第3話 役員秘書

 翌日、いつもの時間に起床して、顔を洗って着替えを済ませ、朝食は抜きにして部屋をでる。

 そこから、徒歩と電車で片道約1時間で、勤務先のオフィスがある社屋ビルに辿り着く。

 

 かなり大きなビルで、人事、経理、営業、広報、技術等々、様々な職種が部門を構えている。

 従ってそれなりに従業員も多く、廊下ですれ違っても顔と名前が一致しないことも多い。


 日本国内や海外にも工場や拠点をもつ総合電機メーカー、五つ星産業株式会社の本社ビルだ。


 そこの5階までエレベーターで上がり、廊下を進むと、オープスペースがあって沢山の机が並ぶ。

 その一画に、俺が所属する技術部第2開発課第1係がある。


「おはようございます」


「ああ、おはよう」


 上司に挨拶をして自分の席に付き、パソコンを立ち上げる。

 いつものように社内メールやチャットを確認していると、


「おーい。高坂君!」


 少し離れた場所にあるデスクから声を掛けてきたのは、第2開発課課長の紅林さんだ。


「はい」


 返事をして腰を上げてから、彼の机の前で直立する。


「頼んでおいたプレゼンの資料、できているかね?」


「えっと、もう少しかかります。今日中にということとだった思いますので、午後からやり上げようかと思います」


「すまないが、急いでくれると助かる。こちらでも一通り見返して、手を入れんといかんしな」


「はい、分りました」


 こうした小言めいたことを朝から言われるのも、日常の風物詩だ。

 他から気づかれないように溜息を吐いて席に戻ると、隣の席から小声が掛かった。


「全く、気まぐれ課長にはまいるよな。確か今日中にって、俺も聞いていたぞ」


「まあいいさ。朝と昼の予定を入れ替えて、課長の依頼を先に済ませればいいことだ」


「ま、頑張れよ。俺は実験室の方に行っているから、何か手伝えることがあったら、言ってくれ」


「ありがとう」


 俺に言葉を掛けてきてくれたのは、同期入社の山県好景やまがたよしかげだ。

 実はこいつも俺と同じような頼まれごとをされていたのだけれど、昨日の朝一番で課長への提出を済ませていて、その際には大いにお褒めの言葉を頂いていた。

 

 入社当時から、仕事ができて、しかも高い身長に見事なルックスを持つ。

 それに、俺のような者にも気さくに接してくれる性格の良さが加わっているとなれば、会社のお偉い様方の信頼も既に厚く、女子受けも抜群なのも頷ける。

 去るバレタインデーには、紙袋いっぱいの友チョコやら本命チョコやらをぶら下げて、全部を家に持ち帰っていた。


 華やかな陽キャ、これが山県の日常である。


 とりあえず、課長からの頼まれごとを突貫でやり上げるために、全力集中する。

 二時間ほどで何とか形にして、メールで送信。


「紅林課長、プレゼン資料送りました!」


「ああ、ありがとう」


 乾ききった返事を一言受けて、タスクは一旦終了。

 読みそこなっていた社内メールに目を通していると、何故かオフィスがざわつき出した。


 何だろうな? 誰かお偉いさんでも、訪ねて来たのかな。

 気付かないふりをして、目線をパソコン画面にだけ固定していると、すぐ脇を爽やかな風が通り抜けたような錯覚に襲われた。


 思わず顔を上げて課長席の方に目をやると、見慣れない女性の後ろ姿があった。

 腰までありそうな長い黒髪がつやつやと光沢を帯びている。

 紺色の上下のスカートスーツが、細身の肢体を包んでいる。


「お時間頂いてすみません、紅林課長。諌山常務へのプレゼンの件で、ちょっと段取りの打ち合わせをさせて頂きたくて」


「いえいえ、わざわざ来てもらってすみません。確か、白石さんは、諌山常務の新しい秘書の方でしたね?」


「はい。4月から、秘書室と営業企画の仕事を兼務させて頂いています。だからまだ、慣れないことが多くて」


「いやいや、それは無理もないことです。でも、噂は聞いていますよ。大変優秀だとか」


「いえ、そんなことはないです……」


 普段しかめっ面が多い紅林課長には珍しく、相好を崩しっぱなしだ。


「じゃあ、会議室の方に行きましょうか」


 紅林課長が席を立って、彼女をエスコートする。

 振り向いたその顔は、氷のように透き通った白さで、黒く大きな瞳、鼻筋がすっとして――


 は? この人……


 俺が固まってじっと見つめているのに気がついたのか、彼女も俺の方に視線を向けて――


 そして、両者が氷の彫像のように、その場で硬直した。


「どうかされましたか?」


「……あ、いえ……」


 彼女は俺から目線を逃がして、紅林課長の後について、俺の脇をすり抜けていった。


 多分間違いない。

 彼女は白石雪菜、昨夜ナイトシアターで、同じ時間を一緒に過ごした人だ。


 神様、これもあなたの気まぐれか?

 思考回路の機能が追いつかず、午前中の残りの時間は、何も手につかなかった。

 

 昼食を挟んでから、実験室にいる山県の元へ向かった。


「どうしたんだ、浮かない顔だな? また課長に怒られたのか?」


「いや、違う。お前、白石雪菜って人、知ってるか?」


「えっ!? お前、知らないのか?」


「ああ、全然」


 信じられないとばかりに、呆れ顔で、首を横に振る。


「お前なあ、いくら他人に無関心だからって、情報量が少なすぎるぞ。一昨年に営業部に入ってから、仕事もできるし綺麗だってので、社内では有名人だ。この4月からは、役員秘書室の仕事も兼務だっていうな。多分、お偉いさんが気に入って、どうしてもってことで引っ張ったんだろうがな」


「そうなのか。じゃあ、俺達よりも、1つ後輩になるのか?」


「ああ、そうなるかな。お前もしかして、白石さんのことが気になるのか?」


「いや、そういうことじゃない。さっきたまたま、課長の所に来ていたから、どんな人なんだろうって思ってな」


「そうか。ならいいや」


「……何がいいんだ?」


 山県の意味深な言い回しに、思わず質問が口をついた。


「営業部の先輩と付き合っているって噂だ。めちゃくちゃやり手の人らしいから、彼女を狙うなら、相当の覚悟が必要だな」


「へえ。お前よりもやり手なのか?」


「俺なんか、その人に比べたら、まだまだだよ」


 上には上がいて、優秀な人って多いんだな。

 自分と他人とを比べると凹むことが多いので、気にしないように努めてはいるけれど、やはり現実はそんなものなのだ。


 山県との雑談を切り上げてからオフィスに戻り、後回しになっていた実験レポートの作成に取り掛かる。

 さっさとやり終えて、定時退社しよう。


 そう思って画面に没頭していると、社内チャットに反応があった。


 また何か、仕事の指示かな。

 そう思ってページ開くと、それは白石雪菜からのメッセージだった。




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