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Page01 ペンチ大好き!

仕事は時給いくばくのコンビニエンスストアのアルバイトであった。

夜勤担当者の寝坊というなんとも間抜けな理由で、終業時間が二時間少々遅くなった。

業務連絡の引継ぎもせず、タイムカードを切るやいなや職場を飛び出し駅へと走った。

最寄り駅の改札にICカードを叩きつけ、上りエスカレーターの渋滞を避けて階段を駆け上がった。

あと数段で乗り場というところで、電車が発車した。

あの電車に乗れたなら家まで真っすぐ帰れたかもしれない。


平日の総武線最終電車の車内の空気はくぐもっている。

安っぽい酒気、なまぐさいため息、取るに足らない悪意と嫌悪。

それらがただただ徒に吐き出されて、停車のたびのドアの開閉によってわずかばかり希釈される。

東京に出てきてしばらく。電車に乗るといつのまにか息を止める癖がついた。


JR山手線新宿駅のホームに降りた。

この街の夜風はいつも湿気を帯びていてドブ臭い。

電車が走っていれば、少し歩いて西武新宿線へ乗り継ぐ予定だった。


新宿から歩いてアパートまで帰るとしたら二時間ぐらいかかるだろうか。

とはいえ歩いて帰るのも、身銭を切ってタクシーを拾うのも、どうにも気が乗らなかった。


行く当ても目的もなかったが、これ以上ドブ臭い風に当たりたくないという理由で東口の改札を抜けて地下道へと歩を進める。


平日の終電直後だというのにまるで人足(ひとあし)がなかった。

光量を絞られた弱い蛍光灯の光さえも遮るものはなく、クリーム色のタイルを鈍くあいまいに光らせている。


手持無沙汰にスマートフォンを取り出した。

緑色のアイコンに触れる。

既読して返信をつけていないチャットが開く。

返事を打ち込む代わりに相手の写真に指を重ねて電話機のマークを押す。

高校の同級生は今、就職活動の真っ最中だったはずだ。


夜勤のバイトが寝坊してバイトが伸びて終電を乗り損ねたこと。

歩いて帰るのも面倒で、夜更けの新宿駅地下道をふらふらしていること。

挨拶代わりにもならない、取るに足らない雑談。

それでそっちはどう。順調なの。


「えっ、就職決まったの」


自分でも驚くほど低い声だった。

耳周りの首筋の温度が一気に下がった気がした。

経営者と他の誰かの都合を埋め合わせるようにして朝も夜も区別なくアルバイトに精を出しているうちに、同級生はかねてからの希望であった職種に就職を決めていた。

運よく滑り込んだのではなく、彼は自らの手で願いを勝ち取っていた。


「うん。いいね、今度遊びに行こう。お祝いしよう」


目的を果たし、その重責から解放された彼の声は明るく羽が生えたようだ。

本当の自由を得た彼の誘いに応える自分の声はひどく甲高く、うわずっていた。

自分は彼の成功を、彼の目を見て心から祝福できるだろうか。

耳に響く彼の言葉と音が全く意味を結ばなったころ、焦点が合わなくなってぼやけていた視界に人影が浮かんだ。


「もしもし。もしもーし」


電波の都合か、突如として通話が切れた。

その瞬間、自分が深く安堵していることに気が付く。

果たして自分は、こんなにも嫌な奴だったろうか。


「すいません、ちょっといいですか」


短距離走を駆け抜けたあとのような胸心地。

投げかけられた声にうつむいた顔を上げた。


「はい。なんでしょう」


クラウン・メイクと呼ばれる、目の周りと口の周りを派手に塗りたくり赤い付け鼻をのせた道化の様相。

いや違う。赤い塗料か何かを、目と鼻と口にたっぷりと塗り込んでいるようだ。

アイシャドウやリップなど化粧品の類ではない。

もっと暴力的で原始的な、明度の低い暗い赤だった。


眉頭の眉頭の間から真上に登ったラインで頭髪が刈り込まれている。

モヒカンと呼ばれる、眉間から後頭部にかけて頭髪の一部だけを残した髪型がある。

眼前の異形の髪形は、モヒカンの真逆のそれである。

髪の色は緑、人工芝のような鮮やかな緑。

顔周りの赤色とあいまって時季外れにもクリスマスを連想させた。


この異形は、つい数秒前まで視界の端に小さく映っていた人影なのだろうか。

だとしたらなぜこの短時間に、鼻息を感じられるまでの距離に肉薄しているのだろう。


「爪、剥がさせてもらえませんか」


ひどくかすれて荒れているが、女性の声だ。

目の周り、鼻筋、口回りを工の字に赤く塗り汚し、頭のど真ん中に草刈り機を走らせ、服と呼ぶのをためらってしまうボロキレを着ている、女。

驚きは理解を放棄させ、恐怖もマヒさせることを知った。


「手と足の爪を剥がさせて欲しいんです。全部」


あなたの手相を見せて欲しいんです。

あなたの幸せを祈らせて欲しいんです。

あなたの前世のカルマを落とさせて欲しいんです。


街を歩けば棒に当たるよりもはるかに高い頻度でお願いをされる。

よく言えば人畜無害な、正直に言えばチョロいカモのような顔をしているのだろう。

しかし爪を、手足の爪をそれも全部剥がさせて欲しいというのは、過去にない体験だった。


「ちょっと何言ってるかわからないです」


わけのわからなさに不思議と笑みがこぼれた。

きっと嘲笑ではないと思う。

ゴールデンタイムのお笑い番組を見たときの無為の笑みだ。


眼前の女の頭のいかれたおねだりは、同級生の成功という、心の器の小さな人間の鳩尾に突き刺さった鉛の棒を引き抜くに足るだけの強いインパクトがあった。


「爪剥がさせろって言ってるんだよ。生爪。なまづめ」


女の、輪郭の薄れた黒目は切れ長の白目の中を微動だにしない。

カチカチと歯ぎしるような音がする。

いつの間にか、女の手には錆の浮いた大きなペンチがあり、それが獰猛な小動物が威嚇するようにして、咢(あぎと)を鳴らしていた。


「いやいや。ちょっと落ち着いてくださいよ」


奇抜ないでたちという強烈な短期麻酔が抜けていく。

眼前の異形がビジネスライクな個性と多様性などではなく、具現化した異常そのものであることをようやく脳が理解する。

理由の如何を問わず、関わってはいけないものが世の中にはある。

鞘のない刃物であったり、理由のない狂気であったり、誰かを支配しようとする意図であったり。

目の前のこの女は兎にも角にも、いけないものばかりで出来ていた。


「爪を剥ぎたい夜もあるだろ。そうだろ、若人」


爪を剥ぎたい夜とはどんな夜だ。

予定も都合も聞かれないまま残業を押し付けられた夜のことか。

同じ水域を揺蕩っていると信じていた友人に埋め兼ねる差をつけられた夜のことか。

性別さえ推し量れないような頭のおかしないけないものの塊にすごまれている夜のことか。


転がり出づるキュー・アンド・エーに脊髄反射のノーが貼り付けられる。

そのわずかな空白に、いけない女は握手ほどの気安さでペンチを彼の手に向けた。

防衛本能が反射的に手を引かせた。

赤錆びたペンチのぎざついた顎が追いかけた。

バチンという大きな音で、夜の地下道のよどんだ空気が震えた。


「ちょっと何するんですか!ああ!」


逃げるのが一拍遅かった。

彼の人差し指の先はためらいなく女のペンチで握りつぶされた。

痛みも一拍遅かった。

指先に灼熱を覚える痛み。

末梢の痛みは肘までかけあがり、腕全体の急激な冷感に変わる。

過去に経験したことがない、強い頭痛と息苦しさは胸と頭を強く鈍器で叩かれたかのようだ。

背中に汗が浮く。

足先からどんどん、力が抜けていく。

自分は震えているのだと気づく。


「痛え!なんだよこれ、あんた迷惑系Youtuberか何かなの!やっていいことと悪いことがあるだろ!」


「ああ。ダメじゃないですか動いちゃ。指が潰れちゃったじゃないですか。指が潰れたら、爪が、綺麗に剥がせないでしょうが!」


相手のモラルを糾してこちらの作法を叱られる。

理屈が通らない、いけないものだ。

痛みと恐怖のデュエットはすぐに嘆きへと変わる。

彼はその場にへたり込んで、潰された指先を胸元にそっと寄せて悲鳴を上げた。


「誰か!警察呼んでください!こいつ頭おかしい!」


恥も外聞もなく助けを乞うのはいつ以来だろう。

中学生のころ、地元の不良に集団でリンチされた日以来だろうか。

いいや違う。少し前に満員電車で痴漢に間違えられたときだ。

もっとも、どちらも誰からも助け舟が出されることなかったが。


「あのねえ、警察なんてこないよ。っていうか誰もこないよ」


傷害罪の現行犯は倦んだような目でこちらを見て呟いた。

彼もまた、体感的にそれを肌身に知っていた。


「ここはね、お前の知ってる新宿じゃないんだ。新宿なんだけど、お前の知ってる新宿じゃない」


非日常はいつだって日常を装ってやってくる。

いつもだったらもうこの時間には、最寄り駅を降りてアパートまでの道すがら深夜スーパーで、すっかりくたびれた売れ残りの総菜を買い、電気をつけることも面倒になった暗い部屋で、サジェストされたというだけの理由で小うるさい動画を見ながら、食べるのか寝るのかもはっきりしない状態であるのだろう。


それでも彼は痛む手でスマートフォンの液晶をフリックした。

警察に通報しようとした。

それが最善手であるとは思わなかったが、それ以外の選択肢が浮かばなかった。

人差し指は潰されていたので、中指を立てた。


「スキあり〜」


女が嬉しそうに言った。

赤さびの浮いたワニが慣れない中指の先端を人差し指のときと同じようにして食いちぎっていった。

今度は指をつぶしてしまうことなく、トンビが油揚げだけを颯爽と攫うように、爪だけを鮮やかに持って行った。


彼の脳は理解など追い付かないただただ度し難いこの現状と、目の前のいけないものとの整合性を保つことに全知全能を向けていた。


「あと十八枚剥がせるな!」


手と足の指はそれぞれ五本ずつ、左右合わせて合計で二十本。

一枚は指ごと潰して、一枚は今剥いだから、二十引く二で十八。

ハイ、大変よくできました。


頭の整理に簡単な算数をやるといいよと提案したのはどの文化人だったか。


続いて、臍下に何かが強く当たった。

震えていた彼の足では耐えることができなかった。

その正体が女の前蹴りだと気づいたのは、後方にのけぞって尻餅をついた後だった。


「何なんだよ。何のうらみがあるってんだよ」


いくら考えてもわからないならば出題者に回答を聞くしかない。 

本当のところ、別に理由を知りたいわけではないのだが、これだけ理不尽なのだから、せめて表向きの理由くらいがあってしかるべきだと思った。


「恨みなんてないよ。っていうかどうでもいいわお前なんか。いいから爪剥がさせろよ。ほら、早く。いくぞー。イチ、ニー、サン、ダーッ!」


元気があればなんでもできるとは蓋し名言である。

初対面の相手の指を潰して爪を剥いで、蹴りを入れて自由を奪い、残る十八枚の爪を剥がすことだってできる。

そうしてこの蹂躙が、いけないもので出来上がったこの女の、シンプルな自己表現に裏打ちされたテロリズムなのだと知った。

爪を剥げればどうでもいいと言われたら、もうそれまでだ。


「ごめんなさい助けてください!金ならあげます!警察にも言いませんからやめてください!」


交渉のテーブルにもつけない今、無抵抗と恭順を示すことが生き延びるために必要なことであると、彼は知っていた。

価値のあるものとなぶることができるものを全て差し出して、自らは口を紡ぎ耳と目を塞ぐ。

そうして害が通り過ぎるのを五感を殺してじっと待てばいい。

人に害なす人間なんてそんなものだから大半の人害はこれでどうにかなってきた。


「金なんていらないし警察も来ないってば。わかんねえ奴だなぁ」


この女はどうもダメらしい。

爪を剥げなければ、ダメらしい。


「じゃあなんでこんなことするんですか。どうして俺の爪を剥がすんですか」


女は返事の代わりに剥いだばかりの彼の爪を大事そうに掌で転がし、顔を近づけて舌を伸ばし先端に掬い上げた。

首を後ろに傾けて滑り台のようにして口腔内に転がすと、口を開いたまま音を立てて大事に大事に味わいながら咀嚼した。


「うーん爪はいいよなぁ。爪はいい」


剥ぎたての爪を堪能した女は当然のごとくお代わりを要求する。

当然だ。

あと十八枚も食べられるチャンスが眼前にあるのだから。


「どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ」


不平不満というよりは自問に近い独白が口から転び出た。

社会的弱者ゆえ、と一言で総括するにはあまりにナンセンスな平日の夜である。


「そうやってさあ。誰かに助けてもらえると思ってここまで生きてきたんだろお前」


爪をこよなく愛するいかれた女はひょっとしたらエスパーかもしれない。

心の底を見透かされたというよりも走馬灯のように見た苦くむず痒い経験を、画面共有していたかのような気恥ずかしさ。

だからきっとそれは図星のその中心点を衝いているのだろう。

それも彼自身が認知できないほどの深い部分で。


「顔に滲み出てるんだよ。他力本願顔(たりきほんがんがお)とでもいえばいいかな。ペンちゃんさあ、そういう奴がすっげぇ嫌いなんだよね」


他力本願顔とはどんな顔なのだろう。

功徳あふれるありがたい微笑を湛えた仏像の顔ではないだろう。

生前の罪を裁く毅然とした閻魔の顔でもないだろう。

顔色を伺っていることを悟られまいとする無表情を装った者の顔が近いだろうか。

たとえば自分のような。


「ペンちゃん」


「あ、ドモドモ。初めましてペンちゃんです。ペンチが大好きだからペンちゃん。いい名前だろ。は~い開示終わり。」


女は自らをペンちゃんと名乗った。

愛らしくキャッチーな名前に心臓発作を起こしそうな温度差を覚えた。

思わずその名を口にして確かめてしまう。

女は、ペンちゃんはそれを再(ま)た認め、縁起を明かして口添える。


新宿地下道のか弱い蛍光灯の明かりの下、ペンちゃんの影が濃くなった気がする。

やせぎすでとがった頬骨の輪郭がよく見える。

赤く塗りつぶされた目と鼻と口の奥に、彼女の存在が拍動している。

爪を剥ぎたいという言行一致に、ペンちゃんという名札が縫い付けられた。


「ワールド・イズ・自力救済(じりききゅうさい)。令和は弱肉強食の時代なんだよ。鎌倉時代の再来だ。なあ、爪剥がされたくなければ、戦えよ」


歩み寄ってきたペンちゃんに髪を鷲掴みにされる。

彼女の言う通りの、されるがままだ。

彼は自力救済の対極で腰を抜かしていた。


ペンちゃんがその気になれば、残り十八枚の爪を剥ぐことも、このまま命を奪うことも間違いなくできるだろう。


闘争か、逃走か。

交渉はできないから選択肢は二つだ。

どちらも選ばないという手もある。


誰かが手を挙げるまで帰れない、いつかの帰りの会。

やり玉に挙げられたのは誰で、そもそも議題は何だっけ。

うつむいて時間が過ぎるのを待つのは苦手ではなかった。


「ここじゃ誰も助けてくれないんだよ。だが問題はそこじゃない。お前は抵抗することを放棄した。それが問題だ」


ダメだ。全て看破されていた。

やっぱり最初から見透かされていた。

頭から尾まで、偽装していた部分まで、即座に恐怖を感じ得なかった理由まで、家にまっすぐ帰らなかった本心さえ、ペンちゃんは暴いてしまった。


心の底から湧き上がるのは気恥ずかしさなどという気安いものではない。

そっぽを向いて知らん顔をしていた襟首を掴まれ、選択権を突きつけられ、選ばないという悪手など到底許されないとしたならば、爆発的に噴き上がるのは原液のどろりとした本能。


「ねえ助けて!誰でもいいから、助けて!」


喉を突き破って出た叫びは自己保身そのもので、ペンちゃんはどうやらそれが気に入らなかったらしく、ギラギラとした眼と歪んだ口端を明後日の方向にひくつかせて何かを叫ぼうとした。


「ハイそこの君、伏せてー」


誰かの声が割り込んだ。


叫ぼうとして叫びにならなかったのは叫ぶ前に、きっとその誰かに、頭を何かでぶん殴られたせいだろう。

およそ人の頭で鳴ってはいけない快音がした。

野球ならばツーベースヒットは固いと思った。

そのため凶器はきっとある程度重量のある、金属で出来た何かだと推測された。


ペンちゃんは頭を押さえて転倒した。

ああ、初対面の相手の生爪を剥がして踊り食いするような人にも、人間らしいところがあるんだなと妙な感心の仕方をしてしまう。


「あんた誰」


ペンちゃんが横合いから現れた誰かに頭を鈍器でぶんなぐられたことにはあまり驚かないでいる。

ペンチが好きだからペンちゃんなのだから、鈍器で頭をぶんなぐるからドンちゃんというところだろうか。


「誰でもいいから助けてって言ったじゃないですか」


それはそうだ。誰でもいいから助けてと叫んだ。

叫びに応じて現れたのは、白いシャツの上に黒いジャケットとスカート姿の、ポニーテールの若い女性だった。

おそらくは事務仕事に従事しているであろう装いの彼女が、名乗るよりも先に横合いからペンちゃんの頭を鈍器で打ち抜いた。


多すぎる情報量と反比例する整合性。

脳がトラフィック・ジャムを起こしていることをはっきりと知覚できる。


「ねえ今フルスイングしましたよね!頭にグチャって!ねえ、流石にこれは死にますよ」


「うーん、死なないと思いますよ。これ『いわくつき』じゃない、通販で買ったただの特殊警棒だし」



凶器の正体は特殊警棒であった。

警察官やセキュリティスタッフが護身用に持つ金属製の警棒は、コンクリートブロックをたやすく砕くだけの硬度がある。

たとえ通販で売っているような代物であっても、それで頭を本気で殴れば死亡ないし重篤な損傷を与えるだろう。


この女性はそれだけのことをしでかしながら、悪びれる様子もまばたきほどの興もない気怠げな口ぶりで、くの字に曲がってしまった警棒をつまらなそうに放り投げた。


死角から頭に特殊警棒を叩き込まれたペンちゃんがノソリと起き上がる。

どうやら頭が割れているらしい。

緑の芝生を思わせる特徴的な頭から粘度の高い赤い液体が噴水のように飛び上がり、額に頬に首筋に、ぬらりぬらりと垂れていった。


「何すんだよぉ。親切なペンちゃんが、他力本願ヤローに世の中っていうものを教育してやってたのにさあ」


横合いから赤の他人の頭を鈍器で殴りつけるということは、ほんの悪ふざけで済むのだろうか。

昏倒するでもなく、痛みに呻くでもなく、ペンちゃんはいよいよサイケデリックな色彩になった頭をさすりながら、微動だにしない双眸を下手人へ向けた。


「生きてる。頭カチ割られたのに」


「三食きっちり爪食ってるからね。カルシウムたっぷりの頭蓋骨はそうそう割れないんだわ」


信念に裏打ちされた持論はときに、物理学と生理学を容易く凌駕するのかもしれない。

三食きっちり爪を食べるということが彼女の体にどれほどの影響を与えるかはこの際問題では無いのだろう。


ペンちゃんの頭を砕いた張本人もまた、さして悪びれるでもなく、生爪健康法による脅威のタフネスに驚くでもなく、細身ながら曲線の美しい胸を軽く張り対峙した。


「突然のご挨拶失礼いたします。TA(ティーエー)と申します。呼ばれて飛び出て助けに参りました」


「ティー・エー。はあ。ここに来れたってことは、同業者だよね。ねえ、お前はどっち側なの」


「机です」


TKはテツヤコムロでKJはフルヤケンジ。

だからTAというのも、まあそういう類の略称なのだろう。

同業者という単語も出てきたし、この二人はきっとエンターテインメントを生業としている人たちなんだろう。きっとそうなんだろう。そうあれかし。


「あ~デスクワークスか〜。じゃあ、お前殺さなきゃなあ。ペンちゃんが殺されちゃうもんな〜。ご挨拶するね〜。初めまして、ペ〜ンちゃんで〜す。三度の飯より爪を剥ぐのが大好きで〜す。開示終わり!そんじゃ、死ねよ事務屋」


夥しい失血を止めることなく、ペンちゃんはTAへと飛びかかった。

助走もなくワイヤーアクションのように飛び跳ねる彼女は本当にサーカスのピエロのようだ。


対するTAはその場を動かず、スーツジャケットのポケットから筒状の何かを取り出した。

鋭く空気が漏れる音。

防犯用の催涙スプレーがペンちゃんの顔に吹き付けられた。


「なんだよこれ、めっちゃ滲みるんですけど!」


人間は目への攻撃を本能的に防御してしまう。

痛みや恐怖ではない、強い風が目にあたれば瞼が収縮するのと同じ生理的な防御反射が起こる。

ペンちゃんが果たして人間なのかどうかはさておき、咄嗟の虚が生まれた。


手首を掴まれる。

小柄で細身な女性とは思えない、とても強い力で。


「逃げますよ。走れますね。走れなくても走らないと死にますよ。さあ、走って」


抑揚のない声で捲し立てられ抜けた腰がどうにか立ち上がる。

腕を引かれてぼんやりと薄明るい新宿駅地下道を疾駆する。

彼女の履いたパンプスには僅かなヒールがついていて、規則的な叩打音を誰もいない真夜中に響かせている。


「あの」


「聞きたいことは山ほどあるでしょうが、先にお伝えさせてください」


「あっハイ」


「キミは今、神羅万象の理しんらばんしょうのことわりからはぐれました」


日常に聞きなれない言葉はヒールの快音で一層認識が甘くなる。

別の生き物の尻尾のように揺れる彼女の束ねた黒髪は烏の濡れ羽色そのもので、蛍光灯の白々しい光で艶めいてとても蠱惑的に見える。


「シンラバンショウのコトワリ、ってなんですか」


「要は常識とかそういうものです」


常識人は初対面の相手の指を潰して爪を剥ぐだろうか。

常識人は見ず知らずの相手の頭に躊躇いなく警棒を叩き込むだろうか。

誰かの常識は誰かの非常識だとあの伝説のレスラーが言っていた気がする。


「金属製の警棒で人間のこめかみを渾身の力で殴ったらどうなります」


彼女の問いにドキリとする。

地下道をダラダラと走り続けているせいではない。

斜めに傾いた自分の頭の中を覗かれた気がした。


「死にます。死なないにしてもどえらいことになります」


「正解です。ですがアイツは、ボールが頭に当たった程度で済んだ。おかしいでしょう」


ここまできてようやく、この人はどこかまともなんだと感じた。

ボール、それも硬球ではなくゴムで出来たようなボールが頭に当たったような気やすさでペンちゃんは立ち上がった。

金属製の警棒がの字にひしゃげるほどに強かに叩かれて、である。


「そもそも何なんですかアイツは」


「あれはFCエフシーです。説明すると長くなるので、要は私たちの敵で、キミに害をなすものと捉えてください」


「つまり、ワルモノ」


「ものわかりが早くて助かります」


わかりやすい善悪二元。

であってほしいという気持ちが、彼の中に強く芽生えていた。

かたや緑色の奇抜な頭をしたクラウンメイクの拷問マニア。

かたや腰回りの曲線が美しい素朴で聡明な若い女性。

前者は正義の名の下に打ち倒されるべき悪玉であり、後者こそが自分を救いにきた守護天使であってほしいと、願ってさえいた。

薄明かりの下、彼女に腕を掴まれて走っているこの場所は、鬱屈した毎日を抜け出して特別などこかへ辿り着くための秘密の長い長い小道なのかもしれない。


「もう一つおかしいことに気づきました」


「なんでしょう」


「これだけ走っているのに駅にたどり着かない」


「はい。そういうことです」


TAが立ち止まった。肩が呼吸で揺れている。


「ねえ、スマホ持ってますよね。警察呼びましょうよ」


「森羅万象の理の外に警察はいません」


今さっき、ペンちゃんにも同じようなことを言われた。

きっと多分そうなのだろうと、なんとなく思う。


「じゃあどうするんですか」


「ブッ殺すしかないんじゃないですか」


終電を逃したなら歩いて帰るしかないんじゃないですか。

彼女の言い回しはその程度の軽さだった。

どこかまともな人だ、という直感は正しかったようだ。

どこかはまともで、それ以外はあまりペンちゃんと変わらない気もする。

逆にペンちゃんくらい見た目が突き抜けていればある意味諦めもつく。

あのイカれた装いで愛や道徳を説かれた方がよほど怖気立つというものだ。


しかし眼前の彼女はどう見ても若いOLで、それも夜な夜な繁華街に繰り出したり既婚上司と悪い遊び感覚で不倫してしまう火薬臭さを漂わせたタイプではなく、小さな映画館でとても繊細だけどかなり退屈な映画を一人で見に行くような、そんな容貌をしている。


「あなた何者なんですか」


「デスクワークスの教育採用係です」


事務方専門の人材派遣会社に似たような名前のところがあった気がする。

エントリーシートは送ったが面接には漕ぎ着けられなかった。


「ついでに開示かいじしておきましょう。私の名前はTA。TAは、ティーチング・アシスタントの略です。前職は塾講師をしておりました。喧嘩はあまり得意でないので通販で買った護身グッズが頼りです」


華美でないメイクも、モノトーンのスーツルックも、後ろで束ねただけの少し寂しいヘアスタイルも、塾の先生ならば最適だろう。

短い沈黙が転がった。

彼女のヒップラインへと目が奪われた。

細身ながら骨盤周りが大きく、後ろ姿は童話の人魚を連想おもわせた。

禁欲的なモノトーンのスーツから肉感が滲み出るほどの女性だったろうか。

うなじから後毛のほつれたポニーテールはこんなに黒かっただろうか。

蛍光灯の弱い光など飲み込んでしまうほど、くろかっただろうか。


「それから、アイツにやられた手を見せてください」


彼の心は俄に踊りたった。

無慈悲で無秩序な通り雨に似た暴力を浴びた身に慈愛の陽が当たるかもしれない。


「手当してくれるんですか」


TAは顎をしゃくる程度に頷いて、それから眉間に皺をひとつ刻んだ。


「ヒかないでくださいね」


彼女はそう呟いてから赤黒く血に染まった手をとって、自らの唇へと寄せた。

幅の薄く血色の乏しい唇が開く。

小さく白い真珠に似た歯列の奥に、原色の赤い舌が気だるげに横たわっている。


ため息をつくようにして呼吸を整えると、TAは彼の指を愛撫同然に舐め上げて口腔へと挿れた。


「何を、するんですか」


彼の眼前で繰り広げられている動作はただただ純粋な卑猥だ。

理由や動機を後回しにして行われるその刺激的な行為に後頭部のあたりが灼ける気がした。


神経が灼ける錯覚は後頭部から首の後ろを通り、脇の下と鎖骨とに別れて、そのままぐちゃぐちゃに潰された指先にまで到達する。


熱いような、痺れるような、くすぐったいような、離れたいような、やめないでほしいような。

この行ったり来たりが性的絶頂の直前のそれに似ていると彼が気づいた、そのときだった。


「はい。もういいですよ」


音を立ててTAは口から指を引き抜いた。

なんという生殺しだろう。

あともう少し、この粘膜のゆりかごの中にいさせてくれたら、彼は目と口から精液を垂れ流すことができたかもしれないのに。


「手を見てください」


寝起きの心地で目線を手元に合わせると、潰されたはずの人差し指が元に戻っていた

正確には、人差し指と中指に爪はないが、指と呼称して差し障りのない肉質がなぜか再生していた。


「指が、治ってる。なんですかこれ」


「これが私のアウトローです」


「アウトロー」


潰された指が再生したことは確かに驚嘆に値する。

だが彼女の口腔内の心地良さはこの現象をさしたる問題ではないように思わせる。


「超能力のようなものです」


「TAさんってビックリ人間か何かですか」


「どういうわけだか、私の唾液には治癒能力があります」


「はあ」


「私の『開示』は以上です。次は、キミの番ですよ」


開示。

何を自己開示したらいいだろう。

彼女の超能力の副産物で危うくオーガズムを迎えそうになったことを打ち明ければよいだろうか。

願わくば、それをもっと続けてほしいことも。


「自己紹介は苦手なんですよね。ええと、名前はスズキ……」


スズキ。日本で一番多い苗字。

下の名前もごくありきたりな、スズキナニガシ

苗字も名前も一般的で同姓同名にはこれまで何人も遭っている。

彼には一度たりともあだ名がついたことがなかった。


スーちゃん、ズッキ、スズ、苗字を崩したり縮めたものでも、下の名前のもじったものでも、エピソードに基づくものでも、一度たりともついたことがなかった。

鈴木、鈴木くん、鈴木さん、あるいは「ほら、あの……いつも休み時間机で寝てる、誰だっけ、ほら、あの。」


苦手な自己紹介は彼女の指に遮られた。

垂直に立てられた人差し指が彼の唇に押しつけられる。

体つきの割にその指は長くて節が目立った。


「本名はダメです。それがバレると弱くなります。何かこう、源氏名げんじな的なやつがいい」


「源氏名って。ホストやキャバ嬢じゃないんですよ。コンビニでバイトするフリーターにそんなもんないですよ」


「じゃあキミは今日からです」


バイト。コンビニエンスストアでアルバイトをしているフリーターだから、バイト。

東京に出てきてからは確かに本名よりも「おいバイト」と呼ばれたことの方がずっと多いような気がした。

自虐的な笑みが転がり漏れる。


「直球すぎやしませんか」


「私だってTAですから。さっきのアイツもペンチが好きだからペンちゃん。別にいいじゃないですか」


塾のティーチング・アシスタントだからTA。

コンビニでアルバイトしているからバイト。

ペンチが大好きだからペンちゃん。

確かに名付けの足並みは揃っているが。


「ではバイトくん。キミはなぜここに来たんですか」


「言わなきゃダメですか」


「はい。開示をすることで作用が増強します」


「作用って何ですか」


「死にたくなければ早く行ってください」


彼女の目は黒目が薄く、角度によっては時折灰色に見えた。


「その、就職活動が上手くいかなくて。家に帰るのが、何だか怖くなって。ずっと駅のホームでスマホいじってました。この前のところなんか面接官一度も目線を合わせないんですよ。お祈りメール送る前に祈り出すような感じで。もうやってらんないっすよ。バイト先じゃいいように使われてて。土日祝日ばっかり勤務して。時給は据え置きで。残業代出ねーし。クレーム処理ばっかりさせられるし」


堰を切ったように出る不平不満に自分でも驚く。

なんだ、まだ怒れるんじゃないか。不服だと言えるんじゃないか。

日に日に閉じていく視野が少し広がって、蛍光灯の光が強くなったように錯覚する。


「今くらいで十分です。開示していただきありがとうございました」


放っておけばとめどなく溢れ出る愚痴を彼女が素気なく制した。

脂質過多の生クリームを連想させていた蛍光灯がいやに眩しい。

先の見えなかった地下道の向こうに小さく人影が見えるほどだ。


あれは誰だ。デビルマンよりずっと厄介な、奇抜なシルエット。

影は大きく振りかぶって何かを放り投げた。

直線的に放たれた何かは重力などまるでこの世にないとばかりだ。

少し面長で血色の悪い彼女の小さな頭に長方形が突き刺さって爆ぜる。

彼女の悲鳴は間に合わない。


「TAさん、よけて!」


発作的に突き飛ばした。絶叫が後だった。


尻餅をつくまでの一刹那、眉間に皺を寄せた彼女が不服げにこちらを視た。

二人の間に流れる不穏な空気を、見覚えのある格安スマートフォンが物凄い勢いで通り抜けて、壁に当たって派手に砕けた。


「忘れ物のスマホ、届けに来たよ。んじゃ、爪剥がそっか」


ペンちゃんはあんな形(なり)をしているが義理堅いタチらしい。

忘れ物や落とし物の類はネコババせずちゃんと持ち主に届ける性根の真っ直ぐな人間……うん、多分人間だ。


挨拶がわりに放り投げられたスマートフォンの月賦は月々いくらだったか。

第三者に破壊された場合は本体修理に保険が適用されるのだろうか。

あ、っていうかスマホのバックアップ取ってたっけ。

連絡先が消えたところで困ることもないのだろうけど。


喜色満面のペンちゃんがゆっくりとこちらに歩を進めてくる。

頭の中ではどうでもいい算段が見慣れたSNSのつぶやきのように流れてくる。


いつだってそうだ。

こういう状態の後は、一方的に痛い目を見せられる。

経験則から目を逸らすために思考は雑多へ向かっているのだろうか。


トン、と頬を小突かれる。

彼女のたおやかな指先ではない、冷たい金属の鋭い温度。


「バイト君。これを」


「これ……ヤンキー漫画でよく見るやつ」


彼女が頬に押し当ててきたのはメリケンサックと呼ばれる凶器によく似たものだった。

正式にはナックルダスターと呼称される、拳に握り込むことで殺傷力を高めるために作られた拳闘用の武具だった。


さてはこれを握って爪を剥ぐことを至上の喜びとする狂人と殴り合えというわけか。

気色の悪いオマージュが詰め込まれたB級映画のような提案だと思った。


「あの、その、喧嘩は全然ダメで」


「だと思いました。これはです。ないよりは、あった方がいい」


「いわくつきって」


「知らないと思いますが、それはブルース・ディーの遺品です」


「あのジークンドーの、燃えろドラキュラの、ブルース・ディーですか!」


「お若いのによくご存知で」


ブルース・ディーは中国武術家であり、ハリウッドを代表する俳優でもある。

没して久しいが信者と呼んで差し支えない熱烈なファンたちの布教により、世代の溝を飛び越えて今なお愛される二十世紀の名優の一人だ。


そして彼もまた、感化された信者の一人だった。


「大好きなんです」


「それは重畳。今からキミはソレであのペンチキチガイをぶん殴るのです」


こうなることは薄々気づいていたが、実際に面と向かって告げられると気が重かった。

だが、このサビの浮いたメリケンサックは敬愛するあのブルース・ディーの遺品なのだ。

大きな後ろ盾を得た気がした。


彼は顎を引き脇を閉じて、受け取ったメリケンサックを握り込み、ペンちゃんへと果敢にも立ち向かった。

そして、前蹴りを腹に浴びて嗚咽を漏らす間も無くその場に倒れ込んだ。


「むざむざ死にに躍り出たなァ。いいゾ、それが、戦うってことなのよ!」


転がった後はもう手慣れたものだった。

ペンちゃんは一寸も無駄もなく倒れ込んだ彼の腹の上に腰を落とし速やかにマウントポジションを制圧した。

起き上がるだけの自由を奪い、膝を使って両腕を地に釘付けて、手始めに逆手に握ったペンチの先端を彼の肩口にり込ませた。


「はい、パッチンしましょうね〜」


彼は思い出していた。

小学校に上がる前の年のこと。

近所に住むカネコさんとお医者さんごっこをしたときのこと。


「あの〜おなかが〜おなかのしたがいたいんです」


可愛げと同等のいやしさを持って患者役を演じた彼にカネコさんが笑顔で放った言葉。


「それはおちんちんの病気かもしれませんね。ちんちんの皮をパッチンしましょう」


今にして思えば5、6歳の少女が腹痛と陰茎の割礼をどうして結んでしまったか末恐ろしいところではあるが、トラウマは時間と共にチーズやウィスキーのように熟成されていくものである。


「嫌だ!パッチンは嫌だ!」


よく見れば頭上の逆モヒカン姉ちゃんはカネコさんに少し似ていた。

少し垂れ目で、背が小さくて、はにかむような笑顔の……いや全然似てないむしろ真逆だ。


肩口に焼けるような痛みが走った。

意識を迷妄から現実に引き戻すだけの十分な痛みだった。

突き立てられた錆びたペンチは彼の皮膚の中に深く潜り、腕の骨と肩の中を結ぶ大事な何かを食いちぎった。


痛みはすぐに悲しみに変わり、彼の涙腺を強く叩いた。

涙が流れてくる。

その涙は痛みのせいではなく、終電を乗り過ごしてからずっと大きくなっていた不平の雪玉に対してだろう。


「なんで泣いてるの。てめえの力で、降りかかる火の粉を振り払って見せろよこのゴミムシ」


「助けてください」


作り笑いと愛想笑いが頬に張り付いてる。

自分でも思わず嫌悪するほどの、顔色を窺った声が出た。


「爪と歯を全部剥ぎ終わったら一思いに殺してやろうか。

それとも生まれてきたことを後悔するまで肉という肉をちぎってやろうか。

最期の選択だ。自分で決めろ」


「どっちも嫌だ。死にたくない」


「バカだなぁこれは二択。二者択一なの。

どっちかを選ぶしかないの。そこに自由意志はないの。

お前が、弱いから。お前が、役立たずだから。

だから、どっちを引いても、ハズレクジなの」


嘲っているのか、それとも憐れんでいるのか、あるいは両方か。

見上げたペンちゃんの個性的な顔が黄土色に染まっていく。

顎の鋭い輪郭が崩れて、やがてそのまま物言わぬ岩石に代わる。

チカチカと神経質に点滅していた蛍光灯は天井ごとどこかに消え失せ、薄紫の夜明けとも夕暮れとも択れる空が拡がっていく。

ここは一体どこだ。私は、ここで今何をしている。


己の拳を打ち付けては堅き岩を砕き、より堅き岩に拳を砕かれて幾星霜。

技を磨いては体が追いつかず、体を鍛えては心に足を取られて、また技を検めた。

何のために強さを求めたかなど疾うに忘れたが、拳に嵌めた鉄の塊は確かに私が私であったことを、物言わずに伝えてくる。


また思い出した。

自らの限界という目に見えぬが故の重さに耐え兼ね、私が私を撲殺したことを。

死して久しくも猶、ついぞ砕けなかった堅岩の残影を幻視ているのだ。

だが今ならば手が届く。

だが今ならば砕き切れる。

金剛石よりも堅牢であったあの岩が、今は歪な笑顔を浮かべる狂人の顔に見える。


胸の上に鎮座した岩を押し退かす。

あの岩は、終ぞ砕けなかったあの岩は今これほどに軽い。


拳を握り、脇を締めて岩を殴りつける。

振動する、脈拍する、息遣いと奇声が聞こえる。

岩に血肉が通うが如きの妙。

武芸に狂酔し自滅した者の狂気のなせることか。


岩の皮膚が裂けた。

舞う血飛沫は赤く、皮膜の下から脂肪のついた骨身があらわになる。


「やめろ!やめてくれ!」


眼前でハッキリと命乞いが聞こえる。

絹を裂くような女の悲鳴。

ああなんだ、これは、あの岩ではないのか。

なんとつまらぬことか。


「バイトくん、キミの勝ちです。とどめを。」


真横の声に耳を傾ける。

時系列がほつれて耳だけでなく視界も左に三十度ほど傾いた気がした。

ここは、どこだっけ。

目の前の、潰れたザクロのような顔の人は電車にでも轢かれたのだろうか。

何かを確かめようとして声の方に振り向く。

小柄な、ポニーテールの、血色の悪い、三白眼の、女性が、眉間に皺を寄せて、口を開け叫ぼうとしている。


彼女は 


「好き勝手やってくれたじゃねえか」


彼女の名前、もとい源氏名を思い出すと同時に横合いから思い切り突き飛ばされる。

受け身を取ることもなく無様に尻餅を着く。


ペンちゃんは頭からトマトケチャップほど粘度の高い、血液よりも死に近い体液をクジラの潮のように噴き出している。

頭蓋と顔面を構成する骨は子供に荒らされたパズルのそれで、両方の眼球はどうにかギリギリで水平を保っていた。


マニア向けレンタルビデオショップでしか見れないような、B級グロテスクホラー映画のパッケージを張れる姿になったペンちゃんが、肩で息をしながら追撃を図った。

追撃というよりは、どうにか近づこうと試みた、という方が正しい。

まあ結局のところ、その試みも徒労に終わった。


「落とし物ですよォ。ほら、大事なペンチ」


足元の血溜まりに転がっていたペンちゃん秘蔵のサビの浮いたペンチが、いつしかTAの手の中にあった。

隙をついて、もとい、立っているのもやっとの二人を尻目に、彼女は獲物を奪い取ったのだ。


「どうして!お前が!ペンチ持ってんだよぉ!」


絶叫じみた問いには答えず、TAはただ笑う。嬉しそうに、歯を剥き出して笑う。

彼女の笑顔を今日初めて見たかもしれない。

口を閉じて目を伏せていれば知性の滲む才女に見える彼女だというのに、鳥の卵かカエルの群れを見つけた蛇みたいに、目を見開いて頬と唇を真横に引き攣らせて笑っていた。


「ドタマかち割られて死ねよ」


彼女の嬌声と共に、大ぶりのペンチが持ち主の頭へと振り下ろされる。

鈍い音だけがして、悲鳴はない。

人間を容易く撲殺しうる質量を持った金属で頭を叩かれたペンちゃんは、微動だにせず立ち尽くしていた。


「避けないんですね」


笑い声を擬音で描写するのはどうにも陳腐でこそばゆいところだが、紋切り型の笑い声としか表現の仕様のない声とともにペンちゃんはその場に倒れて、眼瞬まばたきをやめた。


「今度こそキミの勝ちです」


さほどの感慨もなくTAが呟くように言った。


「ねえ、何なんですかこれ」


「何なんでしょうね」


彼女の返答は別段はぐらかしている風でもない。

本当にこの乱痴気騒ぎが一体全体何の因果でどういう風の吹き回しなのかを理解っていないていだった。

そしてそれを、別段知りたいとも思っていないのだろう。


「どうやらお時間のようです。生きていればまたそのときに」


二の句を継ぐ暇もなかった。

彼女へと顔を向けた刹那、カメラのフラッシュに似た白く鋭い光が両目に突き刺さった。

ハリウッド映画でこのような場面があった。

エージェント二人が、接触した一般人の記憶を消去するために、白く眩しい光を浴びせる場面。

エージェントの一人がダイナーでパイを食べるシーンだけがやけに記憶に残っている。


清涼感の強すぎる目薬を差した直後に似た、瞼の裏のひりつく感覚が抜けるまでにそう時間はかからなかった。

連絡を入れるのは警察か。それとも救急か。

あるいは自分自身が朝イチで精神科を受診すべきか。

何にせよ眼前の頭をカチ割られて死んでいる狂人を、どう説明したらいいのだろう。


諦めをため息で飲み込んで恐る恐る目を開く。


眼前には何気ない、いつも通りの新宿駅の地下道が広がっている。

血飛沫の一つもなく、気弱な蛍光灯の光がクリーム色のタイルをぼんやりと照らしている。


「……何なんだよこれ」


彼の呟きに、地下道のどこかで、ペンちゃんが応えた気がした。










































































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