであるということだ。


 おそらく、"現実世界の誰か"が、『バーチャルスペース進化論』を研究しているのは確かなのだろう。そして、ボクがモニターに選ばれたのも本当なのだろう。ただ異なるのは、研究の対象が街のNPCではなく、ミカだ、ということだ。ミカはVSの開発者が作った『開発者』のNPCで、どこぞの開発者さんがボクという人間と触れ合うことで、ミカがどう変化していくのかを確認しているのだろう。


 ボクが、ミカがNPCだと確信を持てたのには理由がある。まず、ミカが時折、前日に話した内容と全く同じ言葉を吐くことがあるという点だ。それも、一言一句同じであるのだ。この症状はNPCによくあることで、言葉をあまり「学習」できていないNPCは、自分の中にある語彙で会話をしようとする。その結果、同じ言葉を繰り返すという傾向にある。


 さらに、決定的だったのは、ミカと街中のNPCを研究するに当たって、ミカが毎日同じルートしか辿っていないという点だ。これも行動範囲を決められているNPCによくある振る舞いだ。


 ミカがNPCだと気づいた日からボクは、ミカにミカ自身がNPCであることを悟られないように慎重に行動した。おそらく、ミカ自身は自分がNPCであることを知らない。きっとバレてしまえば、研究がおじゃんになってしまう可能性もある。だから、ボクは細心の注意を払っていたのだ。


 データとも言えるミカに惹かれていったのは、共に研究を始めて三ヶ月ほど経った頃だっただろうか。徐々にミカの言動の種類が増え、行動範囲も広がってきた時だ。


「ねぇ、そろそろ街の外のNPCを研究し始めてもいいと思うんだけど……。どうかな?」


 ミカの眼差しがボクの機嫌を伺う。ボクはこの言葉を聞いて有頂天になった。だって、これは、ミカが活動範囲を広げることに成功したということだ。ミカというNPCが進化している。それもこれも全て、ボクが研究に協力していた成果だ。ボクの功績が認められたと言っても過言ではない。


 だから、ボクは上機嫌のまま、彼女の誘いに二つ返事で了承した。


 ミカと初めて踏み出した外の世界は、緑が美しく、命の生動を感じさせる心地の良い場所だった。美しい緑はミカの心を掻っ攫う。


「……すごい。すごい。すごいよ!」


 ミカは興奮の声を上げた。


「街の外はこんなに綺麗な場所だったんだ。こんなに綺麗なんだったら、もっと早く街の外へ調査し始めればよかったなぁ……」


「うん、綺麗だよね。ここは春エリアだから、他の場所に比べて気候も良く、過ごしいいところのはずだ」


「春エリア?」


「そっか……。知らないのか……。このVS内は、春夏秋冬がエリアごとに分かれてるんだよ。この場所はずっと春しか来ないし、他のエリアもずっと同じ季節を繰り返しているんだ」


「どうして?春夏秋冬巡った方が情緒的で素敵なのに」


「さぁ。ボクみたいないちプレイヤーには、お偉い開発者さんの気持ちなどわからないさ」


「ふぅん。そう……」


 興味なさげに頷いて、ミカは空を見上げる。


 どきっ。


 突然、胸が跳ねた。


 ミカはこんなに美しい女性だっただろうか。


 空を見上げるミカの整った輪郭が木漏れ日を浴びながら、淡く浮かび上がる。肩甲骨あたりまで伸びた真っ黒な髪は、艶めいている。全体的に華奢で、顔も小さい。リップをつけているかのように煌めいて見える小ぶりの口は色気があった。


 ボクは首をブンブンっと勢いよく振る。


 彼女の姿は、アバターだ。そもそも、ミカはNPCで実体など存在しない。だから、この感情は持つべきものではないのだ。


 心が警鐘を鳴らす。


 そして、次の瞬間、ミカの体に異変が起きた。ミカの体は半透明になり、アナログテレビの砂嵐のようにザビザビうねっている。異様だ。異様な光景に、後退りした。


「これは……」


「だいじょ……荳亥、ォ?……す……縺斐>……顔してる……繧九¢縺ゥ?」


 ミカの声が機械音に変わる。


 どくんっ。


 先ほどとは違う意味で心臓が跳ねる。鼓動が早まり、呼吸がしづらい。


 やばい。やばい、やばい、やばい。


 ボクの体が直感する。このままじゃ、ミカが消滅してしまう。おそらく、ミカの知能の成長スピードが、今、ここにいることに追いついていないのだろう。街の外に出るのはミカにはまだ早かったのだ。


 ボクは脳を懸命に働かせた。


 ミカを助けなければ。ミカを殺したくない。ミカと会えなくなるのは嫌だ。


 心臓が早鐘を打つ。頭の中がミカでいっぱいになる。


 滾る感情に煽られて、ボクは必死でミカを引っ張り上げた。ミカとボクの体格差はそれほど変わらない。けれど、ボクの脳内にはミカを助けることしかなかった。ボクは必死で彼女の体を街まで引き摺る。


 幸い、街へ足を踏み入れた瞬間、ミカの体は正常に戻った。体は既に透けていないし、ザビザビもしていない。いつもの美しいミカだ。


 ボクはホッと一息つく。当の本人は先ほどあったことなど気にも留めず、「そんなに必死になって、どうしたの?」なんて問うてくる。でも、それでいいのかもしれない。彼女がNPCであることは知られてはいけないのだ。


「ねぇ、さっきから、変だよ? どうしたの?」


「いや、なんでもないよ。気にしないで」


「なんでもないわけないでしょう? だって、街の外に出たのに、こんなにすぐに戻ってきちゃったんだから」


「そうだけど……。あっ、そう!まだボクには早かったみたいなんだ! 開発者であるミカさんにこんなことを言うのはとても恥ずかしいんだけど、ボクの体内デバイスは旧式の物でね。まだ街の外のデータをインストールできていないみたいで、外へ踏み出した瞬間、体が苦しくなってしまったんだ。だからその……、先に進むのはちょっとずつ様子を見てからだと、助かる。インストールし終わったら、きっと、足を踏み入れられると思うからさ」


 もちろん、嘘だ。ボクの体内にあるデバイスは新型、それも、PRO版だし、街の外も完璧にインストールされていた。旧型だと解像度が悪いとか、インストールされていない場所に行くことができないと、噂で聞いた話を適当に繋げてみただけだ。嘘なんてつき慣れてないせいで、少々饒舌になってしまったが、ミカは特に気にしていないようだった。


「えぇ……そうなの? でも、インストールできてないんじゃあ、しかないか……。うん、諦めるよ」


 ミカはそう言って、黒の髪を撫でるように耳にかける。


 どきっ。


 まただ。


 また胸が跳ねる。


「でも、データがインストールされたら、絶対外へ行こうね。ワタシたちはNPCの研究をしないといけないんだから」


 ミカがボクに向かってとびっきりの笑顔を向ける。


 パチッ。


 眼前で火花が弾けた。心臓に大きな矢が突き抜けたような痛みが走り抜ける。今まで経験したことのない痛みに、体の熱が上がり、喉が無性に乾く。心臓の鼓動がうるさい。涙が溢れそうになりぎゅっと唇を噛み締める。心臓は痛いのに、目の前の世界は明るく、口内に苦い甘さが広がる。


 これは。これは。これは、もしかしなくても。


 ボクの中に一つの感情が生まれた。


 これは……。そう。多分、恋だ。


 いつ好きになっただとか、なんで好きになっただとか、そんなものはわからない。強いて言うならば、ミカを失いたくないと思った瞬間、この恋心に気づいた、と言えるだろう。それだけ?と問われれば、それだけだ、と頷く他ない。


 でも、恋愛感情なんて、そんなものじゃないだろうか。一緒にいたら、いつの間にか好きになっていた、なんてザラにあることだ。感情なんてものは説明できるものではない。


「ねぇ、ちょっと。何をボーッとしてるの?」


 ミカがボクの顔を覗き込む。その仕草にボクの心臓は大きく脈打つ。


「あ、ごめんごめん。ふと、ミカさんと出会ったときのことを思い出しててさ……」


「え、なにそれ。歩くの疲れて意識朦朧としちゃった? 大丈夫? ……まっ、もう歩きたくないって言われてもワタシはワープしないけどね」


「わかってるって。ミカさんは一度こうと決めたらテコでも動かないからな」


「ちょっと、ワタシが頑固女みたいな言い方しないでくれる? これでも、NPC研究の成果を認められてどんどんえらい運営様になってるんだからね?それもこれも、ワタシが柔軟に対応できるから、なんですから」

「はいはい、すごいすごい」


「もう! 絶対すごいって思ってないでしょう?」


 ミカが子供のように頬を膨らます姿が可愛くてボクは笑った。可愛くて、綺麗で、愛おしい。ミカがNPCかどうかなんて、関係ない。ミカがなんであろうと、ボクはミカを愛していたいと思う。


 ボクたちは自然の音色をBGMに他愛もない会話を繰り広げながら、草木の中を歩いた。前方にキラキラと水面を輝かせている湖が見え隠れするのが見えるようになったところで、ミカが


「存在するってどういうことだと思う?」


 と唐突に尋ねた。ボクの顔は急に強張り、「え?」と聞き返す。


「……だから、存在するってどういうことなのかなって思って」


 ミカは前を見続ける。どんどんと湖が近くなってきて、ミカは湖を指差す。


「たとえば、あの湖。前にここに来た時に見た湖と今日ここにあるこの湖は同じ湖って言えるのかな」


「そりゃ、同じなんじゃない?」


「本当に? 本当にそう言える?」


 ミカが立ち止まり、じっとボクを見つめる。胸にチクチクと針が突き刺さるような痛みが走る。


「本当にそう言える。だって、同じ場所にある湖なんだよ? 違うわけないじゃないか」


「そうかしら? 湖の中ではデジタルの魚が泳いでいて、その魚たちは『本物の』魚を倣って、食事をしたり、排泄をしたり、繁殖したり、している。水質は多少なりとも変化してるはずじゃない? それなのに、今日の湖がこないだの湖と一緒だって言えるのは、どうしてなのかしら。何が『同じ』と言わしめてるのかな……」


 ミカは俯く。ボクは口を挟むことができなかった。彼女はどうしてこんなことを言っているのだろう。


「なーんて、そんなの言葉上の言葉遊びだってことわかっているんだけどね。……でも、ワタシは考えてしまうの。ワタシがワタシたりうる理由って何だろうって。あはは、こんなこと言うなんて、おかしいよね。何千年も前にこねくり回された初歩的な哲学的問いに、つまずいているんだ」


 ぞくり。


 ミカの切なげな笑顔に、総毛立つ。いつもは大好きな笑顔に、なぜだか鳥肌が止まらない。


「ねぇ。もし、だよ。もし、ワタシたちが人格を持った人間だと勘違いしているただのNPCなのだとしたら……。しかも、開発者にしょっちゅう記憶を書き換えられているとしたら……。ワタシがワタシたりうる理由は、何になるのかな」


 ボクの口は、手は、足は、麻痺したように動かない。ミカは、たぶん、何かに気がついている。おそらく、自分自身がNPCだということに……。


「壊れて、書き換えて、壊れて、書き換えて……。そうして出来上がったプログラムのワタシは、最初にあったプログラムのワタシと言えるのかしら。世界も、現実も、時間も、ワタシ自身でさえも塗り替えられた場所で、ワタシがワタシである保証はどこにあるの。アナタがアナタである保証も、どこに……」


「やめてくれ……」


 ボクはひりつく喉から声を振り絞る。これ以上、彼女に喋らせてはいけない。ボクの脳内が警告音を鳴らす。


「ワタシは……。ワタシがワタシたる根拠は、記憶、だと思うの。思い出も感覚もすべて偽物な世界で、どれが本当の記憶かわからなくても、今、ワタシがこうして判断できるのは、この"記憶"があるから。ワタシたちの言動は、記憶に依存することしかできないから」


「やめてくれよ……」


 鋭い痛みが全身を貫く。頭がかち割れそうだ。立っているのも辛くて、ボクはついにしゃがみ込む。


「ねぇ、どう思う?あなたは、自分が自分たる根拠はどこにあると思う?」


「ボ、ボクは……」


 目にかかる髪の毛の隙間からミカの白い足がのぞく。ミカの華奢な生足は、昔、街の外に出た時のようにザビついていた。


「……‥難しいわよね。でも、ワタシはこの世界が何度も作り変えられた世界だとしても、"アナタ"が偽物だとしても、ワタシはこの世界もアナタも大好き。"アナタ"が消えてしまった記憶を覚えてなくても、きっと、どこかにそのかけらは残ってるって信じたいから」


 ドロドロに溶けた生クリームのような甘ったるい響きがボクの心を満たす。


 ボクも、ボクも、大好きだ。


 そう伝えたいのに、身体中の痛みで言葉を紡げない。熱い涙が頬をつたり、口の中に入り込む。


 どうしてだろう。ボクの思考の限界だった。頭が爆発してしまいそうだ。世界が歪んで、見えてる世界の解像度が下がっていく。


 あぁ、そうか。システムに不具合が生じたんだ。再起動しなければ、"ボク"はもちろん、"NPCであるミカ"も壊れてしまう。


「……ワタシは"アナタ"の記憶が何度塗り替えられようとも、すべての記憶ごと"アナタ"を愛するから。だから、安心して、眠って」


 優しい優しいミカの声。それは母の子守唄を思わせるような優しさだった。


 ボクは現実世界にあるであろう体内デバイスの電源ボタンを押す。霞んでいた視界がゆっくりと幕を下ろした。



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