第3話
とりあえず、
報酬代わりに
それに──辰蘭には不可思議な力などないことは、なるべく知られないほうが良いだろう。
* * *
翌日、辰蘭はひとり
辰蘭が取次ぎを頼むと、
「殷家の若君はお暇なようだ。まことに羨ましい」
「市井の暮らしを知るのは、後々のためにも必要なことと考えております。これも修養の一環かと」
子不語堂を構えて以来、辰蘭はたびたびこの御仁と会っている。あやしのことならお任せあれ、とかいう大言壮語のいくらかは、何のことはない、実家の人脈で役所に伝手があることに由来している。
「ずいぶん長く休養なさっているようだ。今回は受験されていないとか。鋭気を養っておられるということか」
刑部司獄たる者が修養と休養を聞き違えるはずもない。良いご身分だな、という嫌味をあえて指摘する無粋は犯さず、辰蘭は受け流す。
「そうですね。無知と無力を思い知らされるばかりの日々で──奮起しようにも、なかなか」
辰蘭は科挙の勉強に疲れて隠遁の生活を送っている、というのが世間向けの説明だ。
それが蓋を開けてみれば、
「
それに、相手のほうも、多少は辰蘭を買ってくれているのではないか、という気がする。無礼な若造を追い返すどころか、席を勧めてくれるのだから。
鏈瑣のことはもちろん紹介していないが、何かしら役人の視点では気付かぬことに目が届くこともあるようだ、ていどには思われているのではないだろうか。
図々しく腰を下ろしながら、辰蘭は切り出した。
「近ごろ、龍淵に
借金を抱えて姿を消した
語るうちに、ただでさえ
(縊鬼などそうそう出るものか。だが、民や
果たして、辰蘭が語り終えるや否や、葉司獄は豊かな
「直近の──この三月で良い、
激昂する上官に怖れをなしたのだろう、辰蘭が居心地悪く座る目の前を胥吏が右往左往していった。そして、ほどなくして積み上がった調書を一読して、葉司獄は再び怒声を上げる。
「なんと粗雑な検屍か! 踏み台の有無さえ記していないではないか!」
「そ、それは──縊鬼の
怒髪天を突く勢いの葉司獄に口答えした胥吏の蛮勇は、貫かんばかりの鋭い視線で報いられた。
「縊鬼などいるはずがない。不自然な状況があったとすれば、人が為したものに相違ない。怪しげな風聞を真に受けた愚か者には
「ですが、とうに埋葬した死体も──」
「掘り返せ。
「は、はは……っ」
恐らくは、検屍をした本人ではなかったのだろうに。哀れな胥吏が転がるように退出したのを見届けて、辰蘭はさりげなく口を挟んだ。
「ついでと言っては何ですが。身元不明の死体の中に、探している者に似た風体のものがいないかどうか──調べさせていただいてもよろしいでしょうか?」
葉司獄は、先ほどにも増して苦り切った表情を見せた。
司獄司の長が把握できていなかった、市井の噂を知らせたことへの情報料。かつ、公の捜査が行き届いていなかったことを吹聴しないための口止め料。その両方を要求されたことに気付いたのだろう。
* * *
司獄司が把握している死体の中に、鄭氏の夫と年齢体格や顔つきが一致するものはなかった。むろん、だからといって死んでいないと断言することはできないのだが、ひとつの収穫とは言えるだろう。
(
聞いておいた鄭氏の住まいに足を向けながら、辰蘭は考えを巡らせる。思考に没頭するあまり、時に道行く民にぶつかってしまうのだが、いかにも良家の子弟な彼の装いの前に、概ね舌打ちていどで許してもらえている。
調書を漁りながら胥吏や捕吏のやり取りに耳を澄ませたところ、確かにこの数か月というもの、縊死が多いということではあった。だからこそ縊鬼が狙ってさ迷っている、などという噂が出るのだろうが──
(縊鬼がいるから死体が出るのか。死体が出るから縊鬼がいることになるのか。どちらだろうな?)
鏈瑣という化物と身近に接している辰蘭は、葉司獄とは違って縊鬼などいないと断言するつもりはない。だが、庶民が恐れるほどに
非業の死を遂げた者が皆、生者に仇なすとは限らないのだ。辰蘭がまだ生きているのがその良い証拠だ。
いっぽうで、子不語堂を営んでいれば嫌でも分かる。鄭氏が
(たとえば──強盗に入った先で、家人を絞殺して吊るす。その上で縊鬼の噂を流す。
まあまああり得なくもないことだ。そして、もしもそうであれば、葉司獄が事態に気付いて再捜査を命じたからには、かような手口が長くまかり通ることはないだろう。
(だが、張とやらは博打を好むとはいえ強盗の一味ではないのだろう。それなら借金に追われることもないはずで……)
だから、張の失踪は縊鬼騒ぎとは無縁に起きている、のだろうか。ならば──生死はさておき──彼が見つかるか否かは鏈瑣の仕事ぶりにかかっている。
鏈瑣とは、鄭氏の住まいの辺りで落ち合うことになっている。あちらの首尾が良ければそれで済むが、張が見つかっていない時は、また探しに出てもらわねばならない。怪異で腹を満たせないとなると、あの化物のやる気は大いに削がれるのだろうが。
「どうしたものか──」
思わず零れた辰蘭の呟きは、女の高い悲鳴によって掻き消された。女の──聞き覚えのある声。
(──鄭氏!?)
目的としていた、依頼人の住まいの界隈に至っていたことに気付いて、辰蘭は慌てて走り出した。
彼が地を蹴って急ぐ間にも、悲鳴と怒号、そして物を壊すような音が聞こえてくる。もめごとの気配から遠ざかろうとする者と、見物に向かう者。人の流れがぶつかり合うのを掻き分けて掻い潜って、辰蘭はどうにか騒動の源に辿り着いた──と思った瞬間、ひと際大きな怒鳴り声が彼の耳を殴る。
「亭主を匿ってるのは分かってるんだ! いったいどこに隠したんだ!?」
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