第7話
髪を使ってぶらさがっていることで、
ゆらゆらと揺らめく鏈瑣の首を睨めつけながら、辰蘭は慎重に言葉を選んだ。
「お前は──以前、いずれ戻る、と言っていたな。人は喰いたいが喰わせてもらえぬのは分かっている、とも」
「そうだったか?」
胴体なしで首を傾げることは難しい。だが、鏈瑣は器用に髪を操って空
「許しさえあれば喰える──喰いたい、のか? それは……美味いからとか、そういう理由ではない、のか……?」
鏈瑣は、恐らくはただの化物ではない。その食い意地は、かつて計り知れない災いを地上にもたらした──のかもしれない。
虚空を食い尽くすほどの貪欲さ。あるいは虚空のごとくに尽きせぬ貪欲。そう、謳われた
そのような存在が、善意で助けの手を差し伸べるはずがない。人間を餌として与える行いが、正しいはずがない。
「人を喰うことで、お前は解き放たれる、のか……!?」
決意と警戒を込めての詰問を、鏈瑣は錆びを
「人は、実際美味いし腹持ちも良いぞ? 無辜の民でもない、先生を陥れた相手だ。遠慮や哀れみが必要か?」
「はぐらかすな、
見張りに聞こえぬように抑えた声で、それでも鋭く辰蘭はその名を口にした。
鏈瑣の首の、気まずげな揺れ方が。それにつれて宙に泳いだ視線が、呼び間違いではなかったことを伝えている。
睨み合うように見つめ合うことしばし──鏈瑣は、言い訳を許さぬ、という圧に屈した。軽く唇を尖らせた、いじけたような表情でぼそぼそと白状する。
「……
「なんと
「まったくだ」
思わず呟くと、鏈瑣は我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。というか、頷きに似た仕草を空中で見せた。
「お陰で、蔵を掘り返しただけの
すなわち、当代ではそれが
天地を騒がせた凶星が、後宮や
「ほんらいならば、皇帝の代替わりに伴って鎖の管理を引き継ぐはずだったのだろうが、それもなくなった。主が死ねば、また偶然に封印が解かれるのを待たねばならぬ。だから、先生が陥れられてあの女が失脚するのは、俺にとっても嬉しくない」
「……利害が一致しているというわけか。天に戻る──自由になる気は、ないのか」
喰えなくなるのは嫌だ、という主張は、日ごろの鏈瑣を見ていれば一応は説得力があった。それでもまだ不審な点は残っていたが──
「ただ働きと、月官ふぜいに哀れまれたのが業腹で、憎まれ口を叩いただけだ。……天にいると、あれは駄目これは駄目と煩いから、面倒だ」
「……なるほど」
かつての鏈瑣を
「では、喰って良いのか? 誰なら良い? あの女も狙われているのだろう? 急いだほうが良いのだろう?」
尻尾を振る犬を思わせる、はしゃいだ問いかけへの答えは決まっていた。
「人を喰ってはならぬ。当然ではないか」
「ええ……」
犬の尻尾がしおしおと垂れるのが見えた気がした。が、辰蘭が哀れむことは、無論、ない。
「手足も指も、髪のひと筋も喰ってはならぬ。傷も後遺症もいっさい残すな。ただ、ほんの少しの間眠るていどに精気を奪え。……できるな?」
有無を言わせず命じた調子は、少しは梓媚に似ていたのではないだろうか。
* * *
ややあって扉を開けた鏈瑣は、きちんと胴の上に首を載せていた。そして、不貞腐れた表情で床に倒れた見張りを軽く蹴った。八つ当たりも良いところである。
「言われた通りに、した」
「助かった。では、
「算段はあるのか、先生?」
化物が気のない口調で問うたのは、どこかしらに空腹を満たす要素を見出せないか、という仄かな期待ゆえだろう。あいにく、応えてやれそうにないが。
独房代わりの部屋を抜け、殿舎の外を目指しながら、口早に説明する。
「……
辰蘭と並んで足を急がせる鏈瑣が、いかにも嫌そうに顔を顰めた。
「あの、蜂の巣のような小部屋だよな? どれがどれやら、どこがどこやら分からぬが──先生なら覚えているのか」
「うむ。念のため、見ておくか」
貢院の門は、遥か
鏈瑣に頷いたのとほぼ同時に、辰蘭の足は殿舎の敷居を
「……これは、どういうことだ」
眼前に広がる光景に、辰蘭は呻いた。
両手を広げることができるかどうか、というごく狭い間隔で石壁によって区切られた空間が、左右にずらりと並ぶ。内壁に溝が設けられているのは、板を渡して机や腰掛の代わりにするためだ。
改めて見ると、独房というより家畜小屋の雰囲気さえ漂ってくる。牢獄ならば鉄格子もあろうが、この小部屋には扉などないのだから。吹き込む風雨から答案を守るべく奮闘した、冷たい夜の記憶が蘇って辰蘭の肌を粟立たせた。
嫌というほど見覚えがある、受験生向けの号舎の真っただ中に彼らはいた。ほんの数歩で、距離も建物も飛び越えたとしか思えない。
息を呑んで絶句する辰蘭の耳を、鏈瑣のざらついた声が擦る。
「
視線で問い質すと、見目良い化物は軽く肩を竦めてから、当たり前のように続けた。
「幽鬼の類が人を惑わすために操る──幻のようなものだ。ない道や壁をあるように見せかけて、あるいは空間を捻じ曲げて。それで、同じところをぐるぐると回らせたり、住処におびき寄せたりする」
「なるほど」
貢院に
「だが、目的は何だ……? 惑わされている暇はないのだが。我らを逃がすまいとしている……?」
「知らぬ。本体を見つけて喰えば、術は解けようが」
「──あ」
鏈瑣が指さした先には、擦り切れた衣の老人がうっそりと佇んでいた。
生者ではあるまい。まだ日が高いというのに顔にはなぜか影が落ち、輪郭というか姿かたちは薄墨で描いたようにどうも色が淡く存在感というものがない。辰蘭たちを鬼打牆とやらに誘い込んだ
緊張のうちに見つめ合ったのは一瞬のこと、老人の
「喰って良いか!?」
「ならぬ。受験の先達だ。それに、何やら言いたいことがおありのようだ」
「暇がないのであろう!? ひっ捕らえたほうが話が早いぞ!」
鏈瑣の抗議を裏付けるかのように、黒い瓦が密集する号舎の屋根屋根の向こうから、人声が騒ぐのが聞こえてくる。見張りが倒れて辰蘭が姿を消したのに気付かれたのだろう。門は即座に塞がれるだろうから、袋の鼠になってしまう。だが──
(
千字文の順で号舎に付された文字を認めるうちに、辰蘭の心臓は高鳴っていく。興奮を身体のうちに留めておくことができず、大声が口から漏れる。
「意味があってのお招きのはずだ! 桂磊が死んだ部屋に向かっている!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます