第10話

 りん浩雨こううの来訪から数日後、子不語しふご堂はまた別の客人を迎えた。


「……廃屋かと目を疑った。もう少し、どうにかならぬのか」

「なかなか手が回りませんで──大人たいじんが自ら足を運んでくださるとは」


 積もり放題の落ち葉を踏んで、呆れた眼差しで荒れた前庭を見回すのは、しょう司獄しごくだ。遥かに年長の御方にわざわざ出向いていただくなど、辰蘭しんらんとしては居たたまれないのだが──


礼部れいぶの企みを、もっと早く止められなかった非はこちらにある。それに、呼びつけるなどできるものか。……役所では人の耳目が気になるゆえな」

「……はい」


 猛禽めいた鋭い目で見つめられると、頷かざるを得ない。これからの話題は、確かに余人に聞かれるわけにはいかないだろう。


 辰蘭が淹れた茶は、果たして口に合ったのかどうか──葉司獄の、硬い石に刻んだような厳かな面持ちからは窺えなかった。

 若輩の未熟者の背を冷や汗で濡らしておいて、老練な司法の官はほとんど音を立てずに茶器を卓に置き、切り出した。


「例の胥吏しょりの身辺に、不審な点は見当たらなかった。本人も真面目な仕事ぶりで、長年に渡って礼部に勤めていたという」

「礼部──つまりは、龍淵りょうえん貢院こういんに、ということでしょうか」


 蟲毒こどくの術とやらを返されて、無惨な遺体を晒した男のことだ。桂磊けいらいの死に深く関わる者であり、さらに黒幕へと繋がる糸口でもあった。だが──葉司獄の眉間の皺からして、はかばかしい調査結果は得られていないようだ。


(官と違って、胥吏には異動はないというが)


 汚職対策として、官は長くても数年で任地から任地へと異動する。身分低い胥吏のほうが実務に詳しい場合も多々あって、新任の官が侮られたり言いなりになったりすることもあると聞く。


「だとしたら──」


 あの男は、勤勉な胥吏の仮面の下で、の意を受けて暗躍していたのではないか。桂磊以外にも、その死に不審な点がある者がいたのではないか。


 辰蘭が皆まで言わぬうちに、葉司獄は重々しく頷いた。


「心労や緊張によって受験生が倒れるのはままあること。だが、試験が終わって門が開くまでは医者も呼べぬし家族も対面できぬ。当然、遺体をあらためることも叶わない」

「死者の身元や、共通点についてはいかがでしょう。何かしらの利害に関わる者がいるのではありませんか」

「無関係の死者もいるであろうし、黒幕──そのような者がいるなら──の手駒もひとつにと限るまい。雲を掴むような話になろう。……否、毒蛇の潜む淵に手を突っ込むと言ったほうが良いか」


 ふたりきりの客庁きゃくまにいてなお、葉司獄が声を潜める理由は、分かってはいた。


は、相当の権力を持っている……)


 蟲毒を仕込んだ部屋が桂磊に割り当てられるように細工するのは、ひとりでできることではない。それができるほど、深く広く礼部に根を張り巡らせることができる存在に、辰蘭は──ひいては妹の梓媚しびは、陥れられかけたのだ。


「若君は……何というか、尋常でない加護を得ているようだ」

「……はい」


 葉司獄の苦虫を嚙み潰したような顔は、馴染みのものだ。だが、口中ににかわでも張り付いたかのような歯切れの悪いもの言いは、たいへん珍しい。この御方がこれから口にしようとしているのは、いつもの苦言や説教ではないということだ。


「此度のことで、淑妃しゅくひ様は実家の後ろ盾を失くすことになる。寧妃ねいひ様が脅かされる恐れも減るであろう。だから──」

「はい。大人しくしております。今度こそ」


 桂磊を殺した黒幕の追及は諦めろ、と言われる前に、辰蘭はにこやかに遮った。そのようなことは聞きたくないし、司法をつかさどる官に言わせるのも酷なことだ。


「無位無官の悔しさ頼りなさを痛感いたしました。次こそ及第すべく、心を入れ替えて励もうかと」


 軽く目を見開いた後、葉司獄は疑り深げに辰蘭の顔を眺め回した。ほとんど被疑者の証言の綻びを探す時の眼差しではないだろうか。これまでの辰蘭の言動に、貢院での啖呵たんかも加えれば、簡単に信じるほうがどうかしている。


 だが、嘘を吐いているだろうと、証拠もなしに決めつけることもできないはずだ。

 笑顔の辰蘭と、不審げに眉を寄せた葉司獄とで、睨み合うように見つめ合うことしばし──折れたのは、相手のほうだった。


「……ならば、良かったが」

「過分のお心遣い、痛み入ります。──大人をお引止めするわけには参りません。ご多忙でしょうから」

「うむ。退散することにしよう」


 辰蘭が笑みを保っていたのは、葉司獄を見送るまでのことだった。

 深く丁重な揖礼ゆうれいから身体を起こした時、彼は顎に痛みを感じるほどに歯を食いしばっていた。傍からどう見えるかは知らないが、怒りと焦燥と悔恨とが、混ざり合って辰蘭の顔を彩っていることだろう。


(あの御仁ごじんは信頼できる。高潔で実直で──だからこそ、気付かれるわけにはいかなかった)


 屋敷の奥へと足を向けながら、辰蘭は自身の頬をはたいた。葉司獄との短いやり取りの間でさえ、感情を抑えるのに苦労するとは。もっと自然に滑らかに、息をするように表情を取り繕えるようにならなくては。


 たぶん、梓媚にはできていることだから。


 梓媚が、皇帝に望まれるままに逆らいもせず──そのように見えた──後宮に入った理由が、やっと分かった。


 復讐だ。


 あの怜悧で気丈な妹のこと、最初から不審に思っていたのだろう。桂磊の死によって、彼女の入宮を妨げる存在はなくなった。梓媚は欠片も望んでいなかったのに!

 ならば桂磊を殺した黒幕は、それを望んだ者だ、と当然考えられよう。梓媚は、恋人の仇と対峙するために後宮に乗り込んだのだ。


(皇帝……では、ないだろう。ならば、何者だ……!?)


 誰が眉を顰めようと諫めようと、皇帝には無理を通す力がある。桂磊を目障りに思ったとしても、呪詛に頼らず排除できただろう。

 後宮に渦巻く権力と寵愛争いに、どのような勢力が関わっているか、仇とは何者なのか──辰蘭には分からないのだが。兄がいじけて閉じこもっている間に、妹はひとりで戦っていたのだ。


 鏈瑣は、屋敷の奥庭にて日向ぼっこをしていた。例によって朽ちかけ、落ち葉に埋もれた四阿あずまやに設えられた腰掛にだらしなく伸びて、目を閉じている。ささやかな日光の温もりを享受する姿は、満腹の猫のようだ。


「鏈瑣」

「なんだ、先生」


 呼び掛けに応じて薄く目を開けた鏈瑣は、猫だとしたらごろごろと喉を鳴らしていたことだろう。蟲毒の百足ムカデはよほどの珍味だったようで、いまだに余韻に浸っている節がある。


(満腹なら、扱いやすくなるか──それとも、やる気がなくなるのだろうか)


 いったいどちらだろう、と思いながら、辰蘭は短く命じた。


「出かける支度を。髪も服も整えよ。どうせ姿を変えてもらうことになるのだが、作法は弁えねばならぬ」


 やはり、というべきかどうか。怠惰な化物は辰蘭の言葉に喜ばず、逆に面倒そうに顔を顰めた。


「先ほどの客はあのうるさそうな男だろう。あの者が先生に頼ったのか?」

「葉司獄はお帰りになった。出向く先は、依頼ではない──後宮だ」


 貢院と並んで、情念が渦巻いていそうだと鏈瑣が評した場所だ。眩い煌めきと裏表の濃い陰には、梓媚を狙う陰謀も蠢いているはず。

 さすがに魅力だか興味だかを感じたのか、鏈瑣の目がぱちり、と音を立てそうな勢いで開かれた。そこへ、辰蘭は懐に携えていた書簡を広げてみせる。


「梓媚から返信が届いたのだ。お前も連れて、早急に来いと言っている」


 そこには、流れるような筆跡でこう綴られていた。


 至急、後宮へお出でください。その際、いつかお貸ししたを、必ずお持ちくださいますように。

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