6.ほころび

街路樹の緑を陽射しが透かして、風を受けてはキラキラと光が揺れている。眼鏡のレンズを通して見る世界は不自然なほどくっきりとしていて、平面のハリボテが互い違いに並んでいるようにも見える。裸眼で生活できていたとき、どんなふうに世界が見えていたのかはもう忘れてしまった。眼鏡を外してみる。髪を撫でていた風がまぶたの上をかすめた。川沿いのパーゴラにはベンチがいくつか並んでおり、大上和人はその一つに腰掛けている。


昨日、自宅のリビングのソファに寝転びネットフリックスを見たり、本を開いては閉じたり、ヘッドフォンから音を漏らし音楽を聴いたりしていたが、どれもただ時間を経過させるための手段に過ぎず、その経過する時間も意味をもたないもので、要するになんにもやる気が起きなかった。母親が出かける前に起動していったロボット掃除機がソファの足にぶつかっている。働き者の機械に怠惰さを戒められているような気になり、なんとか重力に逆らって起き上がると、掃き出し窓の外に西日が見えた。

「今日もなんの意味もない日だったな」

つぶやいて立ち上がった瞬間、スマホが鳴った。ソファの隙間で窮屈そうに震えている。拾い上げて画面を見ると、堀部からメッセージがきていた。

『大上さん、いま暇だったりします?』

心臓の鼓動が2段階くらい速くなった気がした。文章は堀部の声で脳内再生される。ちょっと高めの、でも芯が通ったあの声。でもそれは堀部が尋と会話する時のもので、自分と話すときはもっと低い。もう一度メッセージを読む。

『大上さん、いま暇だったりします?』

再生される声によってテンションも変わってくるが、いずれにしても思わぬ連絡に心が躍った。

『ちょうど暇だった! ごはんでも行く?』

返信をすると早足で自室に向かい、ベッドにスマホを投げると部屋着を脱ぎ捨て、チェストから服を取り出し着替える。スマホを掴んで次は洗面所へ。

『はい、今中目のあたりにいるんで、パーゴラのベンチで待ってますね。』

手についたグリースを流していると、メッセージが届いた。水気の残った手で『了解!』と返す。

 マンションを出て裏側に回ると、川の向こう側、パーゴラのベンチに腰掛ける姿が見えた。近づくと人影が立ち上がる。

「早かったですね! あれ?」

茶色がかった髪に、緑のコートの堀部が覗き込むように大上に近づく。

「眼鏡してない、今日はコンタクトですか?」

大上は両手で目を覆った、顔を洗ったときに外したまま洗面所に置かれている眼鏡が目に浮かぶ。急いでいたのか浮かれていたのか、おそらくその両方の理由で眼鏡をかけてくるのを忘れてしまった。眼の前の堀部の顔はぼんやりとしているが、それでも自信をもって堀部だと認識できる。だったら眼鏡はなくても支障はない。自宅に戻る時間が惜しい。

「あ、忘れてきちゃったよ、まあ、それなりに見えるから大丈夫。何食べようか~。そうだ、こないだ新しくできたとこ行ってみない?」


 瓶のまま提供されたカールスバーグを飲みながら、目黒川を見下ろす。テラス席の近くにはヒーターが置かれていて、ブランケットを使わなくても寒くはない。運ばれてきた料理を堀部が取り分ける。

「あれ、堀部くんパクチー嫌い?」

堀部から皿を受け取りつつ大上が訊ねた。

「食べられないことはないですけど、あんま好きじゃないですね、なんか、ティッシュみたいな味、しません?」

「ティッシュ? 堀部くんティッシュ食べたことあんの?」

「いや、食べたことないですけど、なんか安いティッシュみたいな匂い、するんですよね、ケミカルな感じ」

春雨を口に運びながら言う堀部の顔が、屋内の灯りが届かないテラス席ではよく見えない。

「でもタイ料理は好きです。辛いのも好きだし」

多分、今微笑んだ気がする。今から走って自宅に戻り、眼鏡を取ってくるのはさすがにおかしいだろうか。せっかく一緒に過ごしているのに堀部の表情がわからないのはもったいなさすぎる。

「桜、全然咲かないですね」

川の方を向いて堀部が言う。今年は3月に入っても寒い日が続いているからか、一向に桜の咲く気配がない。ただ枝をよく見れば蕾は膨らんでおり、これから一斉に川辺を彩る準備ができているようだ。大上は堀部が桜の花を好いていることを知っている。いつだったか、目黒川の桜を見るのが好きだと言っていた。一方、大上は桜があまり好きではない。咲いたと思ったら狙ったかのように冷たい雨が降り、花弁を散らしてしまうのを見ては悲しい気持ちになっていた幼少期の印象が強く残っているからだ。祭りの後のような寂しさがいつまでもアスファルトに染みつき、そのそばで佇む桜の木が居た堪れなくて、桜の終わった後は目黒川沿いを歩くのが好きではなかった。もちろん堀部に言ったことはない。慈しむように枝を見つめるこの男にいうことではなかった。

「目黒川の桜って、テレビでよく映るんですよね。地元の田舎にいるときも、何度か見たことがあります」

「そうだね、あとは千鳥ヶ淵とか上野公園とか」

「たまに、僕ここにいるのが嘘なんじゃないかって思うことがあるんです」

「ここって、目黒川?」

横顔で伏せがちだった視線が、大上の方に向く。微笑んでいるような、気もする。

「東京です。あー東京にいるんだなあ、って」

口角が上がって、目の下が膨らみ、にこりとしているように見える。

「桜の時期、なんだかんだでちゃんと花見したことなくて。気づいたらすぐ散っちゃうから」

きれいに揃えられた眉毛、左目の下に2つ、ほくろがある。知らなかった。長いまつげが素早くしばたいている。

「……大上さん?」

気付いたら数センチのところまで、二人の視線が近づいている。唇にやわらかい感触をおぼえた。身を乗り出した大上に少しだけ、堀部が近づいたからだ。

「ケミカルな味しますね」

大上は我に返ると椅子の背もたれに勢いよく体を打ちつけた。またぼやけてしまった堀部は、やはり微笑んでいるように見える。

「あ、ほら、見てください」

堀部の指す先、川面にしなだれる枝の先端にピンク色のほころびがあった。しかし大上にはよく見えない。それを察した堀部が言葉を続ける。

「そうだった、今日眼鏡かけてないからよく見えないかもしれないですね。桜の花、一つだけ咲いてますよ、あそこ。眼鏡、かけてくればよかったですね」

よく見えないながら視線を花弁があるであろう付近に向ける。

「……いや、眼鏡かけてこなくてよかったかも」

ビールの1本で酔うわけもないが、大上になにかしらの化学反応が起きているのは明らかだった。

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