第3話 若き後妻
小夜子が小さく手を上げながら口を開いた。
「金庫を触るということでしたらその通りです。その中身という話であれば、私は触れています。と申しますのも、主人は高齢で手先が思うように動かない日があるからです。そういう日は、後ろに控えていた私に開けた金庫からジュエリーボックスを取り出させていました」
「奥様は金庫の開け方は知らないということですか?」
「はい、主人は体が大きいので車椅子の後ろからでは手元までは見えません。それに、私は宝石に興味がないと申しますか……覗き込んで見ようとはしませんでしたので」
執事の山中が口を挟んだ。
「金庫自体は建物に埋め込まれています。金庫室の入り口は狭く、車椅子に乗っているご主人が入っていかれると金庫の全面は隠れてしまい、後ろからは見えません。確認されますか?」
伊藤刑事がスッと手を上げた。
「いや、それは鑑識作業の後にしましょう。奥様が仰る意味は理解しました」
横でメモを取っていたもう一人の刑事である藤田が、何気なく言葉を発した。
「大変失礼ですが、今年で72才になられるご当主の奥様は随分お若いのですね。ご当主とは再婚と聞きましたが、それにしても……」
山中と2人のメイドが気色ばむ。
それを無視して小夜子が言った。
「私は今年で32才です。主人と結婚したのは今から10年前です。その頃の主人はまだ車椅子を使用していませんでした。私の父が主人と懇意にしておりまして。その縁で再婚相手に選ばれたのですわ」
2人の刑事は顔を見合わせた。
医師の山本が口を開く。
「その頃のことなら私がいくらでも説明するよ。2人が最初に出会ったのは小夜子夫人がまだ高校生の頃だ。私も一緒に何度か夫人のご実家を訪問したよ。もう一方的に斉藤が小夜子夫人に惚れこんでねえ。彼女が大学を卒業するのも待ちきれないほどだった。懐かしいね」
「ほう、それは大恋愛だったのですね」
小夜子がフッと息を吐く。
「大恋愛などではございませんわ。私の実家は主人から少なからぬ援助を受けておりまして、父も断ることができなかったのでしょう。もちろん主人のことを嫌悪したことはございませんが、専属の介護担当になる覚悟で嫁いだというのが正直なところです。私は養女ですので、育ててもらった恩を返すという意味もございました」
山中が小夜子を庇うように言った。
「ご結婚なさってすぐにご主人様は倒れてしまわれて。それからずっと奥様は文字通り献身的な介護を続けておられます。それはもう片時も離れることを許さないご主人様のご要望にもお応えになっています」
「それはなかなかストレスがあったでしょうね?」
伊藤刑事の言葉に小夜子が小首を傾げた。
「いいえ? 私はもともと人と接するのが苦手なので、出掛けたいという願望もございませんわ。必要なものは出入りの業者が持ってきますし、ブランド品も流行りの服も興味が無いので何も不服は無いのです。むしろ大好きな読書に時間を割けるので僥倖ですわ」
藤田刑事が目を丸くする。
「僕とそれほど年齢も違いませんよね? たまにはおしゃれしたいとか、旅行に行きたいとか無いのですか?」
「ありませんわ。そう考えると……主人が倒れてから1度も外出をしておりませんわね」
「えっ! 一度も?」
「ええ」
二人の刑事はまるで珍獣を見るような目で小夜子を見た。
不躾な視線を受けてオドオドする小夜子を庇うように医師の山本が口を挟む。
「どう過ごしたいかは人それぞれだろう? 自分の価値観や一般的な考え方を押し付けるのは如何なものかな」
「仰る通りです。小夜子夫人、大変失礼いたしました」
小夜子がフッと笑う。
「いいえ、私が少数派ということは十分に認識しておりますので」
玄関チャイムが鳴り、鑑識班の到着を知らせる。
刑事二人が立ち上がり、犯行現場であろう執務室に向かった。
その背中に山中が声を掛ける。
「我々はここに居なくてはいけませんか?」
「できれば今しばらくここで待機していただきたいです」
返事をする伊藤刑事に医師の山本が言った。
「私と夫人は病人の側にいたいのだがね」
伊藤刑事がひとつ頷いて口を開く。
「わかりました。でしたら皆さん一緒に移動してください。お仕事もあろうとは思いますが、あまり時間はかけませんので、ご協力をお願いいたします」
山本医師が不機嫌そうに眉間の皺を深めたが、捜査協力と言われてしまえば逆らうこともできない。
山中を先頭に、山本医師と小夜子、そしてメイドの千代と美奈が続いた。
寝室に入ると、真っ先に小夜子が枕元に向かう。
山本医師は小夜子の横から腕を伸ばし、死んだように眠る斉藤雅也の脈を確認した。
「どうぞ奥様と先生がお使いください」
寝室にはセミダブルのベッドが二つと、三人掛けのソファーとテーブルが置いてある。
部屋の奥の扉はサニタリースペースで、寝間着やタオル類を収納する棚があるだけだ。
窓際には大きなパキラという観葉植物が置かれている。
「いや、君たちもずっと立っているのは辛いだろう。私と夫人はここに座るから、ソファーは君たち三人が使いなさい」
そう言った山本医師は小夜子を促して、小夜子の使っているベッドの端に腰かけた。
「そうよ、あなた達も座ってちょうだい。刑事さんはああ仰ったけれど、きっと時間も掛るでしょうから」
小夜子の口添えに、三人の使用人たちは互いに顔を見合わせたが、山中が小さく頷いてメイド二人にソファーに座るよう言った。
ふと小夜子が美奈に声を掛ける。
「飾り棚に紅茶があるわ。カップはどれを使っても構わないからお茶を淹れてくれない?」
「畏まりました」
ソファーの端に座っていた美奈が腰を上げた。
飾り棚に収納されていたカップは、小夜子の趣味で揃えたマイセンだ。
どれほど高価なものであろうと執着をしない小夜子ならではの指示に、その価値を知っている三人の使用人は手が震える思いでカップに手を伸ばした。
どれほど時間が経っただろうか。
重たい沈黙を破ったのは山本医師だった。
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