第8話
老受験生の
「ここで、何を教えてくださると……?」
年長者への敬意を込めて、辰蘭は
どこまでも暗く虚ろな目をした
(掘れ、ということか)
辰蘭は迷わず膝をつき、湿った土に指を立てた。──過去の受験生が踏み固めてきたにしては柔らかい、かもしれない。頭上では、鏈瑣が苛立たしげに舌打ちしている。
「先生、
「ならば手伝え。私は、ここで何があったか知らねばならぬ……!」
夏に
(桂磊……さぞ無念であっただろうに……!)
もっと早く、調べてやるべきだった。胸を苛む悔恨の痛みに比べれば、爪が剥がれる痛みなど何でもない。
無心に掘り進めた甲斐あって、やがて、辰蘭の指先に硬いものが触れる──と同時に、鏈瑣が飛ぶような勢いで屈みこんだ。
「おお!?」
「痛──っ」
「これは……何という……!」
額をぶつけ合った衝撃に辰蘭が
(中に、何か入っている……?)
手に取ると何かかさかさとしたものが中で動く。その感触と、両手で
不吉な予感に、辰蘭が顔を顰めた時──慌ただしい足音と、耳に刺さる怒声が響いた。
「
(とはいえ、大人しくしなかった甲斐はありましたので……!)
だが、辰蘭が臆することはない。泥に塗れた姿のまま、掘り出したばかりの壺を丁重に捧げ持ち、陳郎中に示す。
「先達のご教示により、これを見つけました。ここで、忘れもしない、
「何だ、それは」
「
胡乱げに目を細める葉司獄に応えたのは、鏈瑣のぎしぎしとした軋り声だった。泥で汚れたことで白さがいっそう際立つ指先が、辰蘭の抱えた壺を愛しげに撫でる。
「数多の毒蛇毒虫をひとつの壺に封じて喰い合わせ、残った一体で
鏈瑣の形良く色気ある口元は、今にも
「そんな──そのようなものが、何の証拠になる! そなたが持ち込んだのであろう!」
鏈瑣の美貌にも蟲毒とやらの説明にも怯まず、陳郎中は辰蘭を睨みつけ、指を突きつけた。毅然とした糾弾などでは決してない、不合理で辻褄が合わぬ難癖だった。
「だとしたら、私は桂磊のもとに駆けつける必要はなかった。己の答案を存分に練って、試験が終わった後で初めて彼の死を知ったことにすれば良いだけでしょう」
「む──」
辰蘭の語気の強さ、相手を睨む目の鋭さ険しさは、何も今回の
(こんなものが、ここにあった。桂磊は、殺されていた? 何者によって? 私の目は、節穴か……!)
辰蘭は何も気付かなかった。桂磊の衰弱振りから、疲労と寒気に耐えられなかったのだと信じて疑わなかった。蟲毒とやらを埋めた痕跡は、三年前ならもっと明らかだったのかもしれないのに。
「柯桂磊の死について、やはり調査が必要かと存じます」
腹の底で、溶けた鉄のように煮え滾る怒りをぶちまけるように。辰蘭は
「礼部ではなく、
礼部の官を睨みながらの暴言は、当然、彼らの怒りと反発を買った。
「何を、無礼な……!」
「葉司獄と
「そなたの嫌疑はまだ晴れていないのだぞ!?」
次々に上がる声は、鶏の鳴き声も同然だった。つまりは、意味もなく騒ぎ立てる、理の通らないただの音。科挙の関門を突破した俊才の言葉とは思えない。
「まだ仰るか──」
目の前で新たな証拠が掘り出されたのを見ておいて、と。さらなる反駁を連ねるべく、辰蘭は大きく息を吸った──が、思いの丈をぶつけてやることはできなかった。
「──柯桂磊と殷辰蘭は真の友だ」
ぼそりとした呟きが、場の全員の耳目を引きつけたのだ。まるで、水面に小石を投げたかのように。さほどの大声でもない、坦々とした──やけに温度を感じさせない声だというのに。なぜか、無視しがたい力があった。
「隣室の受験生が倒れたとして、助けに向かう者はどれだけいるであろう。まして、不正を疑われる危険を冒して、号舎を越えて見舞う者は? 貢院にて他者に心を配ることができる者はいかにも少ない」
声の主は、ひとりの
(何が、起きているのだ……?)
気を呑まれたように男を見つめる官の何人かが、寒そうに腕や手を擦った。
そう──胥吏のぼそぼそとした声を聞いていると、衣服の間に氷を滑り込まされた心地がする。
その男の顔つきも異様だった。からくり仕掛けの人形の口を、無理に開閉させているようなぎこちなさがある。表情も平板で、人形でなければ──死体が、
「柯桂磊の答案も、まったく見事なものであった。死して鬼となり果てた身でも妬み感嘆せずにはいられぬほどに。私にあれほどの才があったなら。官途を得た後、あのような答案を推挙する光栄に
「そなた……何者だ……?」
礼部の官のひとりが、恐る恐る、問いかけた。日ごろ使役していた胥吏が語っているのではないと気付いたのだろうか。辰蘭も、ここに至ってようやく思い至る。
(先ほどの
あの老人は、すべてを見ていたのだ。桂磊の命を削った努力も、あの雨の夜の辰蘭の
「あの答案を盗まなかった、その点でも殷辰蘭の才と友情は真実だ。──私を見捨てた上に答案を我が物にしたお前とは大違いだ、陳
老人の
「な、何を──」
「言いがかりだ! 私は、そのようなことはしておらぬ!」
「お前は、倒れて苦しむ私を蹴ってうつぶせにさせた。息が詰まるように。今際の苦しみに視界は暗かったが、耳ははっきりと働いていた。我が答案を見て漏らしたお前の歓声、懐に紙を押し込む音。何たる僥倖と嘯きながら、私を踏みつけた」
陳郎中に詰め寄る胥吏──
(何と、まあ……)
もはや辰蘭の追及も糾弾も、置き去りにされた恰好だった。一瞬だけ所在なく佇んで──まあ良いか、と思い直す。この隙に蟲毒の壺を葉司獄に渡せば済むだろう。
「葉
呼び掛けると、謹厳な官の顔がこちらを向いた。さすが現実的な
「危ない──」
何が、とは問うまでもなく感じられた。辰蘭の手中の壺が激しく揺れたかと思うと、封印が内側から破られたのだ。何やら呪文らしきものを記した紙を押しのけて、現れたのは。
(これが、蟲毒……?)
夜の闇を凝らせたような、巨大な漆黒の
短刀のように鋭く尖った牙が狙うのは──辰蘭の、首だ。
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