第14話
六月になり、衣替えで夏服になる。
雨も降っており、湿度が体にまとわりついて気持ち悪い。
濁った空の下、学校に着くと、何人かの子たちが梓の顔を見てから顔をそむけた。
そうしてまた顔を合わせてひそひそと話し合っている。
なんだろう。クラスの空気がさらに悪化している。
この場から逃げ出したくなるのをこらえて席に着く。
いつもは誰かしら軽く挨拶をするのに、誰も話しかけてこなかった。雪乃はまだ来ていない。
なにか冷たい目で見られているような気がする。そう思うと、胃の凍る思いがした。
もしかしたら、自分が犯人であるとクラスから疑われているのではないか。
そんな気がした。
そうでなければ露骨に挨拶をしてこなかったり、こんな冷たい目線で見られてきたりするはずがない。
でもなんで? なんで私が疑われている?
昨日まではクラスにそのような雰囲気は流れていなかったはずだ。梓が帰った後になにかあったのだろうか。考えても思い当たることもなく、わからなかった。額から汗がにじみ出てくる。
「おはよう、梓」
雪乃が教室にやってきて、明るく言う。
「おはよう」
悟られないように、笑って挨拶をした。雪乃がいれば救われる。
細谷が入って来ると、鈴木が起立、礼、の号令をかけた後で、黒板の前に行く。
大きな袋があった。
「じゃあ、みんなこの中に貴重品入れて」
生徒たちはそれぞれ貴重品を預けに教壇の前まで行く。全員の財布が集まると、袋を細谷にお願いしますと言って預けていた。
いつもの礼拝を終えて、教室に戻る。
一時間目は社会だ。
みんなそれぞれ発表用の本を取り出している。社会科教師が入って来る。
「それじゃあ発表してもらおうか。本のタイトルとあらすじ、なぜその本を選んだか、本の感想を言え。ランダムに行くぞー。西村」
言われて西村は驚いたような顔をし、席を立った。
そうして一冊の本をみんなに見えるように紹介する。
「私が選んだ本は、『失われた豊かさ』というものです。日本が物質的に豊かになればなるほど、人の心は貧しくなっていくというもので……」
西村は淡々と本の解説をし続け、感想を述べた。昔から言われていることだけれど、やはりそれを実感している、と締めくくる。
よくこんな発表ばかりの授業で、新しい本を読んだな、と梓は思う。
発表が終わると、パラパラと拍手が沸き起こった。社会科教師も、確かになー、昔から言われているけど、人の心は非正規雇用も多くなってますます余裕がなくなっているよな―と言っていた。
「じゃあ次、三村!」
ぎくりとした。まさかこんなに早く呼ばれるとは思わなかった。
昨日は寝る前に小説を流し読みしていた。一度しっかり読んでいるから、まあ大丈夫だ。立ち上がり教壇まで行く。やはり視線が冷たい。
「私が選んだ本は、誰もが知っているあの有名なアガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』です」
そうして梓は簡潔に結末までのあらすじを話した。
「素晴らしい作品ですし、動機もトリックも斬新なので、小説家の中でもこの作品の真似をできるという人はいないと思います。真似をしたらすぐにばれますから。だから唯一無二の作品だと思います。ただ引っかかるのは序盤のほうにある、『西洋の理想というものを教えて、東洋の人たちに理解させてあげなくては』。という箇所です。ここでいう西洋の理想とは一体何だったのだろうかと。ちょっと差別的であると思いました。代表的な作品をあげましたが、東洋への差別、偏見というのはこの時代の欧米、西洋の作家には結構あると思います。今もアジア人に対するヘイトクライムはあります」
学院長にもアジア人に対するヘイトはある。梓は続ける。
「でもこういう作家たちも多分、クリスチャンか、お国柄、キリスト教の影響は受けていますよね。なのになぜ差別意識があるのか不思議でした」
感想を言い終えると、数人からの拍手が起きた。やはりなにか白けたムードが漂っている。
社会科教師は、確かに当時のイギリスは身分社会も色濃く残っているし、今も欧米でアジア人ヘイトがあるよなー、と頷いていた。
アジア人は欧米において差別されやすい、とも。
それから社会科教師は人種差別について数分語り、次の子の発表になる。
発表はしたものの、これ、なんの意味があるのだろう。ただ本を読んで感想を言って、社会科教師が頷くだけ。
新しい本を読んで時間を取られなくてよかった、と思う。
しかしみんな、言われたとおり様々な本を読んでいる。知らない本ばかりで関心を持った。だが、読みたいかというと今は読みたくない。受験勉強をしたいからだ。
二十人の発表が終わると、ちょうどチャイムが鳴った。
「じゃあ、次からはまた授業に戻るぞー」
そんなことを言って教室から出て行く。社会科教師はクリスチャンではなかったので、神のことを批判する子がいてもそうだな、と頷くだけだった。
だがこの社会科教師は、卒業生と結婚している。
ブラック校則で生徒を縛り付けるくせに、この学校は卒業生と結婚している男性教師が半数以上いるのだ。年の差十八歳とか当たり前のようにある。
バレンタインに生徒からチョコを貰ったら、高そうなお返しを生徒にしている教師もいるくらいだ。そのことにも不満がある。
もう高校生活は捨てるしかない。とにかく勉強をして大学に入ったらすべて晴らそう。
今日も予備校がある。日本史の授業だ。暗記が得意ではなく、日本史の成績は少し悪
い。頑張って覚えるようにしていかないと。
(注)引用 アガサ・クリスティ著 山元やよい訳
ハヤカワ文庫『オリエント急行の殺人』
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