第6話

「っひ、ぁ、っ、」

目が覚めたら、運動した後みたいに息が切れて、汗でびっしょりで。凄く嫌な夢を見ていた気がする。息が熱くて、気持ち悪い。

「佐倉…?すっごいうなされてたけど大丈夫?」

上を見上げると、先輩が心配そうな顔でこちらを見ている。

「様子見に来たらすっごい苦しそうだったから起こしちゃった。怖い夢見た?」

「おぼえて、ないです…」

冷却シートが冷たい。貼り替えてくれたのだろうか。

(のど…かわいた…)

口の中はカラカラで変な味がする。枕元の水を取ろうと体を起こしかけた時だった。

ぐじゅ…

汗とは思えない水分量を下半身から感じたのは。

(え、まって、うそ、おれ、)

捲らなくても分かる。股間を中心にじっとりと熱いものが纏わりついていて、その周辺だけの布団が濡れているのだから。

「ん、お水だよね。あ、そうだ、冷蔵庫に…佐倉…?」

「ぁ、の、」

起こしかけた体を戻して布団を引き寄せる。背中がゾっとして、声が詰まる。

「どーしたの?気持ち悪い?頭痛くなっちゃった?」

「せんぱい、おれ、」

ちゃんと言えば、許してくれるだろうか。どうすれば、怒られないだろうか。

「ゆっくりで良いから言ってごらん?」

柔らかいタオルで顔を拭いながら優しく問いかける先輩。大丈夫、絶対あの人みたいに殴ったり、外に放り出されたりしない。分かっているけど、頭の中一面にその時の事が浮かんで、体が固まってしまう。

「とりあえず起きよ。布団の中熱いでしょ」

「ぁっ、」

するりと自分の手元から抜けていく布地。捲られた瞬間、独特の嫌な臭いが鼻を掠める。

「あー、なるほどね」

バレた。心臓がさっきとは比べ物にならないくらいに跳ねている。

「ごめ、なさい」

絞り出した声は掠れすぎて、情けないくらいに弱々しい。

「そんなこの世の終わりみたいな顔しなくても…」

「弁償、します…」

思い出した。あの、高校から帰ってきて耐えきれずに廊下で倒れ込んだ日のこと。

今日みたいに寝ている間に小便をぶちまけてしまって、帰ってきた母親にキレられたこと。

体を踏みつけ転がされ、俺の服で拭かれて、汚いからってベランダに追い出されて、一夜を過ごしたこと。

ああそうか、さっき、あの時の夢を見ていたんだ。

「服もっ、布団もっ、全部、すてて、ください、」

「いや、洗ったら大丈夫だから…」

「弁償する、します、今日も、もう、ねません、汚しません、」

「佐倉、ちょっと落ち着こ?」

 ヒクリと喉が鳴る。

「おれ、やばいですよね、今日、2回も…っ゛、」

だめだ、口に出すと、自分が余計情けなく思えてしまってまた、涙が滲む。

「そういうこともあるよ。それより早く着替えよ、ね?」

しばらく寝たからなのか、体は軽い。自分で歩けるくらいには回復していた。

「一人で出来る?」

「…は、い…」

「んじゃあタオルと着替え。シャワーは…やめてた方が良いんだけど…」

「浴びさせて、ください…」

「…分かった。早く出てくるんだよ?」



 何て謝ればいいか、分からない。火照った体とぼーっとした頭で考えるけれど、一向に答えが出てこない。それでもずっと浴室に居るわけにもいかない。とりあえず、渡してくれた寝巻きに着替えて、外に出る。

「あ、上がった?こっちおいで。熱測ろう」

さっきと何も変わらない、優しい声で、腕を引かれてソファに誘導される。

「どう?ちょっとはマシになった?」

「…はい…」

「んーでもまだちゃんと安静にしてないとダメだよ?」

38.3の文字を示した体温計を見せられて、嗜めるように言われる。

「そうだ。冷たいの、食べる?」

「…つめ、たいの…?」

「ちょーっと待っててね…よしよし冷えてる。はい」

「これ…なに…?」

「りんごの擦りおろし。俺の家の風邪の日の定番。食べる?」

「…っ、おれ、迷惑かけたのに、ダメですよ」

「まーだ言ってる。ねぇ、しんどい時にそんなに気にしてたらもっとしんどくなるよ?」

「なんで、怒んないんですか?」

「…佐倉は俺の立場だったら怒るの?」

 喉が引き攣る。

何で。当たり前みたいな顔して、そんなこと。

「わかんない…し、」

気づいたら涙が溢れていた。悔しさなのか、苛立ちなのか、戸惑いなのか、わかんない。

「こんなの、してもらったこと、ない、お粥も、ねてていいのも、たたかれないのも、」

今まで散々殴られて痛い思いをしてきたのに。その経験から成し遂げたことは、会社で泣いて、漏らして、先輩に迷惑をかけたことだけ。

「おれがっ、おかしいの?」

休むと罪悪感でいっぱいになるのも、怒られないか不安になるのも、俺だけなのかな。

「おれ、わかんないっ、先輩が風邪ひいたとしても、どうすればいいか、わかんないっ、」

ぐちゃぐちゃしたものが胸を掻き回して、嗚咽で呼吸が苦しい。

「そっか、分かんないのかぁ。そっかそっかぁ」

不思議だ。ぽんぽんと背中を叩かれると、引き攣った呼吸が徐々に落ち着いていく。

「休み方、一緒に勉強していこっか」

まるで子供に言い聞かせるみたいに、柔らかい声で。本当に小さい頃に戻ってしまったみたいだ。

「おれ、先輩の弟だったらよかった…」

「…へぇー」

何故か先輩はニヤニヤしてて、急に頭を掻き回される。

「かわいいこと言うじゃん」

「っ、ちが、~、」

「ははっ、顔真っ赤。それでどうする?りんご食べれそう?」

「…いただきます…」

「んじゃ、はい」

「…一人で食べれるんですけど…」

自分で持つべきスプーンは先輩の手の中にあって。何度自分で食べると言っても離してくれない。

「休み方教えるって言ったじゃん。はいあーん」

差し出されたスプーンはきっと引っ込められることはないだろう。

小さなスプーンいっぱいに乗せられたそれを諦めて咥えると、甘いりんごの香りが口いっぱいに広がった。


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