風人(かざびと) ~風の段~

 大きくうねる波が次々と押し寄せるなぎさに、ボードとセイルを両手に抱えたウィンドサーファーたちがぞくぞくと入っていった。ボードの上に立ち上がると同時にセイルを立て、吹きすぎる冷涼な秋風を目一杯に受けながら、迫る波を乗り越えて沖へと向かっていく。やがてひとりが海岸と平行するように波に乗り始めると、他の選手たちもそれに追随を始めた。

 江籠えごかけるは海岸沿いの歩道からカメラを構え、長く伸びる望遠レンズを海へと向けている。ファインダーが捉えているのは、オレンジ色のセイルを操る吹越ふきこし颯真そうまただひとりで、他には目もくれない。薄く雲をひいた青天から陽が燦々さんさんと降りそそいではいるが、とき折り海に向かう風が翔の背後から強く吹きつけ、柵が体に食いこむ。

 颯真と出会ったのも、こんな風の強い日だった——。



 大学のキャンパスからほどないこの海岸で、翔は野鳥をカメラに収めていた。一眼レフカメラを首から下げ、息を殺してできるだけ近づき、浜辺で羽を休めるミユビシギやクロサギ、ユリカモメの姿を写した。

 岸壁がんぺきにハクセキレイが止まっているのを見て、翔はどうやって撮ろうかと悩んだ。野鳥をより美しく撮ろうと思うと、多少危険な体勢になることがままある。海に出れば、足場の悪いテトラポットや苔のはりついた岩場などでも撮影をしていた。翔は可能な限り磯の先端に立って岸壁を回りこむようにすると、カメラを覗きこんだ瞬間にふいに強風に襲われ、バランスを崩し海へと転落してしまった。

 カナヅチだった翔はパニックになり、手足をやみくもにばたつかせ、浮き上がろうと必死になった。助けを呼ぼうにも声が出せない。かろうじて海面から出ている顔に波が覆いかぶさり、息を吸うのもままならなかった。どれだけもがいていたのか分からないが、やがて声が降りかかった。

「おーい! 大丈夫か! すぐ行くから待ってろ!」

 その声の主が後に知る吹越颯真だった。

沖でウィンドサーフィンをしていた颯真たちが、溺れている翔に気づき救助に来てくれたらしい。颯真は翔にぶつからない程度に安全な距離まで近づき、ボードから下りてしがみつかせようとすると、そこは存外立てるほどの浅瀬であった。

「え、え……あれ? なんだ立てるよ、ここ。おい、おいっ! 暴れんな、立てるから。おいって!」

 パニックになった翔に声は届かず、颯真に必死になってしがみつく。颯真の胸元で離すまいと全力をこめて抱きついた。「ちょ……落ち着け、バカ!」と怒鳴り声が飛んできてハッと我に返り、自力で立てることに気がつくと、ようやく翔はしがみついた腕をほどいた。

「おい、大丈夫か」

「ハァ、ハァ……はい……すみません」

 海面は腹から胸のあたりを揺蕩たゆたい、首から下げたカメラが水中に見え隠れした。颯真はそれを見ると、ずいぶんと仰々ぎょうぎょうしい感じで若者わかものぜんとして言った。

「あーあ、カメラが水没しちゃってるよ。一眼レフじゃん、もったいねぇ」

 カメラの命より、自分の命があったことに頭がいっぱいで、もはやそんなことはどうでもよかった。

「岸、あがれっか?」

 息をどうにか整え、コクリと頷いて岸に上がろうとする。岩に張りついた藻に足を滑らせズルズルドボンと、また海に沈んだ。

「なにやってんだよ、どんくせぇなぁ。ケツ押してやっから。まったく世話の焼けるヤツだな」

 颯真に尻を押し上げてもらい、這いつくばるようにしてようやく翔は岸に上がった。

 おぼつかない足取りで浜の方へ戻ろうとするところへ再び後ろから声が飛んできた。

「おいっ! ちゃんと帰れっか? 家はちかい?」

「あ……はい。自転車で……」

「そっか。カゼひくからさっさと帰った方がいいぜ」

「はい……ありがとうございました」

 ペコンと頭を下げながら力なく答えたが、声は風にさらわれてしまったような気がして、届いたかどうか分からない。颯真はなにやら苦笑いをしながら仲間の元へ戻ると、セイルを立てて沖の方へと滑って行った。


 その後も翔は至る場所で野鳥観察を続ける中で、季節が変わるごとに海岸に足を運んだ。いつも沖合にはセイルを立てたウィンドサーファーたちが海面を滑っていて、遠くに浮かぶ人影に颯真の姿を探した。しかし、岸から確認するには遠すぎて判然としなかった。

 助けられる以前はただの風景でしかなかったウィンドサーファーだったが、目で追っているとずいぶんとトリッキーなことをしているものだと、翔は思った。

 波をジャンプ台のようにして高く舞ったかと思うと、くるくる回転しながら着地したり、ひねりを加えたりしているのが見てとれる。最高到達点で片手を外したり、片足を投げ出したりしてポーズを取るような者もいる。時には空中分解してボードとセイルが吹き飛ばされ海に落下していく者なども相当数いた。

 浅瀬で溺れた翔にとって、あんなところに落ちたらひとたまりもないなと、想像するだけで怖ろしくなった。


 時が経ち、大学の卒業論文作成に向けて研究室入りすると、思わぬ形で颯真と再会した。

「あれ? オマエ、溺れてたヤツじゃね?」

「あ——あのときの」

「なに、同じ学科だったのかよ。全然気づかなかった、ウケんな。ハハ」

 大げさにリアクションをする颯真を見て、そういえばこんな人だったと翔は思った。

 十数人が在籍する研究室での颯真はムードメーカーそのもので、いれば空気が沸き立ち、いなければ静寂が訪れた。親睦会が開かれれば颯真が自然と中心に立って場を温めるのだが、誰とでも分け隔てなく接する性格も持ち合わせており、時間が経つにつれて様々な人の隣に席を移しては話をしていた。それは翔にも例外なく及んだ。

「翔、もう論文のテーマ決めてんの?」

「あ——なんとなくだけど、野鳥と生態保全の関わりについて書こうかなって」

「へぇ。すっげぇな。博士って感じじゃん。鳥、好きなんだ」

 翔は黙って肯いた。

「鳥、いいよなぁ。あんなふうに飛べたら、ぜってぇ気持ちいいよな。鳥になりてぇって思ったことない?」

「え?……あんまりないかな」

「なんだ、ねぇのかよ。鳥好きだったらあんだろ——別になくてもいっか、ごめんな」

 なんだかポンポンと話を進めて自己完結するような喋り方で、翔は気圧けおされ気味になった。ひとしきりまくし立てるように会話をしたあと、また別の人の元へと移っていった。

 論文のテーマが固まってきてからは、海鳥の生態調査のため翔は海岸へ向かう頻度が多くなった。

 季節をとわず、いつも沖にはウィンドサーファーの姿があり、颯真もそこにいるらしかった。たまに岸辺で会うこともあり、その時は決まって向こうから声をかけてくれるのであった。


 大学四年の夏、陽が沈み、お互い帰りかけるところに出くわすと、颯真から珍しく「飲みにいこうぜ」と誘われた。彼のウィンドサーフィン仲間に混ざるのに気が引けて返答を躊躇ためらっていると、サシで行こうという話だった。

 翔はこういうタイプの友人と二人きりで飲みに行くことなど一度もなかった。趣味の合う人間ならいざ知らず、趣味の全く異なる相手とは、口下手な翔にとって間が持たない心配ばかりが先立つのであった。だが颯真は全く気に留める様子はなかったようである。

「サシ飲み、好きなんだよねぇ。ソイツのことよく知れるじゃん」

 意外だなと、翔は思った。てっきり大勢でワイワイ騒ぐのが好きなタイプだと思っていたが、そうではないらしい。

 颯真は相変わらずポンポンと話を進めてくれるので、自分も喋るのが上手くなったかのような気になる。話題は卒業後の進路に及んだ。

「翔は就職決まったの?」

「いや、大学院に行こうと思ってる」

「おお、すげぇじゃん。マジ、博士だな。鳥博士?」

「うん——まぁ、野鳥の研究で」

「ヤバ。かっけぇな」

「颯真は?」

「オレ? オレはまだなんも決まってねぇよ。今度のアマチュア全日本でシロクロつけようかなって」

 颯真は、秋に開催される大会で優勝できなかったらプロの道を断念すると語った。とは言っても、プロウィンドサーファーはそれだけで生計を立てている選手は皆無かいむに等しく、関連店舗を経営したりインストラクターをしたり、はたまた全く別の職種で働いている人もいるらしかった。それなら、そんな形で続けていくのもアリではないかと翔は思った。

「センスがないんだよなぁ、オレって。マジ、プロになる奴ってバケモンばっか。高校生でもガンガン出てくっからね」

 しろうと目には分からない世界だった。日ごろの練習でバシバシ飛び上がる颯真には驚嘆きょうたんするばかりであったが、本人に言わせるとそうではないようだ。それから、諦めをつけるもうひとつ理由を颯真は話した。

「オヤジが去年死んじまってよ。オレまで死んじまったら母ちゃん独りになっちゃうしなぁ」

 暗い話題をあっけらかんと言うので、翔は反応に困った。

 颯真の父親もウィンドサーフィンを趣味としていたそうだが、昨年あの海で事故に遭い、亡くなったという。このできごとは颯真にとって、続けていくかどうか大きく悩ませるものであった。

「オヤジはオレにプロになって欲しいと思ってたみたいだけど、いかんせん実力が伴ってこねぇだろ。そんでテメェが死んじまうから、母ちゃんは心配するしよぉ。どうすりゃいいんだよオレ、ってね」

 口ぶりがぞんざいになるほど、父親を失った悲しみと実績がついてこない歯痒さを、胸に押し秘めているようだった。翔は適当な言葉を見つけることができず、ビールをあおる颯真を見つめることしかできなかった。

「まぁ、プロになれって言うんなら、風が味方してくれるかもしんねぇな。オヤジが神風を吹かしてくれるかもしんねぇ……ヤバ。なんかすげぇ恥ずかしいこと言った気がする。ちょっと今のナシな。ナシ——」



 居酒屋での会話を思い返しながら、ファインダー越しに颯真を追い続けている。

何度か空へと舞い上がるも、着水に失敗したり、高さの出ないジャンプにとどまっている。苦戦を強いられている颯真を見ているのが徐々に辛くなっていき、翔はカメラを下ろしてしまった。

 肉眼で見る颯真は粒のように小さく、大自然の力に呑みこまれてしまいそうに感じた。

 また背後から風が強く吹きつける。その瞬間、その吹きすぎた風が颯真の元へと向かっていくのが見えた気がした。翔はすかさずカメラを構え、颯真に照準を絞る。

 ひときわ大きな波が上がり、颯真は真っ向から立ち向かった。勢いよく飛び上がると、誰よりも高く伸び上がり、そして美しいフォルムを作った。

 翔はシャッターを切った。

 優雅に飛翔するユリカモメのようだと、翔は思った。

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