第2話 神様、どこまで?

「あの、先ほどはすみませんでした。取り乱してしまって」


 深々と腰を曲げてから、上目使いでこちらに向き直る。

 体の前で真っ白な両手を組んで、緊張した面持ちだ。


 何故ここに? と訝しく思ったけれど、一先ず言葉を返す。


「いえ、別に。気にしないで下さい」


「駅に着いたら、たまたま貴方を見掛けてしまって。この電車に乗られるんですか?」


「はい」


「そうですか、私もなんです」


 先ほど途切れた非日常が、もう少しつながった感じだ。

 胸の中が高揚してくるけれど、すぐにそれをメガトンハンマーで叩きつぶす。

 変な期待を持ってはいけないし、都合よく考えてもいけない。

 今までに何度も学んだことだ。


「どちらまで、行かれるんですか?」


「O町の駅までです」


「え……私も、同じです」


「……そうですか……」


 ……何なのだろうか、この展開。

 何とか笑顔を捏造しながら、高ぶる心の中を押さえようと、理性と良識をフル稼働する。


 偶然が重なっただけ、ただそれだけ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 やがて電車がホームに流れ込んで来て、二枚扉が左右に開いた。

 降車する客と入れ替わりに車内に入ると、運よく二人分が並んで座れそうな場所を見つけた。

 

「ここ、座りましょうか?」


「はい」


 肩が触れ合うほどの距離感で腰を下ろすと、電車はゆっくりと、前に進み始めた。


「あの……」


「はい?」


「私、白石雪菜しらいしせつなっていいます」


「しらいし、せつなさん?」


「はい。降る雪に、菜の花の菜、です」


「そうですか、綺麗な名前ですね」


 俺の素直な感想を耳にして、白石さんは嬉しそうに頬を緩めた。


 白い雪に菜の花、まだ会ったばかりだけれど、ぴったりの名前だと思う。

 白い素肌を緩めて柔らかに醸す笑顔。

 残雪の中で芽吹く春の花、そんなことを思い浮かべてしまった。


 ―― 俺の勝手なイメージだけど。


 けど、自己紹介をしておく意味ってあるのかな?

 電車が駅に着いたら、そこで俺達はお別れ。

 そこから先は、いつもの変わらない日常だ。


 でも、僅かな間でも、同じ時間を一緒に過ごした。

 名も知らない相手より、名前くらいは知っていた方が、思い出としては綺麗に残るかもな。

 彼女にとってどうかは、分らないけれど。


「俺は、高坂弾、っていいます。弾丸の弾で、はずみって読むんです」


「こうさか、はずみさん…… 珍しいお名前ですね。初めて聞いた気がします」


「そうですかね、やっぱり。少なくとも今まで、同じ名前の人間には、会ったことがありません」


「そういう名前って、すぐ覚えてもらえて、良く無いですか?」


 どうだろうか?

 名前で得をした記憶は、一度もない。

 むしろ子供の頃に、「はずいはずみ~」などと、何かあると囃し立てられた苦い記憶が蘇る。


「いや、そうでもないですよ。変なあだ名付けられることもあったし」


「変なあだ名?」


「はずいはずみ、とかね」


「そんな……酷い……」


「まあ、昔のことですし。それより白石さんの名前は、よく似合ってと思います」


「そうですか?」


「ええ。綺麗な名前、白石さんにぴったりです」


「……あの……ありがとうございます……」


 言葉にしてしまってから、何を言っているんだと、顔面が熱くなる。

 何で、いままで一度も口にしたことが無いような浮いた言葉を、この場で……?

 すぐ横の白石さんの横顔も、仄かな紅に染まっている。


 それから大した会話もないまま、O町駅に電車が到着した。


「着きましたね。降りましょうか」


「はい」


 よかった。これで、気まずい沈黙の時間からは解放される。

 会話がもっと得意だったら、こんな思いはしないんだろうけど、多分。


 改札を抜けて、いつもの帰り道。

 

「じゃあ俺、こっちなんで」


「あの、私も同じです……」


「……」


 神様、今日は引っ張るなあ、気まぐれにも程がある。

 どこまで続くのだ、今日のこの非日常は?


 白い街灯に照らされたいつもの帰り道、今日だけは白石さんと一緒。

 少しだけ胸が弾んで、足取りが軽くなる。

 でも、これはあくまで一時の夢、ずっと続く訳ではない。

 夢から覚めて廃人になったりしないよう、冷静さは保とう。


 そして、いつも目にする高層マンション。

 立地条件はいいけれど、少し狭い目の間取りで築が古いので、俺のような者でも何とか住めている。


 その前で足を止めて、白石さんに声を掛けた。


「すいません、俺、ここなんです」


 そんな俺に、綺麗な瞳を見開いて、唇を動かす白石さん。


「あの……私も、ここなんです……」


「そ、そうですか……」


 もう、何が何だか分からない。

 エントランスから中に入って、白石さんはエレベーターの前でボタンを押す。


「それじゃあ俺、階段で昇るんで」


「え? でもそれじゃあ、大変なんじゃないですか?」


「いえ。俺の部屋は二階だから、階段の方が早いんですよ」


「そうですか…… 私の部屋は、八階にあります」


「そうですか。じゃあ、これで」


 足早にこの場から姿を消そうとすると、白石さんが声を届けて来た。


「おやすみなさい、高坂さん。これからも、よろしくお願いします」


「はい……」


 何をよろしくすると言うのだろう?


 そうだ。全くの想定外だったけれど、住んでいるマンションまで同じだったのだ。

 近所付き合いとは言わないまでも、最低限の社交辞令、そういったところかな。


 軽く頭だけ下げて、階段の方に足を進めた。


 自分の部屋のドアの鍵をひねって、暗い室内に照明を灯す。


 今日は長く感じた一日だった、久々に。


 別れ際、俺を見つめていた白石さんの黒い瞳が、脳裏に浮かび上がってくる。


 駄目だ、過度に意識するな。

 あれは今日だけ、偶然と幸運が重なってできた幻惑の非日常だ。

 それが終れば、またいつもの日常が、口を開けて待っているのだ。


 きっとそうだし、それでいい。

 そう自分の心と対話してから、浴室の前で衣服を脱いだ。






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