第9話
(
友が死んだのと同じ場所で、同じ術で殺されるのか。──逃避のように考えるうちに、百足の牙の切っ先が、肌をひりつかせる距離に届く。激痛を覚悟して、辰蘭は目を閉じた、のだが──
「おお、やはり大物だ!」
視覚が闇に閉ざされた中、幾つかの物音が交錯して鼓膜に刺さった。
(何が……!?)
牙が肉を裂く痛みが感じられない不審に、辰蘭は思わず目を開け──そしてすぐに後悔した。
彼の目の前を、黒光りする百足の体躯が
百足の下半分は、鏈瑣の片手にしっかりと捕まれ、いまだ脚を蠢かせ胴をのたうたせている。そして、上半分は、もう片方の手に。
頭の半分は、
「鏈、瑣」
掠れた声で呼びかけても、食事に夢中の化物は辰蘭を一顧だにしなかった。大きく開いた口が百足の頭に齧りつく。もう一度おぞましい音が響いて、頭を完全に失った百足の身体がだらりと垂れる。
「丁寧に仕上げた、濃厚な毒だ……ああ、美味い……ついて来て良かった……」
唇を舐めた鏈瑣の舌は、正体を考えたくもない黒い液体に染まっていた。ちらりと見えた口中では、百足の牙や脚の欠片が咀嚼されていた。
鏈瑣の見た目がいかに整って美しくとも、大百足を恍惚の表情で貪る様は嫌悪と吐き気を
言いたいことは、山ほどあったが──
「鏈瑣! 口を閉じろ!」
辰蘭は、端的に叱責した。喰うなと言って、鏈瑣が聞くはずはない。せめて、少しでも行儀良く食事して欲しかった。口の中にものが入っている時は口を開くな──いったいいくつの幼児を相手にしているのかと思うと、頭痛と目眩に倒れそうになる。
「な、何だ!?」
「化物……!」
辰蘭の一喝に、
いっぽう、周囲の人の壁が薄くなったことで、鏈瑣はのびのびと食事を楽しむことにしたようだった。またひと口、百足の銅を食い千切り噛み砕きながら、性懲りもなく無作法に口を開く。
「そう言うな、先生。──ほら、術者も見つかったし」
「何……?」
鏈瑣が顎で示した先に、人がひとり、倒れていた。
「──ひっ」
傍にいた別の胥吏が、引き攣った悲鳴を上げて飛びのいた。それも道理、倒れた男は、尋常ではあり得ない方向に胴が折れている。ぶつけるものもないだろうに、顔の半分は無惨に潰れて赤く染まって。──まるで、鏈瑣に喰われた百足と同じような姿で、こと切れている。
「強力な術には代償がつきもの、呪詛を行って返されれば、まあそうなる。──うん。内臓も、美味いな……」
その場の人間すべてを凍り付かせておいて、鏈瑣はの百足の断面に口をつけて中身を啜った。
じゅるり、という粘性の音に、何人かが失神して倒れた。嘔吐する者も出始める。まったく無理のないことだし、できることなら辰蘭も倣いたいくらいだった。だが、まだそうするわけにはいかなかった。
陳郎中の首に手をかけていた胥吏──に、憑いた
「あ、貴方は去ってください! 今のうちに、行くべきところへ……! 貴方の怨みは必ず晴らしますし、御名を調べて
死者にとってさえも、鏈瑣の姿は恐ろしくおぞましかったのだろう。
辰蘭の懸念に気付いたのだろう、
「心より御礼申し上げる。そして、御身の栄達を願う」
最後の言葉も温かく、血の気が通ってさえ聞こえたような。
(栄達……するかどうかは、分からないのですが)
どさり、と音がしたのは、
これで、貢院に渦巻いていた蟲毒のような怨念はひとまず解けただろう。
* * *
もちろん、辰蘭への嫌疑は晴れた。糾弾されるのは、今や礼部の官たちのほうだ。何の咎もない受験生の答案をすり替えた上に、それを利用して寵妃とその兄を陥れようとした──
陳郎中については、過去の不正についても追及されることになる。彼が及第した時に亡くなった受験者のこと、その故郷や縁者のこともすぐに判明するだろう。辰蘭としては約束を通り手厚く祀るつもりだし、成り行きによっては改めて進士及第相当の名誉が贈られるかもしれない。
「──陳郎中は、無作為に答案を選んだつもりだったそうだ。
騒動から数日経って
「よりによって弟御のものだったのは──それによって、私があの場に居合わせることになったのは、あの
「そう、だな。そうかもしれぬ」
林浩雨の煮え切らない相槌の理由は、想像がついた。貢院をさ迷う
「弟御の答案も見つかった。これで、心置きなく次の機会に向けて励めるな? 良かったではないか」
(結果として、お前の依頼も叶ったであろう?)
そもそもは、弟の不正疑惑を何とかして欲しい、ということだった。何の非もないことが証明できた上に、高官と知遇を得るという嬉しいおまけもついてきた。
「辰蘭──」
申し分ない結果だろうに、なぜまだ強張った顔をしているのだろう、と。辰蘭が首を捻っていると、林浩雨は椅子を蹴倒す勢いで跪いた。
「すまぬ。私は──あの時お前を恐れ、疑った。何よりもまず、それを言うために来たのだ」
貢院にて、辰蘭が陳郎中に糾弾された時のことだろう。
(私が、桂磊を殺すと思ったのか? 本当に?)
ひどく見損なわれていたのを悟って、辰蘭は苦く溜息を吐いた。たいへんに不本意なことではあるが──もう過ぎたことだ。それに、彼のほうも謝罪すべき誤解をしていた。
「……疑ったのはお互い様だ。私も、お前におびき出されたのかと思ったのだからな」
「お前が桂磊に何かすると信じたわけではない。ただ……お前にも欲があって欲しかった」
「欲?」
お互いに水に流そう、と仄めかしたつもりだったのに。林浩雨はまだ床に膝をついた格好でぶつぶつと言っている。
「お前は、何ごとにも執着がないから。進士及第はおろか、
「友を暗殺するのは俗っぽさでは済まないだろう」
「ああ……だから、重ねてすまぬ」
林浩雨が立ち上がる気配がないのを見て、辰蘭は苦笑した。そして、旧友と鏡合わせになるように屈みこむ。彼は、林浩雨を見下ろせるような人間ではないのだ。
「私は俗人だ。
「辰蘭。それは──」
「次の科挙は受験しようと思う」
目を瞠る林浩雨に、しっかりと頷いて──辰蘭はぎこちなく、それでも少し悪戯っぽく笑んだ。
「弟御には、気の毒かもしれないが?」
精いっぱいの軽口で、仲直りの合図だと、どうにか伝わったらしい。林浩雨も、すぐに辰蘭と似た類の笑みを浮かべた。
「……大口を叩くものだ。良かろう、お前を
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