フォトグラファー ~月の段~
防風林を抜け砂浜に足を踏み入れると、冷たい北風が顔をなでた。穏やかなさざ波がほぼ一定の調子で音を奏でている。ダウンジャケットを着こんだ
「今日は、きれいだ」
しわがれた声で、感じ入るようにゆっくりと颯真は呟いた。顔に刻まれた皺は深く、後ろで
「ここんとこ、機嫌悪かったからなぁ」
颯真は月に照らされた
ウィンドサーフィン専門誌の特集記事の取材を受けることになり、所属チームが運営するスクールを兼ねた事務所にライターと共にやってきたのが撮影を担当する
お互いに挨拶をして名前を名乗るまでは同級生であることに気付かなかった。どこか聞いたことのある名前だと思って顔を見つめているうちに、小学校時代の面影をわずかばかりに残した顔立ちから記憶を引き出していくように「
それは向こうも同じだったようで、お互いの表情のうつろいはさながら鏡のようであったにちがいない。「
中年になった
まだ陽の沈まぬ時間に取材を終え、その日の予定を訊ね飲みに誘うと、撮り溜めた写真の整理と編集作業を終えた後ならということで承諾した。
近場の居酒屋で待ち合わせをして酒が入ると、お互い近況を語り合った。
「吹越がプロウィンドサーファーなんてね……意外」
「星野がカメラマンやってんのも意外だけどな」
意外も何も、お互いが小学校時代のころをよく覚えていないのだから、どんな職業でも意外にちがいなかった。消防士をやっていても意外だろうし、税理士をやっていたって意外であっただろう。現にプロウィンドサーファーとは言っても、それだけで生計を立てられる人間はほんの一握りで、たいていは何かしら別の仕事に就いていることを説明し、颯真の場合は造園業だと言うと、
だが加齢と
「星野は結婚してないの?」
「してたらこんな生活できないでしょ」
あしらうように答える
「ふーん」
「だから今オレ、フリーよ」
「……あっそ」
冷ややかに言い捨て、
店を出ると、酔い覚ましに軽く海岸を歩いた。空気の澄んだ夜空には満月が浮かんでいた。
「月明りってさ、ホントはもっと明るいんだよね」
「えっ?」
「こんな街灯なんかなくても、けっこう歩けるんだよ。月明りって」
明(あかり)は二人を照らす歩道の街灯を見上げて言った。
「……へぇ、そうなんだ」
「タイのね、ピピ島って歩いて三十分くらいで周りきれちゃう小さな島に行ったことがあってさ。ある時、島全体が停電になって真っ暗になったの。突然暗くなって身動き取れなくなっちゃったんだけど、しばらくすると目が慣れてきて人影とか道とか見えてきてね。日本みたいにすぐには復旧しないし、現地の人は日常茶飯事みたいな感じでゾロゾロ動き始めるの。自然の本来もつ力を見た気がしたなぁ、あの時は」
遠い昔を懐かしむ感じで、
「そっか。ここもわりと田舎だから星とかよく見える方だと思ってたけどな」
「ううん。もっとすごいよ」
「ふーん。日本にあんのかな、そんなとこ」
「どうだろうね——」
(写真家の仕事はいかに被写体の本質を捉えて、その魅力を最大限に惹き出し表現するか)
酒場で
一枚一枚ていねいに見ていくと、日常的に見慣れた写真が額縁に入れられた作品のように感じられた。
若者の新規就農を特集したものでは、誇らしげに収穫する瞬間の表情や、仲間と食卓を囲んで顔をほころばせながら口へ運ぶ姿、ザルに乗せたトマトやキュウリやナスなど夏野菜は色濃くてみずみずしく、ザルを掴んでいるゴツゴツとしてガサガサとした両手は農業の苦労を物語っていた。
エビとブロッコリーのクリームソースペンネは、エビはプリッと、ブロッコリーはコリッと、ペンネはモチッとした食感が伝わり、ふりかけられているパルメザンチーズが口の中に香るようであった。
アートは、あえて画質を下げて郷愁感のある風景に妙な温かさを感じたり、逆光を利用して人物に紗のようなベールを被せて、シルエットで人物の美しさを想像させたりするのが分かった。
(月明りってさ、ホントはもっと明るいんだよね)
ふと海岸での
それから颯真は、漆黒の闇に浮かぶ月が見える場所を探し求めるようになった。ただ見れるだけではなく、その場所に暮らすことまで考えての行動だった。家族は別れてしまったし、ウィンドサーフィンも海沿いであればおそらく続けられる。この土地に居続けるよりもっと大切なことが、そこにはあるような気がした。
仕事の合間を縫って、探し続ける旅は十年にも及んだ。
ようやく見つけたその場所は本土と橋をつないだ小さな島にあった。見つけた空き家の裏手にある防風林を抜けるとすぐ浜辺に出られ、そこには人工的な光が差し込むようなものは何もなかった。
颯真は移住を決心した。
この頃、付かず離れずの関係にあった
(星野が言っていた月の見える場所に移住します。住む家に困ったら連絡ください。部屋は用意してあります)
それに対する
島暮らしをして三年、敷地に畑を作って農作業をしているところに
颯真は屈めた腰を伸ばし、顔をほころばせて言った。
「おぉ、来たのか」
「えぇ」
久しぶりに見る
「住むのか?」
「どうしましょう。まだ決めてないの」
「そうか。ま、見てから決めたらいい」
その晩、空はよく晴れ、いつか海岸で見たときと同じ満月が出ていた。
月光に照らされ浮かび上がる浜辺を歩きながら颯真は言った。
「月明りってのはよく見えるもんだな。どうだ?」
立ち止まり振り返ると、颯真は目を
月光に吸い込まれるように見上げた
「まぁまぁね」
「……そうか。そいつは残念だな」
「でも——飽きるまでは、ここにいようかしら。部屋はあるの?」
「あぁ、いつでも来れるように空っぽにしておいた」
明(あかり)はそれから、最期を迎えるまでの十数年間をここで過ごした——。
月を眺めて思い浮かぶのは
ここでの暮らしを始めた
家のあらゆるところに
この世から去っても、毎夜ゆっくり形を変えて浮かぶ月と残してくれた写真があれば、いつでも
冷え切った体を起こして、体に付いた砂をはらった。もう一度夜空を見上げ、白い息を吐き出した。
「今日も、きれいだ」
颯真は一瞬、優しく月明りに包まれたような気がした。
もしかしたら
花鳥風月 柴野弘志 @baccho711
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