第6話
だから、なのだろうか。辰蘭が押し込まれた部屋は狭く窓も小さく、十分に仮の牢獄としての用を為した。室内にあるのは卓と椅子だけ、扉の外には見張りが立っている。恐らくは礼部の官の麾下だろう。
その椅子にかけて俯く彼と、部屋に立ち入ることを許された
「
「先ほどの
薄情な旧友と化物に比べれば、ほとんど罪人扱いの辰蘭に事情を説明してくれる葉司獄はとてつもなく優しく親切だった。日ごろの辛辣さや厳格さからすれば、信じがたいほどに。
ただ、素直に感謝する気には、今はなれない。
「そうですか」
短く切って捨てるような、無礼な相槌にも、葉司獄は苦笑しただけだった。妹のためにその婚約者を手にかけた、などという嫌疑がどれほど不本意で屈辱か、辰蘭の動揺を慮ってくれているかのようだった。
「謀殺に手を染めた者が妃の位に居続けることはできぬ。本人に落ち度がないからと、入宮前の事情を掘り起こして冤罪を着せることにした、というところか。
「心中はお察し申し上げますが、私が謝罪すべき筋でしょうか」
辰蘭は顔を上げて、語気荒く問いかけた。
絡むようなもの言いは、後ろめたさの裏返しだった。葉司獄の人柄からして、陰謀の証人に仕立て上げられるなど耐え難いに違いない。もっと冷静な時なら、妹のせいで申し訳ない
「後宮の寵愛争いに利用されるのも、それによって職分を侵されるのも不快極まりない。若君の無実は承知しているゆえ、しばし辛抱なされよ」
辰蘭の重ねての無礼に、葉司獄は軽く片眉を上げた。それだけの仕草で感心しない、と雄弁に伝えてくる。ただ、言葉に出して咎めることはしなかったあたり、やはりかなり気遣われている。
「……信じて、いただけるのですか」
「若君の人柄は存じ上げているし、いささかの借りもある。そもそも、妹君のために罪を犯すような
葉司獄の指摘に、辰蘭は再び俯いた。権勢を望むならさっさと進士の肩書を得ているだろう、という評は、決して手放しで喜べるものではなかった。
(私に、地位があれば……!)
寵妃の妹の口利きで、及第して早々に高い官位を得よう、などとは
「礼部の者どもは、次は
「そのような冒涜──」
「それこそ心中は察するが、止められぬ。若君の潔白を証明するには、検屍をした上で痕跡なし、となるのが一番早い。今度こそ小細工の余地など許さぬよう、司獄司の者できっちり見張ると約束しよう。──なので、しばし耐えられよ」
葉司獄は、桂磊を殺した毒と針とやらの捏造を許したことについても詫びてくれているようだった。司法に携わる者として、冤罪を許さぬと言ってくれるのは心強い。
だが、頼り切って安心するわけにはいかない。辰蘭は立ち上がると、葉司獄に詰め寄った。
「そのような──あっさりと嵌められ、
辰蘭は、ずっと妹の
今となっては、
(報せがないのは、本当にあてつけのためだったのか……!?)
薄情な兄を懲らしめるため、少々焦らしてやるか、という意図でなかったとしたら。返事を認めることのできない状況に、梓媚が置かれているとしたら?
何より──梓媚は心変わりなどしていなかった。婚約者の死を幸いと、後宮での贅を極めた暮らしを楽しんでいるわけではなかったのだ。桂磊を思い続けているからこそ、そのの姿を真似た鏈瑣に怒り狂ったのだろうから。
「柯桂磊についてどう思われているのか──
「そういうことではないのです! 大人は妹の気性をご存知ないから……!」
痛ましげに表情を翳らせた葉司獄は、梓媚は意に反して泣く泣く後宮に収められた悲劇の姫君だとでも思っているのかもしれない。だが、幸か不幸か、彼女に兄の冤罪に心を痛めて嘆き悲しむような殊勝さはないのだ。
気付かぬままに陰謀に利用された迂闊さ。桂磊の墓を暴き遺体を辱める暴挙を座視する怯懦と無能。いずれも、梓媚に知られたら──
(どのように
そもそも、入宮以来ろくに書簡も送らず案じることもしなかった薄情な兄なのだ。受験を放棄したことも、悪手だったと痛感したばかり。すでに妹からの心証は地の底まで落ちているだろう。
「私もお連れください。ただ待つだけ、というわけには──」
「見え透いた
皇帝の寵妃に殺される、などとはさすがに口にできなかった。男として、兄としての体面もある。だが、それだけに辰蘭の言動は見苦しく取り乱しての醜態としか見られなかったらしい。
葉司獄は、厳しく一喝すると、やや不安げな面持ちで辰蘭を眺めた。
「私は行かねばならぬが──よろしいか、くれぐれも大人しくしていただきたい」
幼い子供に言い聞かせるような口調で念を押した後、老練な司法官は辰蘭を置いて去っていった。
* * *
無闇に騒ぎ立てても状況が悪化するだけなのは、辰蘭にも分かってはいた。見張りの者も、どうせ礼部の息のかかった胥吏なのだろうから、交渉の余地もない。
(手詰まりか? 私も何かを為さねばならぬのに……!)
焦りと苛立ちを抱えて座り込んでいると──上のほうから、錆びついたようにざらざらとした声が降ってきた。
「先生、先生」
「鏈瑣──」
採光のために天井近くに設けられた窓にぴったりと嵌るように、鏈瑣のたいそう麗しい顔が覗き込んでいた。
常人が見つかることなく登れる場所ではないが、相手は化物だ。例によって首だけを取り外しているのだろう。
事実、艶やかな髪を窓枠に絡ませて、鏈瑣は立ち上がった辰蘭と目線が合うところまで降りてくる。
髪さえも自在に操れるのは、いまさら驚くにはあたらない。肺も声帯もないのに声を発することができるのも、身体のほうに絡んでいるはずの鎖の音を伴っているのも。ただ、結っていない髪が長くのびる様は、黒真珠の鱗を持った蛇が艶めかしく身をうねらせるようで、妖しく目を引きつける。
「どうやら、大変なことになっているようだな? 助けてやろうか?」
「逃げたのではなかったのだな。わざわざ戻ってきたのか……」
驚くというなら、化物の癖にやけに親切なことを言い出したことについて、だった。無論、
「見張りも、先生を嵌めたらしいあの老いぼれも。あの客も。そう、あいつは先生をおびき出したのかもしれぬよなあ」
「林浩雨か……」
旧友の真意を疑えば、腹の底から苦いものが込み上げるようだった。目を伏せた辰蘭を覗き込んで、鏈瑣は得意げに続ける。もしも胴体がついてきていたなら、胸を張っていたことだろう。
「ひと言、喰え、と言えば良い。どいつもこいつも、髪ひと筋残さず平らげてやる。傍目には消えたようにしか見えぬ。どうだ? 良い考えであろう?」
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