斬れぬ刀で斬る刀
外清内ダク
斬れぬ刀で斬る刀
文明開化の時代、であった。
明治6年。
「文明開化」の語そのものの誕生は、さらに数年後、福沢諭吉が“civilization”の訳として造語するのを待たねばならないが……
開化の風潮そのものは、この時すでに、東京の街に渦を巻いていた。
鉄道が通る。
郵便が走る。
ガス灯が夜を切り拓く。
技術ばかりではない。言語、娯楽、学問、制度、衣、食、住のすみずみまで、「なんでも洋モノが良い、洋モノならなんでも良い」とばかりに、人々はとにかく西洋からの輸入品をありがたがった。
狂騒的な西洋文化の導入は、ヒトの考えかたをも変えた。
土地に根づいていたたくさんの言い伝えは「迷信」の一言で切り捨てられ、科学と理性にもとづいた合理的なモノの見方が推奨された。
といっても、その「合理」は、数え切れないほどの間違いや偏見を含みこんだものではあったが……
すくなくとも、当時の人々が当時の人々なりに「開明的」であろうとしたのは間違いない。
文明開化の時代は、啓蒙の時代でもあったのだ。
となれば……
居合の技を
「さあお立会い! 手前の取りいだしたるはガマの油。そんじょそこらのガマじゃあないよ。
油売りは寺の門前通りに陣取り、干からびたガマガエルやら、軟膏入りのハマグリやら、派手な
「四六、五六はどこで分かる? 前足の指が4本、あと足の指が6本、これを名付けて四六のガマ!
このガマの油を取るには四方に鏡を立て、下に金網を敷き、中へガマを追い込む。己の姿が鏡にうつるのを見たガマは、おのれっ! と驚き、タラーリタラリと油汗をたらす。それを金網にてすき取り、柳の小枝をもって
大道芸はハッタリの芸だ。ガマの油の神秘性を演出しようと必死なのが
とはいえ、ガマの油なるものの正体は、単に薬草を練り込んだだけの油である。「四六のガマ」なんて妖怪じみた解説もしていたが、そもそもカエルの指は前4本に後6本が普通である。
今どき、こんな古ぼけたオドシ文句を本気にする者など居るはずもない。
それでも油売りにとってはこれが
「さてこれなるは、抜けば玉散る氷の刃……」
ス……
と、音もなく抜いた。
その時。
「!」
足を止めた者がいる。
編笠を深くかぶった、着流しの……江戸時代からそのまま抜け出してきたような、古臭い、侍ふうの男だった。
明治維新からたったの6年。まだ廃刀令も出ていない。昔ながらの二本差しも決して珍しくはないが……
侍が凝視する前で、油売りは刃をひるがえし、芸の見せ場に突入する。
「2枚が4枚、4枚が8枚、8枚が16枚……」
半紙をふたつに折っては切り、折っては切り、しまいには細かな紙吹雪にまでしてしまい、それを、フアッと宙に
こうして刀の切れ味を示しておいて、今度は自分の腕に、スッ……と刃を滑らせた。
油売りの腕に、赤一文字に血が走る。
「だがこんな傷はなんでもない。ガマの油をひとつ付けたるときには、たちどころに傷がふさがり血が止まる」
油売りが傷口に軟膏を塗ると、確かに、傷が消えてしまう。
「そればかりじゃない、お立会い。かほどに切れる
と、再び腕に刀を滑らせる。
が、今度は切れない。傷ひとつ付かない。
「このとおり。たたいて切れない、ひいて切れない。このガマの油がいつもは一貝で10銭だが、今日はおひろめのため小貝を添えて二貝で10銭だ! さあ買った買った……」
と言っても売れない。ひとつも売れない。
みじめな油売りの姿を、しかし、例の侍は、異様な眼光でもって睨み続けていた。
先ほどの芸。
あれは古典的なペテンだ。
あらかじめ刀の刃先だけ切れるように研ぎ、中ほどの刃は潰しておく。
紙を切る時には刃先を使い、腕を切る時には刀の中ほどを使う。これで、ガマの油を塗ったとたんに切れなくなった、と見せかけるわけだ。
ちなみに、最初に腕が切れたように見えたのは、刃を滑らせると同時に指で赤い絵の具を塗ったのである。それを拭き取れば、一瞬で傷が塞がったように見える。
タネを知れば、なあんだそんなことか、というようなものなのだが……
あの侍には、何か、それとは異なるものが見えているようなのだった。
*
夕暮れ時。
ガマの油の在庫をかかえ、背中を丸めて帰路につく油売りに、
「貴公」
と、背中から声をかけた者があった。
油売りは振り返る。後ろには、あの編笠の侍が、たっぷり5歩以上もの間をあけて立っていた。
「はい……何か?」
「貴公、なに
「と、申しますと……」
「剣だ。どこで学んだ」
「いやいや、お恥ずかしい。確かに
「居合の
侍が、半歩、間合いを詰めた。
油売りの笑みが、凍る。
「時に大道芸人に身をやつした、と聞く。
紋付き袴に白ハチマキ白タスキという大げさな衣装で、刀の速抜きやら紙切りやらを芸にして見せる。いわゆる『居合抜き』の
そのほとんどは剣術素人の
なんのためかな?
身を隠すためか。なにか、素性を明かせぬ事情があるわけ、か」
「ご冗談を」
「見たぞ、貴公の抜刀を。
あの速さ。きらめくような鮮やかさ。
ちょっと……
さらに半歩。
侍が寄ったその刹那、油売りが身をひるがえした。
と同時に、油売りの目に暗い火が灯る。ぐ……と僅かに腰を落としたその体勢は、まぎれもなく、抜刀の構え。
侍が足を止めた。
これ以上は進めぬ。
進めば――斬られる。
四六のガマのごとく油汗を額に浮かべ、侍は、無理に口元へ笑みを作った。
「元治慶応の頃……俺は京にいた。
そこで見たような気がする。貴公の構え……その眼光……
思い出すだに震えが来る。
暗殺向きだよ、居合術は。
ふ、ふ……たくさん、たくさん殺したろうな……」
「何が言いたい」
「西郷が薩摩に帰ったそうだ。
近いうちにまたあるかもしれん。
なあ、俺と組まないか。
ともに戦おう。
貴公の技量なら背中を預けるに申し分ない。
好機だと思わんか? 俺達はあんなに戦ったのに、官職にもつけず、爪に火をともす暮らしをしている。時代遅れの油売りなんかして、な。
もう一戦あれば……そこで俺は、今度こそのし上がって……」
「時代遅れだ」
油売りの声は、短く、鋭い。
「つまらぬことだ――」
音が、消えた。
虫の声も、風のうなりも、どこか遠くへ消え失せて、あとにはただ、ふたりの剣士だけが残る。
侍が刀を抜いた。
それが彼という男なのだろう。戦わねばならぬ理由などないはずなのに、戦わずにはいられない。古い時代の悪癖にとらわれて、一歩も前へ進めぬ男……
半歩、来る。
半歩、行く。
静寂の中で、吐息だけが聞こえ――
刹那、
閃!!
白銀の光が走った、と思った時にはもう済んでいた。
互いの脇を駆け抜け、背を向けあったふたり。
油売りの手には、いつのまにか抜き放たれていた刀がある。
侍の体がゆらぎ……
やがて崩れた。
油売りは
「ふ、ふ……」
侍が笑い声を漏らした。まだ息がある。息はあるが……苦悶で途切れ途切れになるその声を聞くに、もう長くはあるまい。
「敵よりあとに抜刀し、それでもなお敵より速い。
これが居合の達者か……
すごいなあ。貴公となら、きっと……天下を……取れる……」
侍は死んだ。
油売りは息を吸う。
まぶたを閉じて、天を仰ぐ。
「つまらぬことだよ、こんなことは」
それっきり死体をかえりみもせずに、油売りはどこかへ消えていった。
その行き先は、誰も知らない。
THE END.
斬れぬ刀で斬る刀 外清内ダク @darkcrowshin
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