鵜匠 ~鳥の段~
じっとりとむせ返るような暑さも、陽が沈んだ川の上では
黒い漁服に腰蓑をまとい、
鵜匠が一本の手綱をたぐり寄せて鵜を引き揚げると、ため込んだ鮎をすばやくカゴに吐き出させ、すぐに川に戻す。目まぐるしい動作にも悠然とした貫禄があり、瞬きをするのも忘れてしまう。
眼前の光景の主役である鵜匠は、小学校の同級生である。
昨年の旅行で宇治に来ていた紫織は、観光協会主催の体験ツアーに参加していた。そのプログラムには宇治茶をたてたり、座禅を組んだりという内容の中に『放ち
「鵜匠の
そう自己紹介する鵜匠に、紫織はどことなく懐かしい響きのする名前だと感じていた。遠い記憶を探りながら鵜匠の顔をまじまじと見ているうちに、幼少期の翔と面影が重なった。
思わず「あっ」と声に出てしまった。その瞬間に翔と現物客の目を集めてしまい、すぐに「なんでもないです」と周囲に謝り、翔の説明へと促した。マスクをし、伊達メガネをかけ、帽子を
翔はひどく緊張していて説明もたどたどしく、人前に出ることに不慣れな様子が伝わってきた。そのさまは、幼い翔が教室の教壇に立って自由研究の発表をする姿を思い起こさせた。あの頃と変わらない翔に、紫織は少しほほえましい気持ちになった。
翔が鵜匠になっていたのは驚きでもあったが、意外ということでもなかった。
親の都合で転校をした先で紫織は翔と出会った。小学四年生のときである。
翔はかなりおとなしい性格をしていて、クラスの中でも目立った存在ではなく、会話をするようになったのはずっと後のことであった。
豊かな自然に囲まれた町で、四季折々の草花を見つけては道草をしていた学校の帰り道に、川岸でランドセルを背負った翔が何かをジッと見つめている姿を見かけた。
「なに見てるの?」
紫織が声をかけると、翔は驚いたように振り返り、「シッ」と口に人差指を立てた。翔が視線を戻すと
「あー……」
翔は残念そうな声音と共に鳥の行方を目で追った。
「ごめん」
紫織はすぐに謝ったが、翔は何も言わなかった。ふてくされるでも怒りをあらわにするでもなく呆然と佇んでいて、その姿が却って申しわけない気持ちを増幅させた。
「本当にごめんね」
もういちど謝ると、翔は目を合わせずに黙って首を横に振った。
「なに、見てたの?」
「……カワセミ」
翔は口下手な感じのする雰囲気で一言だけ答えた。
「鳥、好きなの?」
今度は声には出さずコクリと頷いた。翔もまた、道すがら野鳥を見かけては足を止めて、観察をしているらしかった。友だちと遊ぶことをあまりせず、家に帰ると一眼レフカメラを持って家や学校周りに生息する野鳥を撮るのだそうだ。ポケットにはハンディサイズの図鑑を忍ばせていて、見たことのある鳥にはチェックがされていた。
そのことを知ってからは、たまに一緒に観察することもあった。紫織が花を観察しながら鳥を見かけると翔に声をかけ、翔が鳥を観察しながら花を見かけると紫織に声をかけた。お互い自分の分野にしか興味がないから、「これなに?」と訊いてもほとんど記憶には残らないのだが、稀に花と鳥が美しく融合した写真を翔が撮ると幼いながらに感動を分かち合ったものである。
翔とそうやって何度か遊ぶうちに、ふだん学校では見られない顔を垣間見ることができた。感情があまり表に出ず、授業ではほとんど手を挙げることもなく、朗読をさせれば蚊の鳴くような小さな声で頼りなく読み上げ、運動させてもお世辞にもカッコイイとは言えない鈍くさい動きをする少年が、鳥に関することだけは嬉々として語り、新たな発見には好奇心をあらわにする。とは言え、いくら鳥に関することでも、自由研究の発表などで多くの視線が自分に集まれば、アガリたおしてその豊かな感情は失われるのだった。
『放ち鵜飼』の実演が終わり、見物客の拍手に包まれた翔は硬い笑い顔を浮かべながら「ありがとうございました」と応えた。客がぞろぞろと立ち上がる中で、後かたづけをする翔の元へ紫織は駆け寄った。
「
翔は思い当たる節がなく、キョトンとした様子だった。マスクを取り、メガネを外すと、眠っていた記憶が目覚めたように翔の表情は驚きに満ちた。
「ああ――」
そう言ったきり、次の言葉を継げる様子はなさそうだった。
「わたしもびっくりしちゃった。江籠くん、鵜飼やってたんだ」
「うん」
驚きのあまりに言葉が出てこないのか、それとも口下手だった幼き頃をそのままに大人になってしまったからなのか、妙な間が流れた。それでも次に口を開いたのは翔の方だった。
「――なんで?」
「たまたまなの、本当に。旅行中でね、体験ツアーに申し込んで来たんだけど……いや、びっくりしちゃった」
「そうなんだ」
「すごいね。ずっと鳥が好きだったんだ」
「うん――まぁね」
会話している間にも翔は脇にいる鵜の首や体をしきりに撫で、鵜もそれに甘えるように頭を翔にこすりつけている。それだけで絶大な信頼関係が築かれていることが見て取れた。戯れる鵜の姿に紫織は顔をほころばせて言った。
「かわいいね」
「ありがとう」
翔は照れるように答えた。
「よかったら、来年の夏、また見に来てよ」
「夏?」
「今シーズンはもう終わっちゃったけど、七月から九月まで舟に乗った鵜飼をやるんだ。何ていうか一般的な鵜飼漁。かがり火を焚いて」
「へぇ、素敵だね。見てみたいな」
紫織は社交辞令ではなく心の底からそう思った。翔との
翔が自らなにかを勧めるようなことは、記憶を辿ってもおそらくなかったように思う。
「うん、ぜったい見に来るよ」
紫織はそう約束した。
鵜匠・江籠翔は、記憶にある江籠翔とは全くちがうように思えた。
鵜に繋がれた十本もの手綱さばきは目で追うのが難しいくらいに素早く、暴れまわるように鮎を捕獲していく鵜たちを見事に操り、「ほーう、ほーう!」と出すかけ声は、太く自信に満ちあふれたものだった。
バチバチと
紫織の頬に、一筋の涙が伝った。
なぜかは分からない。ずっと恋い慕うような相手でもなければ、一生の友というのでもない。偶発的に再会を果たしただけの同窓生にすぎない。しかし、翔という人間がやけに愛おしく、また
観覧船に乗った客たちはしきりにカメラを向けて、その様子を撮り収めている。紫織は胸の前で組んでいた両手をほどき、親指と人差指を直角にして目の前にフレームを作った。
物としての記録ではない。心に残る記憶として強く焼きつけようと、紫織は思った。
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