第2話
初対面の婦人に触れる不躾さ。さらには、呼び掛けに応じて邸内から現れたにしては、鏈瑣の動きは素早すぎる。実際、この化物は女が声を発する前にその来訪に気付いていた。
傾き始めた日の光に映える美貌、裏腹な悪声、それが語る怪しげなこと。いずれも不釣り合いなことこの上なく、戸惑い怯えるには十分だろう。
「あ、あの。私──」
しかも鏈瑣は、女の頬に掌を添えて上向かせた。長身を屈めて唇を女の耳元に寄せる。これは、心臓に悪いだろう。妖しく笑んだ唇が、囁く。
「
「ど、どうしてそれを……!?」
もとより強張っていた女の頬が青褪めた。鏈瑣の言葉は図星だったらしい。
紫姑神というのは、民が広く信仰する
その姿を似せた人形を使って決められた作法で儀式を行うと、人形に神が宿って吉凶を占ったり尋ねごとに応えてくれるのだとか。とはいえ、神がそうそう人前に姿を現すはずもなく、弱った人間の心の隙につけこもうとする
人目を忍んで行ったであろう怪しい術を見透かされるのは、さぞ恐ろしいことだろう。傍で見ていた辰蘭は、密かに女に同情した。
「何、見れば分かることだ。そちらの先生にはお見通し、ということだな」
なのに、鏈瑣は涼しい顔で流し目を寄こし、辰蘭に手柄を押し付ける。
「まあ──」
女が目を瞠り、畏怖の眼差しで辰蘭を見つめる隙に、美貌の化物は何かを摘まむ仕草をした。辰蘭の目には黒っぽい虫のように見えるそれは、鏈瑣の手中でもがいたかと思うと、瞬く間にその口の中に放り込まれた。白い喉が動いて、朱い舌がちろりと覗いて唇を舐める。
満足げな表情で、鏈瑣は女に笑みかけた。
「どうだ? 目を合わせただけで頭が軽くなっただろう?」
「ええ、ええ……!」
紫姑神の儀式で女に憑いた何かしらが引き剝がされて喰われたのだ。鏈瑣が言うところのおやつというのは、このことだ。来客に目を輝かせたのは、食い意地が理由だったというわけだ。
どこか得意げに胸を張る鏈瑣と、祈るように縋るように両手を握りしめる女を前に、辰蘭は苦笑した。
(話がしやすいようにしてやったぞ、とでも言いたげだな……?)
立ち上がりながら、羞恥心を堪えてもったいぶった所作で手招きをする。
「どうぞ、中へ。男所帯だが、門も扉も開けておくのでご安心を。その……たぶん、紫姑神よりは役に立てよう」
こういう商売にははったりも大事、堂々としていなければ信用されることはない──それもまた、辰蘭が市井で身に着けた知見だった。
* * *
女は、
辰蘭が茶を淹れて供すると、鄭氏はしきりに恐縮した。
「お偉い御方自ら、もったいない……」
「私は偉くなどない。落ち着いて話しなさい」
「は、はい……」
勧められてようやく口を湿した女の年のころは、辰蘭にはよく分からない。
身を飾らず、日に焼けて水で手を荒れさせた庶民の女は、彼が見ると実際の年齢よりもだいぶ老けて見えるものだ。
(本当に、私は知らぬこと分からぬことばかりで……)
苦い感慨を噛み締めながら、辰蘭は鄭氏が口を開く勇気をかき集めるのをじっと待った。鏈瑣──姿ばかりは美しい化物も、混ぜっ返すことなく端整な唇を閉ざしている。たぶん、食べ応えのある依頼であるように、と切に願っているのだろう。
庭の木々を揺らす風の音だけが響く沈黙を、鄭氏が絞り出した声が破る。
「
眉を顰める辰蘭の視界の端で、鏈瑣がにんまりと笑んだのが分かった。
縊鬼とは、その名の通り首を
(人に仇なす悪霊は、大物になるのだろうな)
詳細を聞く前から、鏈瑣は乗り気になったに違いない。だが、化物ではない人としては、まず鄭氏にかけるべき言葉がある。
「ご夫君が亡くなられたのか。お気の毒に」
「いえ、あの、亡くなったかどうかは、まだ分からないのですが」
弔意を示した辰蘭に、けれど鄭氏は曖昧に首を振った。そういえば、かもしれない、などと言っていた。まるで、夫の生死そのものが分からないかのようなもの言いだ。
「それは、どういう……?」
「どこからお話すれば良いか──あの、お恥ずかしいことでもありまして……」
言い辛そうに言葉を淀ませ、手を揉み、指を絡ませ合いながら、鄭氏は
鄭氏の夫の
(それは、やはり……?)
ここまで聞いて、辰蘭の胸を暗い予感が
「それはやはり、人知れず首を括っているのでは?」
「
無神経極まりない鏈瑣の言に、鄭氏は悲鳴を上げて首を振った。けれど激昂したのも一瞬のこと、すぐに俯いて声を揺らす。
「でも……あの、近ごろあちこちで縊鬼が出ると噂ですから。縊鬼に憑かれて──ということなら、もしかしたら、と」
その噂は、世間から取り残された子不語堂には届いていなかった。
悩みを抱えているわけでもなく、家族も友人もいる者が首を括る、という事件──なのか何なのか──が多発している、と。死ぬ理由がない者が次々と自死するがゆえに、誰ともなく縊鬼に殺されたのではないか、と囁き始めたということだった。
(夫が帰らぬのは縊鬼のせいだと思いたいのだな)
死んだ、という表現を使わなかったのはそういうことだ。単に死ぬのと、おぞましい幽鬼になり果てるのと。どちらがより良いかは難しいところだが──後者なら、少なくとも夫の意ではない、ということにはなるのだろう。
「お役所には、縊鬼になり果てたのでは、などとはとても言えません。かといって、私には伝手もお金もありませんし──」
そこまで語って、鄭氏ははっとしたように口を抑えた。
「その……ですから、御礼はすぐに、というわけには参りませんが。ですが、どれだけかかっても必ずお渡しします。どのような結果でも構いません。もしも、もしも縊鬼になってしまっていたなら、弔うのが妻の役目です。覚悟は、しております。ですから、どうか……!」
「ご夫君の安否──縊鬼になり果てたか否かを知りたいというのだな。承知した」
辰蘭があっさりと頷くと、鄭氏は目と口をぽかんと開けて固まった。断られても食い下がるつもりだったのだろうか、無駄に気負わせてしまったのかもしれない。
鄭氏の目尻から涙が伝い落ちるのを申し訳ないと思いながら、辰蘭はなるべく頼もしく見えそうな笑顔を浮かべた。
「報酬の多寡は気にせずとも良い。子不語堂は、
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