43 ゆくすえ

 奈阿姫はその後――尼となり、天秀尼と名乗った。

 東福寺という鎌倉の寺の住持を務め、その東福寺はいわゆる縁切寺として知られる。

 東福寺は昔から縁切寺であったが、江戸幕府、徳川政権下においてそうであったのは、天秀尼が家康にそう願ったからと伝えられている。

 そして縁切寺とはいうが、これはいわゆるアジールというもので、この世とは無縁のものとして、慈悲を賜う場、という意味である。

「誰かが誰かとの縁に悩み、苦しみ、慈悲を乞いたくなったときに」

 ……天秀尼がそう願ったのは、その父・豊臣秀頼の悩み苦しみを知ってか、知らずか。



 なほは母の隆清院と共に、瑞龍院日秀の許に身を寄せていたが、そのうちに伯父の真田信之がやって来た。

「そなた、江戸の奥に仕えるが良い」

 信之は、小松姫が奈阿姫のゆくすえのために動いている間、自身は義妹の隆清院と姪のなほのゆくすえのために動いていた。

「そこで、はたと思いついたのじゃ」

 信繁が何か閃いたときと同じ表情をしながら、信之は語った。

「九条家の正室、完子さだこさまは、豊臣の子にして、徳川の子ではないか、と」

 完子を訪れた信之は、どうか隆清院となほについて、考えたことがあるので聞いて欲しいと言った。

なほは真田の子じゃが、豊臣の子ゆえに――信繁の子ゆえに、苦労が多くなる。そこで」

 いっそのこと、江戸の将軍御台所みだいどころごうに仕えてみてはと提案した。

「さすれば、何か言われようとも、奥女中じゃ、それは江さまの顔に泥を塗ることになる」

 なほは守られることになるし、もしかしたら奥女中であることで、良縁に恵まれるかもしれない。

 これを聞いた完子は、江にふみを書いた。

 江は渋っていたようだが、完子が何度も何度も文を書いた結果、とうとう根負けして、「そこまで言うのなら」と折れた。

 だが娘との頻繁な文のやり取りで、江の心に何か芽生えたらしく、その後も、何でもないことを書いて寄越したり、奥女中となったなほの様子を伝えるようになったらしい。


 ……のちになほは、将軍家光と大御所秀忠の上洛に伴って二条城に入った時、久保田藩(秋田藩)初代藩主・佐竹義宣さたけよしのぶの給仕を務めた。

 その際、下女たちに薙刀の稽古をつけていた姿に感心した義宣は、弟の多賀谷宣家たがやのぶいえの側室にと迎え入れた。

 この宣家はのちに出羽亀田藩主となり、岩城宣隆いわきのぶたかとなった。そしてこの時、なほはすでに宣隆の嫡子・庄次郎(岩城重隆)を産んでいたため、継室となった。

 なほは三十二歳という若さで亡くなるが、それまで庄次郎を自らの手で育て上げ、良妻賢母として名を上げた。

 また、実弟の三好幸信みよしゆきのぶを猶子とし、亀田藩で取り立てたという。



 隆清院も、生まれた子(先述の三好幸信)と共に、九条忠栄くじょうただひでが別で用意した家に移ることになり、瑞龍院日秀は、またひとりになった。

 ただ、忠栄や完子、その子らがよく訪れるようになり、それを愉しみに過ごし、彼女は心の健康を取り戻し、九十二歳に至るまで、長生きすることになる。

 その日――寛永二年四月二十四日、日秀はおのれの命数がそろそろ尽きることを知り、人生の最後に完子に会うことを望んだ。

「すまにゃあな、完子」

「いえ」

 何について「すまない」と言っているかは判然としない。

 それはわざわざ足を運んでもらったことなのか、秀頼を惑わせたことなのか。

 どちらでもかまわないと完子は思う。


 あれから、完子はあらためて江の子となることを望み、江もそれを正式に認めた。

「思えば、そなたもわらわの姉上への怨みのにえじゃった」

 もっと交流を持ち――姉の茶々とも交流を持っていれば、あのような展開にならなかったのかもしれない。

 こうして完子は徳川の子になった。


「それでええ、それでええ」

 日秀は布団に横になりながら、かたわらの屏風を見た。

 狩野山楽の手になるそれは、実に勇壮であり、安土桃山の気風を伝えていた。

 その山楽は豊臣家お抱えの絵師だったが、大坂の役後、落ちのびていてたところを忠栄に救われた。

 忠栄は完子の実母、江に助命を依頼し、江は秀忠にそれを願い、山楽はおとがめなしとなった。

「何しろ、山楽は九条邸のを描いてくれた絵師」

 かつて茶々が、嫁入りする完子のために建てた九条邸――その障壁画を描いていたのが山楽であった。

「ええ画じゃ、藤吉郎が天下を取った頃を思い出す」

「…………」

 木下藤吉郎、あるいは豊臣秀吉。

 この人物こそが、すべてのはじまりであり、原因である。

 今となってはその残滓すらないが、栄華を誇った、豊臣家。

 その家の善きことも悪しきことも、みんなこの男から出て来たのだ。

 しかし。

「もう、ええ。子ぉはみんな死んでしもうたが、それでも藤吉郎、もう、ええで」

 日秀はこの場にいない秀吉に語りかけているようだった。

 三人いた子のうち、ひとりは陣没し、ひとりは頓死し、ひとりは切腹させられた。少なくとも切腹したひとり──秀次は秀吉によって殺されたようなものだ。おそらく、秀頼が生まれたことにより、秀次は「なかったこと」にされたのだろう。秀次の妻妾や子どもたちも、へたに復仇や、あるいは豊臣家の家督を継ぐことになっても困るので、やはり「なかったこと」にされたのだろう。


 しかし、今となっては、誰も秀次とその一族の死の意味はわからない。

 時代は江戸へと移り、安土桃山のことは、もはや伝説の域だ。

「……のう、藤吉郎」

 この人はずっと、農民のままでいたかったのかもしれない。

 だから秀吉ではなくて藤吉郎なのだ。

「会いたやなぁ、藤吉郎。ぁのことを、竹阿弥から守る言うて足軽にならんでも。そんで、国盗り……そうまで、せんでも」

 ……過去と現在が交錯している、日秀の中で。

 完子はこらえきれずに、席を外そうとしたが、その時、隣に座る浅黒い肌をした、たくましい風貌の男に気がついた。

「なっ、何者」

「しっ」

 男が指を一本立てて、片目をつぶる。

 その仕草、どこかで見たようだと完子が首を傾げると、男は日秀に「お久しゅうございます」と言った。

「おお、おお、藤吉郎」

「さよう。藤吉郎にございます」

 藤吉郎。

 この世でその名を名乗ることのできる男は、ひとりしかいない──豊臣の子、それも正嫡の男子しか。

「ま、まさか、ひでよ……」

「お静かに」

 藤吉郎はまた、いたずらっぽく片目をつぶった。

「ばれたら、義姉上あねうえもただではすみません」

 それよりも、と藤吉郎は日秀に向き直った。

「旅立つ前に、千姫や奈阿、国松に一度会おうと思って、ここまで戻ってきて良かった……まさか、また会えるとは、伯母上」

「おお、おお、おみゃあか。うん、うん、藤吉郎が足軽になってなけりゃあ、おみゃあのようになってたで」

「そうですか」

 藤吉郎は飛び切りの笑みを浮かべた。

 その浅黒い肌から、南国での暮らしを想像できたが、「旅立つ」とは。

「あれから十年。信繁も大往生し、島津候もそれがしが手に余る、と」

 だが殺すには忍びないし、一度「興が乗った」と言ったこともある。

 そこで藤吉郎は逐電ちくでんすることにした。

「逃げた、ということにすれば、島津候も面子が立ちますので」

 ただその前に、旧・豊臣家に関わる者たちに挨拶をしておこうと思った。

「四辻与津子どのに会うのは、ちと骨でしたが、何、信繁に学んだ忍びの術で、何とかなりました」

 与津子はあれから本当に帝の子を懐妊して産んだ。

 それも、二度も。

 これに激怒した秀忠と江によって落飾(出家)させられ、ちょうど瑞龍院のある嵯峨野に隠棲していた。

「まさか、そなた」

「そう、そのまさかでござる。今では明鏡院と名乗る与津子どののところで所司代の手の者にばれて、逃げてきたところ」

「ならば、早く」

 久闊を叙するどころではない。あわあわとする完子に、日秀が言い放った。

「あわてるでねぇ。ぁはもう死ぬ。その時、ね、藤吉郎」

「わかりました」



 日秀は逝き、それを聞いた人たちが瑞龍院に駆けつけ、その喧騒の中、藤吉郎は消えた。

 最後の最後に義姉上あねうえに会えて良かったと言いながら。

 その台詞から、彼は妻子とはすでに会ったのだと知った。

「豊臣の子は、これでみんな……」

 死んだか、いなくなったか、出家あるいは改姓してしまった。

 他ならぬ自分もあらためて徳川の子となった。

「結局、豊臣とはなんだったのか。その子は、その子たちは」

 豊臣秀吉本人は良かったかもしれないが、その係累の立場からすると、やはり迷惑な存在だったのか。

「今となっては、文句を言うこともできない」

 だから、豊臣の子・秀頼は秀吉の残した「家」をほろぼそうと思った。

 それを防ごうと動いたのが、ほかならぬ豊臣の子・完子である。

 ……結局のところ、豊臣家はほろんだが。

「いくら子をしても、ほろぶものはほろぶ。それが、この世の、定め」

 忠栄が瑞龍院に到着した。

 周到な彼は、所司代を連れてきている。

 所司代は手の者から声をかけられ、話を始める。

 その間に、忠栄が完子の隣に。

「大丈夫か」

「……大丈夫です」

 そう言いながら、完子は忠栄の腕に抱きつく。

 忠栄はちらりと完子を見たが、何も言わない。

 この人と一緒になれて良かった。

 完子は心底、そう思う。

 豊臣の子として生まれたが。

 九条の妻となれて、良かった。

「……そうか」

 豊臣の子なのだから、大人となれば、もう子ではない。

 豊臣でなくなることもできる。

 いつまでも豊臣の「子」と言い慣わしているから。

「囚われている。そういうおのれ自身を……」

 変えていく。

 解き放っていく。

「そのために養母上ははうえは、わたしを豊臣家から九条の家へ……」

 今思うと、養母上――茶々は、そのために忠栄に嫁がせたのではないか。

 そう、思える。


 ……こうして、寛永二年の春は過ぎて行った。

 その春は――豊臣秀吉の家族の最後の一人が逝き、豊臣の子らは今、そのし方を終え、く末を目指す春となった。


【了】

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豊臣の子 四谷軒 @gyro

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