第8話 王弟殿下はやっぱりチャラい

 王都ゾネンヴァーゲンでのディートシウスの邸宅は、カルリアナの屋敷から馬車で数十分の距離にあった。


(王族公爵の邸宅とこれくらいしか離れていないなんて、我が家の立地もなかなかのものですね)


 シュテルンバール公爵邸の車寄せで馬車を降りたカルリアナは、執事に案内されてディートシウスの書斎に向かった。執事が扉を叩き、カルリアナの来訪を告げる。執事が両開きの扉を開けてくれたので、カルリアナは室内に入った。


 書架に並べられたたくさんの本が目に入る。背表紙を見るに、軍事・政治関係の本が多いようだ。

 そのあとで、本が読みやすいよう傾斜している机の前に座る、ディートシウスの姿を見つけた。今日の彼は初対面のときのようにホワイトブロンドの髪を緩く結び、左肩に垂らしている。オンとオフで髪型を変えているらしい。

 カルリアナがお辞儀カーテシーをすると、ディートシウスがすっと立ち上がる。


「アルテンブルク伯、時間どおりだね。待っていたよ」


 確かに室内にある柱時計の針は約束の時間きっかりを指し示している。

 ディートシウスがこちらに歩み寄ってきた。カルリアナの前に立つと、背を屈め、顔をのぞき込んでくる。


「うーん……眼鏡を掛けていても奇麗だと思っていたけど、君、眼鏡を掛けていないほうが可愛いね」


 カルリアナは彼の言葉を脳内で反芻はんすうして、ようやく意味を理解できた。とたんに頬が熱くなる。


「――な、なっ……」


 ディートシウスはくすりと笑う。


「もしかして、あんまり言われ慣れてない?」


(そういえば……前にも殿下から「美人」と言われましたね……)


 あのときは、自分の容姿に関する噂話をされていたことに腹が立ったが、よく考えてみなくても褒められていたのだ。

 侍女やメイドたちに外見を褒められることはあるが、面と向かって男性に「可愛い」などと褒められたのは、父を除けば多分生まれて初めてだ。


 たったそれだけのことで、今まで異性として意識していなかったディートシウスが、急に他の男性とは違う存在に見えてしまった。

 口をパクパクさせながら返答ができずにいると、ディートシウスが長い指先でカルリアナの額を突くまねをした。


「わたしが悪い男だったら、君のそういう可愛いところを利用しちゃうかも。気をつけるんだよ」


 そう言って、にっこり笑う。南国の海のような瞳が妖しく輝いた。

「自分は悪い男ではない」とでも言いたいのだろうか。いや、今の素振りからして、おそらく言い慣れている。

〝悔しい〟とカルリアナは思った。


(誰にでも言っているような言葉に、動揺してしまうなんて……)


 気丈さが戻ってくると、冷静さも戻ってきた。


「殿下、本題をお願いいたします」


 ディートシウスは片眉を上げる。


「なんだ、つれないね。まあ、いいや。空いている席に座ってよ」


 カルリアナはディートシウスが座るのを待って、彼から少し離れた椅子に腰掛けた。ディートシウスは「さっきのは冗談だって」と苦笑したあとで、長い足を組んだ。


「それじゃ、君の詳しい職務内容について説明させてもらうよ。今日みたいにわたしが非番のときにしてほしいことはふたつある。屋敷の図書室の管理とわたしからのレファレンスだ」

「かしこまりました。殿下がご出仕になるときは?」

「陸軍総司令部に出勤して、わたしの私設秘書のような役割をしてほしい」


 それは、司書の仕事の範囲を超えている。雇用契約書にも書かれてはいなかった。もちろん、やってできないことはないだろうが、カルリアナはあくまで司書として働くつもりで、ディートシウスに雇われることにしたのだ。

 ここは、異議を唱えておく必要がある。


「わたしは専属司書として雇われたはずですが」

「だってー、契約前に秘書業務のことを説明していたら、君が引き抜きに応じてくれないかと思ってー」

「……こちらとしては、今から契約を破棄してもよろしいのですが?」

「いやいや! それは困るって! 秘書の仕事といっても、レファレンスの延長のようなものだよ。わたしが調べてほしいことを調査したり、調べ物が必要な資料を作ってくれればいい。それに、わたしが呼ぶとき以外は、王室図書館や中央書庫で読書をしていていいよ」


(それは願ってもないことです……!)


 軽薄なうえ、油断ならないのは確かだが、殿下はいい方なのかもしれない。そう思ったカルリアナの耳に、信じられないせりふが飛び込んできた。


「ところでさ、君のこと、ファーストネームで呼んでもいい?」

「はあっ!?」


 思わず大きな声が出た。

 ディートシウスは平然とした表情で補足する。


「だって、君はわたしのことを『ディートシウス殿下』って呼べるのに、わたしは君のことを『アルテンブルク伯』としか呼べないのは不公平じゃない? わたしは側近のことをファーストネームで呼びたい主義なんだよねー」


 専属司書が側近? 聞いていない。


「側近……?」


 カルリアナが疑問を口にすると、ディートシウスはニコッとした。


「そ。おもしろいでしょ? 司書が側近だなんて。だから、君に秘書みたいな仕事をしてもらいたいってわけ。君がわたしに重用されているっていうアピールになるからね」


 ますます訳がわからない。そんなことをして、ディートシウスにとってなんの得があるというのか。


「なぜ、そのようなことを……」


 ディートシウスは片目をつぶってみせた。いちいち絵になる仕草である。


「今は秘密。君ならそのうち正解がわかるかもね。で、名前のことなんだけど、許可はもらえないの?」


 そう問うディートシウスはねだるような顔をしている。


(ずるい……)


 自分でも思いがけない言葉が頭に浮かんだ。

〝どういうことでしょう〟と思考の軌跡をたどってみて、カルリアナは愕然がくぜんとした。


(わたしはどうやら、とてつもない美青年から物欲しそうな目でお願いをされたことに動揺しているようです……これはやはり、彼を意識しているということなのでしょうか……? ああ、なんたること!)


 よりにもよって、こんな軽い男を!

 心の中で叫んでみるが、どうしようもない。かといって、断る理由も見つからない。

 カルリアナは内心の葛藤を表情に出さないように努めながら口を開く。


「……仕方ありませんね。ですが、公の場では『アルテンブルク伯』とお呼びくださいますよう」

「わかったー。これからよろしく、カルリアナ」


 軽い調子から一転、落ち着いた声音で名を呼ばれ、カルリアナの心臓は大きく跳ねた。

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