第1話 仮初の非日常

「すみません。席、窮屈じゃないですか?」


 そう言葉を告げると、彼女は綺麗な瞳をこちらに向けたまま、口元を緩めた。


「大丈夫ですよ。ここの席、観やすいですものね」


 別に嫌そうではなく、普通の反応だ。

 話してみて良かったと、留飲を下げる心地がした。


「あ、そうですね。すみません、席を予約した時には、この辺も全部空席だったので。まさか隣同士になるとは、思いませんでした」


「そうですね、私も同じです。こんなことってあるんですね」


 綺麗な人だ。暗がりの中でも分かる真っ白な肌の中で、黒くて大きな瞳は輝きを湛えている。

 すっと通った鼻筋に、小さめの赤い唇。

 唐突に話し掛けた俺に対して、柔らかな笑顔で応えてくれている。

 少し子供っぽくて、可愛らしい笑顔。


「あの、お邪魔でしたら俺、席ずれますけど?」


「あ……大丈夫です、別に……」


 笑顔の彼女がそう言ってくれるので、結局そのままの席で、映画を堪能することにした。

 すぐ隣から人の温もりが感じられるようで、何だか気分が落ち着いてくる。

 一人の方が気楽だと思っていたけど、意外だな、こういうの……


 この映画は、幼いころに生き別れた男女が、長い時を経て再開して、日本や海外を舞台にして思いを重ねて、恋を紡いでいく物語。

 コメディのようなやり取りもありながら、シリアスな話の展開が美しい情景の中で描かれ、観ている観客自身も世界を旅しているような気分にさせてくれる。

 ヨーロッパの美しい古城で、すれ違っていた二人がお互いを思いやりながら距離をつめていくシーンには、思わず目頭が熱く感じたのを覚えている。


 銀幕に彩られる情景に目をやりながら、以前に観た当時のことが頭を過る。

 懐かしくもあり、でもほろ苦く、思い出したくないものも含めて。


 やがて時間が過ぎ、エンドロールが流れ終わって、場内の照明が点灯される。

 そうしてすぐに、隣の彼女の様子がおかしいことに気づいた。


 ―― 泣いている?

 白いハンカチを鼻の辺りに当てて、大粒の涙を零している。


 そんなに映画に感動したのかな?

 それとも、俺と同じように、昔の何かを思い出して?


 元々知らない女の人、そのままやり過ごして席を立つのが、普通だよな。

 変に声を掛けたりすると、せっかくの気分をぶち壊すウザイ奴と思われたり。

 それか、下心を隠した狼のように受け取られたり。


 いずれにしても、学生時代はずっと陰キャに徹してきて、今の会社でもあまり変わった立ち位置にいないような俺から話し掛けられも、キモいだけだろうな。


 非日常を一時味わえた。

 それだけでも、今日ここに来た価値はあったと思う。


 何も言わずに腰を上げ、二、三歩、彼女から遠ざかった。


「うわあああ~~ん!!」


 背中の後ろから、大きな泣き声が追いかけてくる。

 何だか、後ろ髪を引かれて止まない。


 振り返ると、彼女は腰を曲げて、顔を床の方に落として、肩を震わせていた。


 …… しかたない、キモ男かウザキャラになってみようか。

 どうせもう、二度と会うこともないのだろうしな。

 何とかの恥はかき捨て……とも言うし。


「あの、大丈夫ですか?」


 また彼女の方に近づいて、少し腰を低くしながら、静かに声を渡した。


 彼女は顔を上げることなく、小さく頷いているように見える。


「……ごめんなさい……こんなの……急に……」


「いや、その……」


 次に掛ける言葉が見つかずに、ただ彼女に視線を落とす。

 シアターの出入り口の近くで、職員の人達が、遠巻きにこちらへ目を向けている。

 今日最後の上映の後、片づけとか明日の準備とかがあるのだろう。


 でも、無理やり席を立たせて連れ出すのも、何だか可哀そうだ。

 そんな風に思ってしまうほど、彼女は子供のように泣きじゃくっている。


 そのまま黙って、時間が経過していく中に身を任せる。


「あの、お客様、上映終了のお時間なのですが?」


「あ、すみません」


 掃除道具を持った職員さんの声が掛かってきたので、頭をペこんと下げた。


「あの、そろそろ行きませんか?」


「……はい」


 彼女は力の無い返事をくれると、ハンカチで目を押さえながら、ゆっくりと席を立った。


 映画館の外は、人影がまばらだった。

 同じフロアにある休息用のベンチで、寄り添い気味に座って時間を過ごす。

 ようやく落ち着いてきたのか、彼女はまだ濡れそぼった瞳を、こちらに向けた。


「ごめんなさい。あの……見ず知らずの人に、こんな迷惑をかけてしまって……」


「いえ、いいんです。俺もちょっと気になっただけですし」


「私のために、余計な時間も使わせてしまって……」


「いーえ。映画の時間がちょっと長かったりするのと、全然変わりませんし。それに、これから家に帰っても、風呂に入って寝るだけだから。気にしないで下さい」


「本当に、すみませんでした」


 申し訳なさそうに、黒い髪を揺らしながら、何度も何度も頭を下げてくる。


「本当に、お気になさらずに。じゃあ俺、そろそろ行きますね」


「あ…………」


 何かを言いたげに口を開きかけた彼女に、軽く手を振ってから、その場を後にした。

 ベンチで一人佇む彼女を残して。


 ―― これでいいんだ。

 ここから、お食事でもとか、連絡先でもとか、そんな超非日常の展開は、それこそ映画やラノベの中での話だろう。

 現実はそう甘くはない。それは、よく分っているつもりだ。


 今までにも、些細なきっかけは、いくつもあった。

 たまたま肩がぶつかった、落とし物を拾って届けた、本屋で偶然遭った……

 どれもそれ以上の続きがあるでもなく、逆に「何こいつ?」といった感じの目を向けられたこともあった。


 変な期待をもっても、そこから先は陰キャぼっちには程遠い世界。

 自分の中の自分を守るために、いつしかその先の未来を考えるのを止めた。

 

 一時の非日常、心の中で彼女にありがとうと言いながら、駅に向かった。


 プラットフォームで電車を待ちながら、明日の仕事の段取りに頭を回す。

 朝一で今日の実験レポートを書いて、それから会議…… 午後からは、新しい試作品の評価かな……

 今の会社に入社三年目のこの俺、高坂弾こうさかはずみの、いつもの日常が待っているのだろう。


 はあっと溜息をつくと、背中から優し気な声がした。


「あの、すいません……」


 呼ばれているのは、俺か?

 目立たない様におずおずと首を後ろに向けると、すぐ後ろに、長い髪の女性が立っていた。

 つい先ほどまで、映画館で一緒に仮初の時間を過ごした、彼女だった。





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