弟の話 前

 中学校に入学してから丁度1ヶ月の朝。天気は晴。絶好の校外学習日和だ。最近仲良くなった奴と同じ班になって、行き先も少し遠方の遊園地。密かに楽しみにしていたのに。

「38度2分、はい休み」

「…チッ」

朝起きた時の倦怠感は立ち上がるだけで平衡感覚を失うほど辛いもので、誤魔化して参加するという選択肢を瞬時に消した。

「しっかしお前も運が悪いよな」

「…うるせえ」

弁当を作ってくれた母は仕事に行き、家にいるのは俺と兄の二人きり。体温計を片手に苦笑いで話しかけてくる。

「さっさと大学行けよ」

「今日は2限からなんですぅ。しかも一コマだけ。っはぁー…休みてぇ」

「休むな学費泥棒」

「いやぁー…かわいいかわいい弟が熱出してるからってことにして…」

「俺をダシにするな。俺中学生なの分かってる?」

「ははっ生意気。ていうかほんとに大丈夫?まあ3時間ぐらいで帰ってくるんだけれども」

「大丈夫っつってんだろ…さっさと行けよ」

「わーかったよ。んじゃあここに水とスポドリ置いとくからこまめに飲めよ」

「へーへー」

「んじゃあ行ってくるー。…あっ、腹減ってない?大丈夫?何か食べるもんも…」

「減ってねーし大丈夫だから…!さっさと行けって」

 でも、だってと言ってなかなか家を出ない兄貴を追い出すと、やっと部屋の中が静かになる。あいつの子供扱いはいつになったら無くなるんだろうか。俺はもう中学生だと言うのに。

 しかし、枕元に置かれた水分達はありがたい。布団から出るのも億劫で、もしここに無かったらめんどくさくて取りに行っていないだろうから。ご丁寧に緩められたキャップを開けて、スポーツドリンクを一気に煽る。甘い液体が喉を滑って気持ちがよくて、ほぼ全てを飲み干してしまった。

「ねみぃ…」

久しぶりの風邪に体がついていかないのが分かる。目を開けているだけでしんどくて、自然と瞼が下がって。いつの間にか俺の意識は落ちていた。



「あ゛~…」

 起きてすぐに感じた喉の違和感。声を出すと、チリチリとした痛みと共に、枯れた声が出てくる。寝る前には無かった喉の痛み。唾を飲むだけで痛いし、ひっきりなしに頭の痛みを感じる。

 完全に舐めていた。風邪ってこんなに辛いものだったっけ。さっさと小便に行って、もう一度眠ろう。

「あ゛れ、」

いつものように手をついて体を起こそうとするけれど、なぜか体が持ち上がらない。というか動けない。どうやって力を入れたらいいか、忘れてしまったみたいに。

「っ゛、」

無理やり壁伝いに上体を起こすと、頭がズキリと痛む。息は全力疾走後みたいに上がって、目の前がふわふわと揺れていて。

めんどくさい、諦めて眠りたい、そうは思うけど生理現象が体に纏わりついている。朝から一度も出してないそれは、今か今かと腹の中でうずうずしていて、とても無視できるものではない。

 でも、こんな宙に浮いている感覚の体で歩けない。ベッドから降りるのが怖い。頭から落ちてしまいそう。

 しっこ、出そう。今すぐ出したい。考えてみれば昨日の夜行ったっきりだった。壁にかけてある時計を見ると、12時前を指していて。半日近くの小便が溜まっているってこと。

早く行かないと。マジで漏れそう。はち切れそうなくらいに下腹が痛くて、思わず背中を丸める。1人で行けないのは恥ずかしいけど、誰かに連れてって貰いたい。でも今、兄貴は学校で誰も居ない。

何時に帰ってくるんだろう。何時にはじまって、何時に終わるんだろう。3時間ぐらいで帰ってくると言っていた。時計を見ると、兄貴が家を出てから2時間弱。少なくともあと1時間、我慢しないといけない。そんなの無理、ぜってー漏らす。


:いつ帰ってくんの?


ブルーライトに顔を顰めながら打ったメッセージは、すぐに既読がついた。


:んー講義があと30分ぐらいだから、1時間後ぐらいかな…どうした?


トイレに行きたい、ただそれだけ。でもそんなこと、素直に言ったら絶対笑われる。


:おーい、返事しろー


間抜けなスタンプがいくつか連投された後、電話が鳴る。

「おーい、大丈夫そ?」

「…っ、」

「もしもーし、気分悪い?吐いちゃった?」

「…兄貴、あのさ、」

言いかけて思い出す、兄貴が家を出る前に俺が言ったこと。

中学生なんだから、1人で大丈夫だから。そんな奴が今、吐いたとか、咳が止まらないとかの緊急事態ではなく、おしっこが漏れそう、ただそれだけのことで講義中の大学生を呼び戻そうとしている。

「え、ほんとに大丈夫…?俺帰った方がいい?」

「…ちがうし、腹減っただけだし。」

「ほんとに?もう出席出したから帰れるけど」

「いつ帰ってくるか聞いただけだろ。さっさと授業戻れよ」

「えー、だって眠いんだもん。わかったー、帰ったらすぐお粥作ってやるからなー」


電話を切って後悔する。無理にでも帰ってきてもらったら良かった。移動時間の30分ぐらいならまだ我慢出来たのに。


「っふぅー…っふ、ン、」

座っていると体が勘違いしてしまいそうだから、横になって足をクロスさせる。じっとりと布団の中が熱い。早く、早く。何で無理やり大学に行かせたんだろう。何で、寝る前にトイレに行かなかったんだろう。寝る前に飲んだスポドリが恨めしい。

 1時間、頑張って我慢しなきゃ。我慢して、ちゃんとした場所でしなきゃ。白い便器が頭を掠めて、その度に腰が揺れる。布団に性器を押し付けて、グイグイと出口を圧迫して。

(もう、ムリかも…)

しゅぃ…

「ンひぃ、」

ヤバい、ちょっと出たかも。股の部分が熱い。かきまくった俺の汗よりも少ない量、でも、絶対勘違いじゃない。慌てて布団に押し付けていた性器を握りしめて、揉みしだく。

時計の針はさっきから全然進まない。お腹を何度もさすって、太ももを撫でて。恥ずかしい、そんな感情を抱えられるほど余裕がない。布団を捲ればきっと俺は滑稽に映る。デカい子供が幼稚園児のようにチンコを押さえてモジモジしているのだから。いや、でも幼稚園児は素直にトイレ申告するか。頭の中はおしっこでいっぱいの癖に、中途半端なプライドを振りかざしてしまう俺は、それ以下なのかもしれない。


「っふ、っぁ゛ぁ゛…っはぁ、んん、」

口から熱い息と共に漏れるキモい声は、意識して出しているわけではない。はち切れそうな膀胱が何度も縮んで、何度も何度も下着を汚しているから、それを止めようとしていると、出てしまうだけ。ズボンに入れた両手が濡れているのは、汗なのか、小便なのか。腰を思いっきりそらして尻を後ろに突き出して。

 早くスッキリしたい。もう、無理。このまま力を抜いたらどれだけ楽だろうか。頭も痛いし、眠いし、怠いし、しんどいし。熱があるんだから仕方ないって許してくれないだろうか。このまま出して、しんどすぎて寝ている間にしてしまったと言えば。

 しょうがないよな。元気じゃない時のお漏らしは。

 でも、そう思って力を抜こうとするけれど、できない。ヒクヒクとチンコが限界って言っているのに。長年培われた、おしっこはトイレでするっていう常識がそれを許してくれない。

(出る出る出る出る…も、おしっこ、ここでするぅ、)

本当の本当に限界。

じゅわ…

手のひらが熱くなった瞬間だった。

「ただいまー」

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