第32話 招かれざる客

 最近、陸軍総司令部は慌ただしい雰囲気に包まれている。

 カルリアナは軍人ではないので子細をディートシウスには尋ねなかったが、どうも原因はイングベルトにあるようだ。彼に協力するよう話を持ちかけられた貴族が、カルリアナ以外にも複数いるという噂だった。

 家柄のいい高級士官たちが話していたことだから、おそらく事実に近いのだろう。


 不安を感じながら、カルリアナは少し早めの帰宅をした。あの報告の日以来、ディートシウスはカルリアナの仕事が終わり次第、早く帰れるように心を砕いてくれていた。


 馬車で通勤しているとはいえ、カルリアナが夜道で襲撃されることを心配してくれているのだろう。

 今の自分は、ディートシウスにとっての弱みなのだ。


(殿下にご迷惑はかけないようにしませんと……)


 そう思いながら帰宅して数十分後。居間で休んでいると、ジムゾンが緊張した面持ちで入室してきた。あまりいい予感はしなかったが、カルリアナは聞いた。


「どうしました、ジムゾン」

「オイゲーンさまが屋敷の前にいらっしゃっています」


「追い返してください」という言葉をみ込んだのは、オイゲーンがイングベルト側の人間であることを思い出したからだ。会って、少しでも情報を引き出したほうがディートシウスの役に立てるのではないか。そんな考えがちらっと頭をよぎった。


 もっとも、オイゲーンがイングベルトにそれほど信頼されていなければ、ただ不快な思いをするだけだろう。

 カルリアナはジムゾンにもう一度問いかけた。


「彼は何か言っていましたか?」

「それが、ディートシウス殿下に関することでお話がある、と……」


 自分に会うための口実かもしれない。けれど、もしかしたら必要な情報が手に入るかもしれない。

 万が一に備え、カルリアナはメラニーと護衛たちを応接間に待機させてオイゲーンと会うことにした。


 応接間に通されたオイゲーンは自信に満ちあふれていた。〝権力者のそばにいると、こうも変わるのですね〟とカルリアナが感心したくらいだ。

 挨拶もそこそこに向かいのソファにかけたオイゲーンは言った。


「カルリアナ、君はあの男にだまされているんだよ」

「はい?」

「考えてもごらん。あんな地位も権力もあって、悔しいけど顔もよく、【軍神】なんて呼ばれている男が、君と本気で付き合うと思うかい?」


 あまりにも呆れたので、カルリアナは意地悪をした。


「結婚の話も出ているので本気だと思いますが」

「結婚!?」


 大声で叫んだオイゲーンは、我に返ったようにせき払いする。


「……失礼。たとえ今は本気で愛をささやいていたとしても、あの手のタイプは結婚したら絶対に浮気するよ。君にはわたしくらいの男がちょうどいいんだ」


 今、聞き捨てならないせりふを聞いたような気がしたが、オイゲーンがさらに言葉を浴びせかけてきたので、カルリアナは訂正できなかった。


「ディートシウスは近々失脚する。今のうちにイングベルト派に鞍替くらがえしたほうがいい」


〝しっぽを出しましたね〟と思った矢先。


「ただし、君は一度イングベルト殿下の要請を断っているからね。わたしと結婚することがイングベルト派に寝返る条件だ」


 カルリアナは脱力した。


(この人は真正のアホのようです。まあ、まともな思考力がある人は、浮気したうえに婚約破棄なんてしませんか)


「……そんな条件をわたしが呑むと、本気で思っているのですか?」


 オイゲーンは目を瞬いた。


「もちろんさ。だって、君はいずれディートシウスに捨てられるんだから、立派なおまけもついてくるわたしと結婚するしかないだろう?」

「ディートシウス殿下はあなたと違って、そんなことはなさいませんよ」


 吐き出した言葉は、思ったよりも強い口調になった。


「あなたの浮気相手だったギーナ・フォン・オレンハウアーに、わたしが夜会で絡まれたことはご存知ですか? 知らないでしょうね。彼女を追い払ってくださったのはディートシウス殿下でしたよ」

「そ、そんなことを言われても……」

「あなたが性悪女と浮気したせいでしょう? ディートシウス殿下はいつだってわたしのことを守ってくださいましたよ。それこそ、命がかかっているような状況でも。あなたに同じことができますか?」


 オイゲーンはもごもごと口を動かした。

 もう、うんざりだった。こんなくだらない男につきまとわれるうえに、恋人を悪く言われるのは。

 この男に比べれば、ディートシウスは何億倍も誠実だ。少なくとも、カルリアナに嘘はつかなかった。


(いえ、比べることさえおこがましいですね)


 カルリアナはオイゲーンにとどめを刺すべく、唇を開いた。


「できないでしょう。大体、殿下ほど顔がよくないのにもかかわらず浮気したあなたに、彼のことをとやかく言われたくはありませんよ。本当に、亡き父の決めた相手だからとあなたの許嫁いいなずけに甘んじていた日々を、もし時間を巻き戻せるものなら、なかったことにしてしまいたいくらいです」


 これにはさすがに鈍いところのあるオイゲーンも怒りを覚えたらしい。顔が赤くなり、目がつり上がった。


「後悔するぞ!」


 オイゲーンはそう捨てぜりふを吐くと、ソファから立ち上がり、ずんずんと部屋から出ていった。

 残されたカルリアナはため息をつく。メラニーが近づいてきた。


「言ってやりましたね、お嬢さま! あの男が失言したときは殴ってやろうかと思いましたよ」

「暴力はいけませんよ、メラニー」

「……はい」


 一瞬、しゅんとしたあとで、メラニーは尋ねた。


「このことをディートシウス殿下にご報告なさいますか?」

「そのほうがいいでしょうね。今の時間ですと、殿下もご帰宅なさっていらっしゃると思います。お屋敷に出掛ける準備をお願いします」

「はい!」


 メラニーは一礼し、部屋から出ていく。

〝それにしても〟とカルリアナは考える。


(オイゲーンを派遣してきたことといい、やはりイングベルト殿下はディートシウス殿下への嫌がらせとして、わたしを引き抜こうとしたのでしょうか?)


 そうは思うのだが、何かが引っかかる。その原因がわからないまま、カルリアナは準備を終え、馬車でディートシウスの屋敷へと向かった。

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