第9話 ここは楽園ですか?

 その後、カルリアナは第二の職場となるシュテルンバール公爵邸の中をディートシウス自ら案内してもらった。屋敷の中は驚くほど広く、すべて回るとどう考えても半日はかかってしまう。


 ディートシウスもそこはわかっているらしく、食堂や応接間など最低限、場所の把握が必要な部屋を案内したあとで、図書室に連れていってくれた。

 図書室に入ったカルリアナは本で埋め尽くされた室内を見まわした。領地のアルテンブルク伯爵邸の図書室も広めだが、その一・五倍は広い。

 ディートシウスが穏やかにほほえんだ。


「君の職場だ。好きに見てくれて構わないよ」

「ありがとう存じます」


 素直にお礼を言うと、カルリアナは眼鏡を掛け、図書室の蔵書を見てまわった。使用人も利用していいのか、さまざまなジャンルの本が並べられており、雑誌や新聞もある。図書の分類法はケルツェン王国で使われているものにのっとっているが、正確ではない。まずは本の並べ替えが必要だろう。


(これは腕が鳴りますね)


 俄然がぜんやる気が出てきて、カルリアナはさらに室内を歩きまわった。魔道書の書架には分厚い稀覯本きこうぼんが何冊もある。カルリアナの屋敷はもちろん、王室図書館にも王立図書館にもなかった本だ。


(どうしましょう……読んでみたい……)


 貴重な本を前に指をくわえていると、いつの間にかディートシウスがすぐそばに立っていた。


「どうしたの?」

「いえ……稀覯本があるな……と思いまして」

「読んでみたいの? 遠慮せずに読んでよ」

「え……よろしいのですか?」

「王室に伝わる魔道書らしいけど、ここでなら誰でも読んでいい本だよ」

「では、さっそく……」


 カルリアナは魔道書の一冊を注意深く手に取ると、ページをめくってみた。古びた羊皮紙とインクの匂いを吸い込みながら、中身を見ていく。古代魔法の術式を解説した本で、文章も古文でつづられている。


(ああ、なんて素晴らしいんでしょう……!)


 本に没入していたカルリアナは、ふと、隣に立つディートシウスのことを思い出した。ディートシウスは放っておかれたにもかかわらず、まるでほほえましいものでも見るような顔をしている。


「今日はここで読書する? それとも中央書庫に行ってみる?」


 思ってもみなかったありがたすぎる提案に、カルリアナは即答した。


「中央書庫に行きます!」


 残りの魔道書も気になるが、半年間夢見ていた中央書庫のほうが魅力的だ。


「じゃ、わたしの馬車で王宮まで行こう」


 ディートシウスは本当にカルリアナのために馬車を出してくれた。

 だが。


「……なぜ、殿下までご一緒にいらっしゃるのですか?」


 車内の向かい側の席に座るディートシウスをカルリアナはめつけた。ディートシウスはまったく応えた様子がない。


「えー、だって、中央書庫の鍵を持っているのは王室メンバーだけだし? 王室図書館の司書長はあくまでスペアキーの管理を任されているだけだからね」


 そこまでは知らなかった。ということは、中央書庫に入るたびにディートシウスの許可が必要だということになる。それでは少し面倒だ。

 カルリアナが内心で思っていることを察したかのように、ディートシウスが補足する。


「大丈夫大丈夫。陸軍総司令部に出仕するときは、毎朝、君に鍵を渡しておくから。ね? 側近っぽいでしょ?」

「まあ、そういうことなら……」


 本音を言わせてもらうと、ディートシウスの側近というのは微妙なのだが、背に腹はかえられない。

 この軽薄な態度にも、からかわれることにも、いずれ慣れるだろう。何より、彼の人柄はオイゲーンに比べればはるかにマシだ。ただ、自分とは合わないというだけで。


 シュテルンバール公爵邸から王宮までは、馬車ですぐだ。門を潜り、車寄せで馬車を降りる。先に降りたディートシウスがカルリアナに向け、手を差し出す。


(王族の親切を断るのは、礼儀に反しますし……)


 カルリアナは迷った末に、渋々彼の手を取った。色素の薄い肌色には似合わず、思ったよりも温かい手だった。軍人らしく、剣だこが目立つ。

 ディートシウスが【軍神】と呼ばれていることをカルリアナは思い出した。

 数年前の戦争で、ディートシウスは獅子奮迅ししふんじんの活躍をみせ、陸軍元帥に任命されたのだという。


 軽薄に見えて他人への気遣いを忘れず、血筋だけで得たわけではない元帥としての顔も持っている。


(まったく……どれがこの方の本当の姿なのか……)


 王宮内に入ったカルリアナとディートシウスは王室図書館に向かう。カルリアナは司書長と元同僚たちに挨拶すると、地下にある中央書庫の前に下りた。ディートシウスが服の内ポケットから鍵を取り出し、扉の鍵穴に差し込む。鍵が音を立てて開いた。


 ディートシウスが両開きの扉を開ける。中は広い書庫になっていた。地下なので日の光が差し込まないうえに温度も湿度も低く、資料の保存には最適な場所だ。

 カルリアナは眼鏡を掛け、周囲に目を走らせる。目録や古書の参考文献でしか知らなかった貴重な刊本や写本が、書架に並べられている。


 カルリアナはあふれ出そうになる喜びをこらえながら室内を歩きまわった。書庫の本はすべて、今ではどの図書館でも見られなくなった鎖付図書チェインドライブラリーだ。何百年も前の本は平置きが普通だったため、タイトルが小口に書かれている古書も多い。

 カルリアナは夢心地で、『魔法史』と小口に書かれた本の表紙に手を触れた。あまりにも有名だが、世界に数冊しか現存していない「幻の書」といわれている本だ。


(本当に、実在したのですね……)


 そばまで歩いてきたディートシウスが言った。


「読んでみれば?」

「こんな貴重な本を読んでも……よろしいのでしょうか」

「いいんじゃない? その本の著者は誰かに読んでほしくて、わざわざ膨大な史料を編纂へんさんしたんだろうし」


 ディートシウスの言葉に背中を押され、カルリアナは恐る恐る『魔法史』を手に取った。一ページ目を開くと、まるで本がそれを待ってくれていたかのように、文章が目を通して頭に飛び込んできた。

 ディートシウスの声が聞こえる。


「椅子はそこら辺にあるのを使ってねー。わたしは向こうにいるから」


 カルリアナは生返事をしたあとで、ページをめくり続けた。少し足が疲れてきたことに気づき、手近な椅子に腰掛ける。そのあいだも、ページからほとんど目を離せなかった。

 半分ほど読み終えたころ、カルリアナは初めて疲労を感じ、本を膝に置いたまま伸びをした。身体が硬くなっている。かなりの時間が過ぎてしまったようだ。


(そうでした。殿下はどちらに……?)


 彼も読書でもしているのだろうか。カルリアナはいったん『魔法史』を書架に戻し、歩きまわってディートシウスの姿を捜した。

 いた。彼は疲れていたのか、椅子にかけてうたたねしている。起こしてしまうのも気が引けて、カルリアナは足音を忍ばせてディートシウスに近づいた。


 目に飛び込んできたのは驚くほど長くふさふさした、白に近い金色の睫毛まつげだ。印象的な瞳が閉じられていると、精巧な彫刻のような顔立ちがよりいっそう引き立った。寝顔は無垢むくそのもので、天界に住まうとされる天使を思わせる。

 カルリアナは自分の心臓の音を自覚した。


(――本当に……こうして眠っていてくれれば美男子なんですけれどね……!)


 悔し紛れに心の中でつぶやくと、ディートシウスの睫毛が震えた。薄目を開けてこちらを見たディートシウスは、眠気の残った声でぼそっと言う。


「……あれ? 人が近づくとすぐに起きられるよう訓練しているんだけど……」


 心から不思議に思っている口調だった。


(え……? どういう意味ですか……?)


 目をぱっちりと開けたディートシウスが、カルリアナを見上げながらいつもの調子で言った。


「ああ、君だからかな?」


 カルリアナは原因不明の恥ずかしさに襲われたのだった。

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