第11話 昔の悪夢

 衝撃的な再会でなかなか動悸が収まらない中、何とか気持ちを持ち直して、実験室で仕事を始めた。

 今の仕事は、開発中の製品の評価と改善だ。

 新しく開発中の浄水器のサンプルが、目標通りの性能が出ているかどうか、フィルターや水質を変えて確認をしていく。

 

 同じフロアに別の技術者はいるけれど、基本的には孤独な作業である。

 測って記録して、実験条件を変えて、また同じことをする。

 その結果を分析して、次の改善ポイントを探していくのだ。


 お昼の時間を挟んでその前後で作業を行って、それからデスクに戻って休憩してから、結果をまとめる。

 ふと社内チャットの履歴に目をやると、上野山梓の名前があった。


 ―― 早速何か言ってきたかあ。


『お久しぶり、弾。どこかで話せない?』


 あまり気は乗らないけれど、同じ会社に勤める同僚にもなるのである。

 そんなに無下にもできないな。


『今からでよかったら、6階の休憩室でどうだ?』


 ひとまず一報だけは返して。


 一昨日の晩、リバイバルシネマを訪れたのは、映画自体が面白かったのと、昔の思い出に浸るためでもあった。

 彼女とまだ仲睦まじかった時の、胸がときめいていた自分を思い出して。

 もっと世間知らずで青かった頃の自分、今ほどはスレていなかった自分に、浸ってみようかと思ったのだ。


 けれど、今更彼女に会いたかったかと言われると、そうではない。

 もうふっきったはずの悪夢のような出来事も、頭の中で蘇ってくるように思うから。


『分かった。行くわ』


 そう返事があったので、席を立って約束の休息室へ向かう。

 そこはいくつかテーブル席が並んでいて、その1つでは女子社員同士が賑やかに雑談をしていた。

 

 缶コーヒーを買って一息ついていると、上野山梓本人が姿を見せて。

 テーブルを挟んで真向いに腰を下ろし、口を開いた。


「久しぶりね、弾。五年ぶりくらいになるかしら? まさか、同じ会社に入ることになるなんてね。貴方、私に就職先を教えてくれなかったから」


「……別れて疎遠になった元カノに、わざわざ教える必要もないだろう」


「……怒ってるの、まだ?」


 口元を緩めて、黒真珠のように照りを帯びた瞳を向け、興味深げに訊いてくる。

 悪びれる様子は無いようだ。


「いや、もう怒ってはいない。だが、わざわざ思い出すことも無いさ」


「そう。あれから、どうしていたの?」


「どうもしやしないさ。普通に大学に行って、今の会社に入ったんだ」


「新しい彼女とか、いないの?」


 お前に言われたくないと、若干腹立たしさを感じる。

 けど、今更言っても仕方がない。


「別に。そういうお前の方は、どうなんだよ?」


「今はいないわよ。大学院に入ってからあの人と別れて、それっきり」


「そうか。それは残念だったな」


 そう、乾いた返事を返す。

 彼女は大学院に2年間通ってからの就職なので、年齢は同じでも、一応俺の2年後輩にあたる。


「あの人と別れてから、何回か貴方に連絡を入れたけれど、結局返事くれなかったものね」


「それって、俺が会社に入ってからのことだよな? それなりに夢中だったからそんな暇無かったし。それに、お前の顔を見ると、つい余計なことまで考えてしまうかもだしなあ」


「……悪かったと思っているわよ、今は。私も、コーヒー買っていい?」


 彼女は神妙な面持ちになってそう応えると、席を立って自販機に向かった。

 同じブラックの缶コーヒーを手に戻ると、栓を開けてくっと一口煽った。


「あの時は、私も若かったの。大胆なあの人の方が、大人しいあなたよりも、魅力的に見えて」


「そうか。なら、仕方ないな。けどそれだったら、もう少し普通の別れ方があっても良かったな」


「……まさかあそこで、貴方が訪ねてくるなんてね」


「まあな。訪ねて行った俺も悪かったのかも知れないけど、でもあれが無かったら、気づかないままだったかもな。そう考えると、あれもありだったのかな」

 

「……そうかもね。私から貴方にさよならを言うの、もっと先になっていたかもね」


 もう過ぎたことだと、全く気に留めていなかった。

 けれどこうして話していると、また嫌なシーンが蘇って来て、胸の奥が苦しくなる。


「でもまあ、その人と幸せになれればいいなとは、思ったよ。何で別れたんだ?」


「……彼の浮気」


 そういうことか。

 良くも悪くも、肉食系男子だったってことだな。

 まあ、お互い様といえばお互い様……


「そうか、残念だったな。でも、そういう男に魅力を感じたのなら、仕方ないか」


「そうね。貴方がもっと積極的だったら、私達もっと続いていたかもね」


「じゃあ、俺がお前に、襲い掛かってたら良かったのかよ?」


 冗談だと分かるように、おどけた感じでそう伝えてみる。

 もちろん、本気でそう思っている訳ではない。

 けど、俺とその男との大きな差が、そこにあるのは間違いないのだ。


「そうかもね。だって貴方、付き合って半年経っても、手を握るくらいしかしてこなかったから。私も、ちょっと自分に自信が無くなっていたのかも知れないわ。そんな時に、あの人が現れたのよ」


 コーヒー缶を両手で持って、申し訳なさげにそう言葉を紡ぐ。

 その眼には影を帯びていて、決して面白がって話している風ではなさそうだ。


 大学三年生のある日、その日は梓の誕生日だった。


 朝から約束して、ちょっと遠出をして、普段行かないようなレストランで、同じ時を過ごした。

 けれど何故か、夜は予定があるとのことで、夕刻で別れることになった。


 彼女を家まで送っていって、そのまま電車に乗ってから、忘れ物に気づいた。

 彼女への誕生日プレゼントを渡すのを、忘れていたのだ。

 

 すぐに連絡を入れても、つながらない。


 彼女と付き合うようになってからの、最初の誕生日。

 何とかこれだけは、その日の内に渡したかった。


 これだけ渡してすぐに引き上げれば、大丈夫だろう。

 そう思って、彼女の部屋があるマンションへと引き返した。


 辺りは暗くなっていて、南側に面した彼女の部屋は、灯りがついていた。


 少し緊張しながら、インターホンのボタンを押した。

 けれど応答がない。


 もう一度押すと、中から返事があった。

 少しだけドアが開いて、その隙間から彼女が顔を覗かせ、


「何の用?」


 と、冷たい言葉が返ってくる。


 何だか様子がおかしいけど、急に訪ねたので怒ったのだろうか。

 そう思って、


「ごめん、急に。これだけ渡し忘れていたから」


 そう伝えて、鞄の中から、綺麗にラッピングされた箱を取り出した。

 彼女のために自分なりに選んだ、誕生日プレゼント。


 すると少し間があってから、もうちょっとだけ、扉が開いた。


 ――あれ?

 違和感に気づいて、胸の中に不安が広がった。


 彼女の胸元が、不自然に大きく開いている。

 少し前に別れた時よりも。


「ありがとう」


 そう呟いて、俺から箱を受け取って、ドアを閉めようとした時、


「おーい、誰か来たのか?」


 奥から聞こえてきたのは、野太い男の声だった。

 後から知ったのだけれど、その声の主は、俺達の先輩。


 俺はその人に、梓を寝取られたのだった。


 当時は滅茶苦茶凹んで、体重が5キロほどは落ちたけど、自分が青臭かったんだなと今は思うんだ。




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