第7話 カルリアナの朝
自分でも理由がはっきりしないまま、ディートシウスの専属司書になることを決めたカルリアナは、その日のうちに彼に使いを出した。使いに「転職を前向きに考えております」という伝言を頼んだうえで、給与などの待遇面を記した書類を持ち帰ってもらう。
ディートシウスが言っていたとおり、待遇は破格の条件だった。そのうえ、中央書庫に入り、蔵書を読める特権が与えられるのだ。自分の判断が間違っていなかったことを確認したカルリアナは、ゲーアハルトを介して転職の手続きを進めた。
同時に、司書長に辞意を伝え、退職の手続きも進める。ただ、司書長はカルリアナがディートシウスに引き抜かれたことをあらかじめ知っていたようだった。おそらく、ディートシウスが根回ししていたのだろう。油断のならない王弟である。
ゲーアハルトによると、「閣下がお話をお受けくださると知って、殿下は大はしゃぎなさっていらっしゃいますよ」ということらしいが。
(無邪気なのか計算高いのか、よくわからない方ですね)
日々は過ぎ、カルリアナは二十歳になった。それからすぐ、新年となる。
そして、専属司書としての契約を交わす日、カルリアナは再び陸軍総司令部にあるディートシウスの執務室を訪れた。一応緊張しているので、眼鏡を掛けて出向く。
「待っていたよ。さっそくだけど、この雇用契約書にサインをもらえるかな?」
ディートシウスは整いすぎた顔いっぱいに笑みを浮かべている。彼が差し出した契約書を羽根ペンと一緒に受け取ると、カルリアナはペン先にインクをつけ、署名欄にサインした。
「よし! 契約成立、と」
ディートシウスはうれしそうだ。カルリアナも今更ながら喜びをかみしめた。
(これで、わたしも中央書庫に……!)
楽しみではあるが、それはいずれ満喫させてもらうことにして、まずは王室図書館の職員たちに退職の挨拶をしなければならない。今までお世話になったお礼を言わなければ。
「殿下、わたしはこれから前職の上司と同僚たちに会ってまいりますので、今日はこれにて下がらせていただきます」
「うん、出勤初日の明日はわたしの屋敷に来てね。楽しみにしているよ」
「じゃあねー」と手を振るディートシウスに見送られ、カルリアナは王室図書館に向かった。
「カルリアナさま、本当にご退職なさるのですか……?」
「今からでもお考えなおしにはなれませんか?」
同僚たちはしきりに残念がってくれた。司書長が彼女たちをなだめる。
「王弟殿下の引き抜きなら仕方ありませんよ。アルテンブルク伯、何かあったら声をかけてください。いつでも力になります。それに、いわゆる出戻りも大歓迎ですので」
カルリアナは王室図書館の面々に今までのお礼を言いながら、ハンカチやお菓子などのささやかな贈り物を手渡す。そのあとで、同僚の一人が大きな花束を贈ってくれた。
カルリアナが王室図書館で働いていたのは、約半年という短い期間だ。それなのに、みなは退職を惜しんでくれたばかりか、こうして花束まで用意してくれた。カルリアナは込み上げるものを感じ、笑顔で花束を受け取った。
翌朝、カルリアナはディートシウスの屋敷に初出勤すべく、身支度をしていた。二歳年下の侍女、メラニーに髪を編んでもらいながら、インクで手が汚れないようにアイロンがかけられた新聞に目を通す。服装は王室図書館に勤務していたころと大差ない、かっちりしたワンピースだ。
新聞を読むために掛けていた眼鏡を外し、革のケースにしまう。
カルリアナは職場では眼鏡にチェーンをつけ、勤務中や必要なときに掛けるようにしていた。新しい職場でもそれで問題ないだろう。
今までディートシウスに会うときは、常に眼鏡を掛けていたような気がするので、素顔を見せるのは少し抵抗があるが……。
カルリアナは眼鏡ケースをメラニーに渡した。
「メラニー、いつものように眼鏡にチェーンをつけておいてください」
「かしこまりました、お嬢さま」
カルリアナは階段を下りて食堂に向かった。タウンハウスでの家令も兼ねてもらっている執事のジムゾンが出迎えてくれる。テーブルクロスのかけられた長い食卓には、焼きたてのパンにスープ、オムレツが用意されている。
ジムゾンはいつものように給仕をしながら、領地の管理を任せている老家令から伝えられた、現在のアルテンブルク伯爵領の状況を説明してくれた。
「報告によりますと、今年は暖冬なので、例年に比べて雪害も少ないということです」
カルリアナはふわふわのオムレツを一口味わったあとで、返事をする。
「そうですか、それはよかった。ですが、暖冬の年は大雪が降ることもあるので、くれぐれも気を抜かないようにと伝えてください。雪害に遭った領民への支援は、昨年までと同じようにお願いします。魔物も含めた獣害はどうですか?」
「冬眠しない魔物や獣が人里に下りてくることもあるようですが、以前にお嬢さまがご提案なさったとおり、各冒険者ギルドで魔物や獣を駆除する依頼を出すときに、冒険者への報酬を引き上げたことで、被害は激減したとのことです」
「ふむ、功を奏しているようですね。豊作だったブドウの加工はどうなっていますか?」
「現在、多くのワイナリーがワインを仕込んでおります。三年後には素晴らしいワインが大量にできることでしょう」
「楽しみですね。王都や他領への流通、それに外国への輸出も今から根回ししておきましょう」
「かしこまりました。さすがです、お嬢さま」
ジムゾンは微笑したあとで、何か言いたげな表情になる。カルリアナは小首を傾げた。
「ジムゾン、どうしました?」
「いえ……」
「言いたいことがあるなら、正直に言って構わないのですよ」
カルリアナが促すと、ジムゾンは覚悟を決めたような顔をした。
「先に謝らせてください。お気に障ったら申し訳ございません。ですが、わたくしは思ったのです。お嬢さまがオイゲーンさまとご結婚せずにお済みになってよかった、と」
優秀で忠実な執事の予想外の言葉に、カルリアナはびっくりした。ジムゾンはカルリアナが婚約破棄されたことについて心を痛めていたようだが、今まで言及することはなかったからだ。
「……どうしてですか?」
「こういうことを申し上げるのははばかられますが、オイゲーンさまは思慮深い方ではいらっしゃらなかったので、伯爵位をお継ぎになったお嬢さまをゆくゆくは煩わせることになるのでは……と、わたくしは憂慮しておりました。今、お好きなお仕事をなさり、その辣腕ぶりが王弟殿下のお目に留まるまでになられたお嬢さまを拝見していると、本当に破談になってよかったと思ってしまうのです」
ジムゾンは涙がにじんだのか、ハンカチを目元に当てている。彼はまだ三十代だが、昔から年の離れた兄のようにカルリアナを見守ってくれていた。オイゲーンのことでジムゾンにまで気をもませていたと知り、申し訳ない気持ちになる。
(でも、よかった……いくらお父さまがお決めになったこととはいえ、ジムゾンを悲しませるような相手と結婚せずに済んだのですから)
カルリアナはジムゾンにほほえみかけた。
「ジムゾン、今まで心配をかけてごめんなさい」
「そのようなことは……お嬢さまのせいではございませんのに……」
「あなたたちの助けがあれば、わたしは一人でもやれていますし、オイゲーンのような男性とは絶対に結婚しません。だから、安心してください。これからもよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします、お嬢さま。ですが、この先、よいお相手を見つけられたのなら、わたくしの申し上げたことはお気になさらずにご結婚ください」
ジムゾンの目は真剣そのものだ。正直、もう結婚に関わることは勘弁願いたいのだが、跡継ぎの問題もあるし、彼をがっかりさせたくない。
「わたしも、いい相手が見つかるといいな、とは思っていますので、気長にいくつもりです」
そう応じたあとで朝食を終えたカルリアナは、ジムゾンやメラニーら使用人たちに見送られながら、アルテンブルク伯爵家の馬車に乗って出勤した。
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