第4話

「ど…しよ…」

全部、やってしまった。頭は真っ白で、何も考えられない。

震える手で手繰り寄せたタオルで床を乱雑に拭いて、痕跡をごまかす。しかし、小さなタオルひとつで誤魔化せるほどの規模ではない。吸いきれなかった水分が不自然にテラテラと光っている。さっきまでは一刻も早く先輩に来てほしかったけど、今はそんな気持ちも薄れ去って、会うのがただただ怖い。スーツの上を脱いでシャツの袖で地面を拭く自分は多分ヤバい。でも、何とかして片さないといけない。焦っていたんだと思う。シャツをタオル代わりにして拭くと、地面の水分は拭き取れた。あとは、ペットボトルの淵を拭いて、キャップを閉める。間に合わなくてそこにした、と言おう。こればっかりは隠しようがない。あとは、あとは…

「佐倉ー、ごめんね遅くなって…開けるよー?」

不意に鳴ったノック。時計を見ると5分を少し過ぎた程度の時間。目の前の光景は酷すぎるまんま。焦ってペットボトルもタオルもシャツも一緒くたに後ろに隠した。

「ごめんごめん、まだ大丈夫そ?」

「ぁ…は、ぃ…」

「上どうしたの?吐いちゃった?」

「い…や…汗、きもちわるくて、」

何言ってんだ俺。口からでまかせで出た言葉が酷すぎる。

「あーそっか。熱かったもんなー、んじゃあトイレ行くか。おぶるから乗れる?」

もともと色濃いズボンのシミには気づかれなかったみたいだ。でも、乗ったら絶対にバレる。それどころか、先輩のシャツまで汚してしまう。

「あ、の…」

「ん?」

さっき頭の中を流れていた言い訳がびっくりするほど出てこない。言葉どころか、喉が固まったみたいになって、声が出ない。

「…、」

隠していたペットボトルを見せる。

「あー、なるほど」

「っ~~、」

恥ずかしい。たったの5分だったのに。もっと早く言えばよかった。先輩、絶対引いてる。

「んじゃあもうトイレはいい?」

「…はぃ…」

「そっかそっか」

絞り出した声はほぼ息で、自分でも聞こえないぐらいか弱い声で。ごめんなさい、と付け足した声が聞こえたのだろうか、ガシガシと頭を撫でてくれて、それがまた居た堪れない。

「んじゃあ帰るか。車だし送るよ。上だけ気持ち悪いだろうけど着てもらって」

「ぁ、えと、いいです、電車で帰ります…」

「いやダメだって、1人で歩けないくせに何言ってんの」

「大丈夫です、寝たら元気になった、」

「な訳ないでしょ」

「でも…」

「何お前。俺の車嫌なの?」

「ちが、」

「っはぁ~…とにかく行くよ。ワイシャツこれ?」

「ぁっ、まって、」

腕を掴んで、でも遅かった。水分をたっぷりと含んだシャツは、もうすでに先輩の手の中だったから。

「めちゃくちゃ濡れてんな。ん?この臭い…」

ぐっしょりと濡れた黄ばんだ布が先輩の手を汚す。バレた、全部。これじゃまるで、隠そうとしている子供じゃん。顔が熱い。今すぐ逃げたい。

「間に合わなかった?」

「…たりなくて、ごめ、なさい、」

するりとズボンを撫でられる。じわりと涙が滲んだ。今日の俺、泣いてばっかだ。

「だから、車、汚す、からっ、い゛い、」

顔が火照って熱い。息がしんどい。涙で頭が痛い。

「車の下にタオル敷けば良いじゃん、ね?それに風邪もっと酷くなるよ?俺の家までなら10分で着くから着替えていきな」

「っ゛、怒らない?」

「怒らない怒らない。ほら乗りな?」

「…ズボン、きたない、」

「洗濯するからいーよ。それに弟ので慣れてるし。7つ離れた弟が居るんだけどさ、あいつも風邪引いたらたまに失敗するの。連れてこうと抱っこした瞬間にじょーって。あん時はびっくりしたわ」

上着を着せられて、背中に乗せてもらって。笑いながら朗らかに話す先輩に安心する。

(怒らないんだ…)

うちの母親だったら絶対に殴られていた。そんで多分、ベッドに戻してもらえない。

「その様子じゃ家帰っても飯とか作るの無理だろ。お粥ぐらいしか作れんけど泊まっていきな」

初めて、こんなに優しくされた。失敗しても怒鳴られないのも、変な感じがする。

「…よしっ!まあタオル敷いてるから大丈夫だろ。寒くない?」

「はい…」

「んじゃあ俺荷物持ってくるわ。寝てて良いからね」

バタンとドアが閉められて1人になった瞬間、眠気が我慢出来なくなって目を閉じてしまう。いつもは電車とかバスとか、どんなところでも外では寝れないのに。今日はネジが全部なくなったみたいだ。

 先輩が隣に座った気配。エンジンがかかった音。ふわりと毛布をかけられたのが最後の記憶。俺はすぅ…と眠りの世界についてしまった。



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