俺に非日常をくれたのは、美人の役員秘書の君

まさ

プロローグ ナイトシアター


 この街は魔都バビロンではないかと思うことがある。


 喜怒哀楽、光と影が混在していて、沢山の日常と僅かな非日常が常に交錯する。

 その中で、夢を掴んで輝く者、富を手に入れて安楽に興じる者、名声に支えられて大勢の人に囲まれて過ごす者、そして大切な人と一緒にかけがえのない時を過ごす者が、間違いなくいる。


 それらは眩しくて、時に心を惑わせる悪魔のようにも思うのだ。

 永遠に変わることがないのではないかと思えるような平凡な日常を一人で生きている、俺のような者にとっては。


 などと恰好いいことを言ってみても、要は俗に言う陰キャ、なのである。

 社会人にもそんな言葉が当てはまるのかどうかは、知らないけど。

 

 午後六時、オフォスから姿を消そうとすると、上司の課長から、今日も嫌みをもらった。

 仕事が遅いのにもう帰るのか、そういうことだろう。


 表通りに出ると、西の空はまだほの明るかった。

 これから夏に向かって、太陽が空に浮かぶ時間は、もっと長くなっていくのだな。


 近くにある行きつけの定食屋で、お気入りの鯖味噌定食を注文してから、スマホの検索画面に向き合った。

 

 不意に、映画に行きたくなったのだ。


 いつもの路を通って見慣れた部屋に帰って、普段通りに風呂に入って布団にもぐる。

 そんなルーティンの日常から、少し離れてみたいと思ったのかも知れない。


 ―― あ、リバイバル映画をやっているな。


 学生時代に、奇跡的に付き合えた女の子を誘って、一緒に観た恋愛映画だ。

 結局その後にひどいフラれ方をしたのだけれど、その時の胸の高鳴りや甘酸っぱさは、今も記憶の片隅に残っている。


 昔の思い出に浸ってみるのも、たまには悪くないかもな。

 今からだと、丁度今日最後の上映時間に間に合いそうだ。


 オンラインで席を予約しようとすると、館内は全て空席状態だった。

 

 これ、貸し切り状態かもな。それも悪くない。

 そう自己満足をして、少し後ろの真ん中の列の席を予約した。


 人工の灯りが照り輝く摩天楼の底を通り抜けて、華やかなファッションビルの中にある映画館へと向かう。

 お腹はいっぱいなので売店でビールだけを買って、入場時間になってからシアターへ移動した。


 やはり誰もいないな。

 平日の夜、しかも何年も前に上映されたリバイバルだし、そんなものか。


 一人だけの空間に腰を下ろすと、映画の予告編を映すスクリーンから、明滅する光が降り注ぐ。

 世の喧騒や毎日のうさを一時忘れさせてくれる、くつろぎの時間。


 おや、誰か来たな?


 髪が長いので、女の人っぽい。どうやら一人のようだ。

 白いスカートを靡かせて、階段を上がって来て、俺が座るのと同じ並びの通路に方向を変えた。


 ―― 席、近いかも。


 彼女は俺の席のすぐ横で立ち止まり、少しの間そのまま立ちんぼをしてから、俺のすぐ隣の席に腰を下ろした。


 え、隣?

 これだけがらがらの映画館、しかも二人しかいないのに?


 急に緊張してきたし、居心地が悪いな。


 けど俺、別に悪いことはしていないよな?

 席を予約した時には、間違いなく全席空いていた。

 たまたま、彼女と同じようなタイミングで、席を予約してしまったのかも知れない。


 落ち着かない。きっと、彼女の方も同じなのではないだろうか。

 

 他は全部空席のようなので、別にここに座っていなくても、映画は観られる。

 けれど、何も言わないで移動してしまうと、それはそれで、感じが悪い奴に見えてしまうだろう。

 全然知らない赤の他人だけれど、それはちょっと寂しい。


 とはいえ、知らない女性に気軽に声が掛けられるほど、俺の心は頑強ではなく、むしろ豆腐のように弱くて脆い。

 

 どうしようかなと勝手に一人で逡巡していると、予告編の上映も終わって、本編の上映時間が迫ってくる。


「あ、あの……」


 なけなしの勇気を振り絞って、彼女に声を掛けた。


「……はい?」


 返事をしてくれて、こちらに顔を向けてくれた彼女の美しさに、それを映す網膜が歓声を上げた。


 そして、平凡で退屈な毎日を輪廻のように送る俺が、非日常に出会えたのではないかと思えた瞬間だった。

 


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