第6話

 辰蘭しんらんは、初めて貢院こういんの管理側の殿舎に足を踏み入れることになった。思えば問題の漏洩や買収を防ぐため、試験官や管理官も受験者同様、貢院に閉じ込められるものだった。


 だから、なのだろうか。辰蘭が押し込まれた部屋は狭く窓も小さく、十分に仮の牢獄としての用を為した。室内にあるのは卓と椅子だけ、扉の外には見張りが立っている。恐らくは礼部の官の麾下だろう。

 その椅子にかけて俯く彼と、部屋に立ち入ることを許されたしょう司獄しごくとの間に鉄格子がないのがせめてもの慰めだった。


礼部れいぶさい尚書しょうしょのご息女は、後宮で淑妃しゅくひの位を賜っている。皇子を儲けられるほどの寵愛ぶりと伺うが、その御方にとってもいん寧妃ねいひ様は無視しがたいのであろう」


 りん浩雨こううは追い立てられるように帰されたようだ。鏈瑣れんさについては、何らかの術で胥吏から逃れたのか、この場にはいない。無駄足を踏んだことを嘆きながら、龍淵りょうえんちまたで小物の精怪せいかいをつまみ食いしているころだろうか。


「先ほどの御仁ごじんちん郎中ろうちゅうと仰る。そもそもの発案はだん侍郎じろうだったか。尚書にへつらうために礼部を挙げて企んだ、というところであろうな」


 薄情な旧友と化物に比べれば、ほとんど罪人扱いの辰蘭に事情を説明してくれる葉司獄はとてつもなく優しく親切だった。日ごろの辛辣さや厳格さからすれば、信じがたいほどに。

 ただ、素直に感謝する気には、今はなれない。


「そうですか」


 短く切って捨てるような、無礼な相槌にも、葉司獄は苦笑しただけだった。妹のためにその婚約者を手にかけた、などという嫌疑がどれほど不本意で屈辱か、辰蘭の動揺を慮ってくれているかのようだった。


「謀殺に手を染めた者が妃の位に居続けることはできぬ。本人に落ち度がないからと、入宮前の事情を掘り起こして冤罪を着せることにした、というところか。刑部けいぶからも証人が欲しいと言われて引っ張り出されて、たいへん迷惑しているところであった」

「心中はお察し申し上げますが、私が謝罪すべき筋でしょうか」


 辰蘭は顔を上げて、語気荒く問いかけた。

 絡むようなもの言いは、後ろめたさの裏返しだった。葉司獄の人柄からして、陰謀の証人に仕立て上げられるなど耐え難いに違いない。もっと冷静な時なら、妹のせいで申し訳ない云々うんぬんと述べられただろうが──今は、知ったことか、という気分が強い。


「後宮の寵愛争いに利用されるのも、それによって職分を侵されるのも不快極まりない。若君の無実は承知しているゆえ、しばし辛抱なされよ」


 辰蘭の重ねての無礼に、葉司獄は軽く片眉を上げた。それだけの仕草で感心しない、と雄弁に伝えてくる。ただ、言葉に出して咎めることはしなかったあたり、やはりかなり気遣われている。


「……信じて、いただけるのですか」

「若君の人柄は存じ上げているし、いささかの借りもある。そもそも、妹君のために罪を犯すような御仁ごじんならば、此度の科挙に臨まぬはずがない」


 葉司獄の指摘に、辰蘭は再び俯いた。権勢を望むならさっさと進士の肩書を得ているだろう、という評は、決して手放しで喜べるものではなかった。


(私に、地位があれば……!)


 寵妃の妹の口利きで、及第して早々に高い官位を得よう、などとは唾棄だきすべき発想だ。だが、それなりの地位があれば、こうしてあっさりと捕らえられ、軟禁の憂き目を見ることもなかっただろうに。

 子不語しふご堂、などと掲げて怪力乱神かいりょくらんしんと戯れたこの三年、彼はやはり無為に過ごしたのだろうか。


「礼部の者どもは、次は桂磊けいらいの墓を暴くつもりであろう。遺体を検分した結果、毒殺の痕跡があった、という訳だな」

「そのような冒涜──」

「それこそ心中は察するが、止められぬ。若君の潔白を証明するには、検屍をした上で痕跡なし、となるのが一番早い。今度こそ小細工の余地など許さぬよう、司獄司の者できっちり見張ると約束しよう。──なので、しばし耐えられよ」


 葉司獄は、とやらの捏造を許したことについても詫びてくれているようだった。司法に携わる者として、冤罪を許さぬと言ってくれるのは心強い。


 だが、頼り切って安心するわけにはいかない。辰蘭は立ち上がると、葉司獄に詰め寄った。


「そのような──あっさりと嵌められ、大人たいじんのご厚意で助けていただくだけとあっては、妹に顔向けができません……!」


 辰蘭は、ずっと妹の梓媚しびのことを頭脳明晰にして怜悧れいり狡猾こうかつ、しかも気丈でしたたかな女だと思っていた。後宮でも寵を争いほかの妃嬪ひひんと張り合って、人を陥れることはあっても陥れられることはないだろうと何となく思い込んでいた。


 今となっては、暢気のんきな考えだった。辰蘭の鼓動が不穏に高まっていくのは、自身の冤罪への不安以上に、妹の身を案じるからだった。


(報せがないのは、本当にあてつけのためだったのか……!?)


 薄情な兄を懲らしめるため、少々焦らしてやるか、という意図でなかったとしたら。返事を認めることのできない状況に、梓媚が置かれているとしたら?


 何より──梓媚は心変わりなどしていなかった。婚約者の死を幸いと、後宮での贅を極めた暮らしを楽しんでいるわけではなかったのだ。桂磊を思い続けているからこそ、そのの姿を真似た鏈瑣に怒り狂ったのだろうから。


「柯桂磊についてどう思われているのか──寧妃ねいひ様の御心は詮索すまい。だが、どうであれ兄君までも喪うことは望まれぬであろう。焦るのは分かるが、騒ぎ立てせず待っていただきたい」

「そういうことではないのです! 大人は妹の気性をご存知ないから……!」


 痛ましげに表情を翳らせた葉司獄は、梓媚は意に反して泣く泣く後宮に収められた悲劇の姫君だとでも思っているのかもしれない。だが、幸か不幸か、彼女に兄の冤罪に心を痛めて嘆き悲しむような殊勝さはないのだ。


 気付かぬままに陰謀に利用された迂闊さ。桂磊の墓を暴き遺体を辱める暴挙を座視する怯懦と無能。いずれも、梓媚に知られたら──


(どのように痛罵つうばされることか。否、二度と会ってはもらえぬかもしれぬ。というか、会えば殺される……!)


 そもそも、入宮以来ろくに書簡も送らず案じることもしなかった薄情な兄なのだ。受験を放棄したことも、悪手だったと痛感したばかり。すでに妹からの心証は地の底まで落ちているだろう。


「私もお連れください。ただ待つだけ、というわけには──」

「見え透いたはかりごとであっても、若君は被疑者なのだ。弁えられよ」


 皇帝の寵妃に殺される、などとはさすがに口にできなかった。男として、兄としての体面もある。だが、それだけに辰蘭の言動は見苦しく取り乱しての醜態としか見られなかったらしい。


 葉司獄は、厳しく一喝すると、やや不安げな面持ちで辰蘭を眺めた。


「私は行かねばならぬが──よろしいか、くれぐれも大人しくしていただきたい」


 幼い子供に言い聞かせるような口調で念を押した後、老練な司法官は辰蘭を置いて去っていった。


      * * *


 無闇に騒ぎ立てても状況が悪化するだけなのは、辰蘭にも分かってはいた。見張りの者も、どうせ礼部の息のかかった胥吏なのだろうから、交渉の余地もない。


(手詰まりか? 私も何かを為さねばならぬのに……!)


 焦りと苛立ちを抱えて座り込んでいると──のほうから、錆びついたように声が降ってきた。


「先生、先生」

「鏈瑣──」


 採光のために天井近くに設けられた窓にぴったりと嵌るように、鏈瑣のたいそう麗しい顔が覗き込んでいた。

 常人が見つかることなく登れる場所ではないが、相手は化物だ。例によって首だけをいるのだろう。

 事実、艶やかな髪を窓枠に絡ませて、鏈瑣は立ち上がった辰蘭と目線が合うところまで

 髪さえも自在に操れるのは、いまさら驚くにはあたらない。肺も声帯もないのに声を発することができるのも、身体のほうに絡んでいるはずの鎖の音を伴っているのも。ただ、結っていない髪が長くのびる様は、黒真珠の鱗を持った蛇が艶めかしく身をうねらせるようで、妖しく目を引きつける。


「どうやら、大変なことになっているようだな? 助けてやろうか?」

「逃げたのではなかったのだな。わざわざ戻ってきたのか……」


 驚くというなら、化物の癖にやけに親切なことを言い出したことについて、だった。無論、天祐てんゆうのはずはないから、どうやって、とは問わなかったのだが──鏈瑣は辰蘭の警戒には気付いていないのか、機嫌良く笑みを浮かべている。


「見張りも、先生を嵌めたらしいあの老いぼれも。あの客も。そう、あいつは先生をおびき出したのかもしれぬよなあ」

「林浩雨か……」


 旧友の真意を疑えば、腹の底から苦いものが込み上げるようだった。目を伏せた辰蘭を覗き込んで、鏈瑣は得意げに続ける。もしも胴体がついてきていたなら、胸を張っていたことだろう。


「ひと言、喰え、と言えば良い。どいつもこいつも、髪ひと筋残さず平らげてやる。傍目にはようにしか見えぬ。どうだ? 良い考えであろう?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る