5.山手通り

 緑道の桜の蕾がふくらんでいる。明日には花弁がこぼれているかもしれない。その瞬間は誰が目にすることもなく、しかし確実に存在する。近所に高校があっただろうか、制服姿の学生とよくすれ違う。東京は今日が卒業式なのかもしれない。堀部 周平はこの大都市のことをまだよく知らない。地元の卒業式は3月1日だった。東京の高校生を見るとなんだか、気後れする。生まれたときからこの辺りに住んでいるのだろうか。男子学生の集団から少し間をおいて制服姿の男女が手を繋いで歩いてくるのが見える。女子が少し大げさに笑う仕草をしながら、男子の肩のあたりを軽く叩く。通り過ぎた後、なんとなく振り返って見た二人の後ろ姿がやけに印象的だった。三宿でいったん途切れる緑道を外れ、自転車屋に向かう。暖かい陽気に浮かれて、普段は通らない緑道を歩いたことを少し後悔していた。じわりと滲むなにかが心に残る。桜がまだ咲いていなかったのが幸いだ。桜を見るときは、もっと、なんというか、幸せな気持ちで見たいから。こないだ、東京では珍しい雪の日に転んで壊れてしまった自転車を引き取り国道246号に出た。もっとも車道は行き交う自動車が恐ろしいので、歩道を遠慮がちに走る。こういうとき、山手通りは歩道にも自転車が走るスペースがあるからいいと思う。なんとなく自転車を漕ぐ足に力が入って、自宅を通り過ぎると大阪橋の下をくぐり山手通りに出た。山手通りを行けば、中目黒に着く。体の動くに任せていたペダルを一度止めて、目黒橋の上でスマホを取り出す。

『大上さん、いま暇だったりします?』

メッセージを送ってスマホをしまうと目黒川に目をやる。まだ桜は咲いていない。中の橋の赤色がピンクに囲まれる風景を想像して、少しの嬉しさと不安をおぼえる。去年の今頃、周平は遊佐 尋とあの橋を渡った。そのときも桜は咲いておらず、ただ丸裸の枝が寒々しく風に耐えているようで、曇天の夜空の下、いっそう寒さが身にしみたのを思い出す。周平は尋のことが好きだ。サークルの飲み会で中目黒に行ったとき、先輩が呼んだOBOG達の中に尋がいた。もっとも尋は大学を中退したので正確にはOBではないのかもしれない。同級生だった山下 エティエンヌに連れてこられて、あからさまに居心地悪そうにしていた。二人が現れたときの、女子の色めき立つ空気といったらすごかった。人知れずその空気の一部になっていた周平は、離れた席に座った尋の、少し緊張したような顔、同じテーブルのOBOGと話すとき、少しほころんだ表情、離席して出た店の外、窓から見える喫煙所でタバコを口につけ、スマホを見る横顔から、視線を外すことができなかった。宴の後、駅の近くで少し名残惜しそうにする集団の中からふらりと抜け、山手通りを一人歩き出した尋に思い切って話しかけると、思いの外やわらかい雰囲気で返事をしてくれた。背後から聞こえる、オールするメンバーの呼びかけを無視して、目的地もわからず歩幅を合わせる。

「あれ、堀部ってお前? 呼ばれてるけど」

ちらりと振り返り、そのあと周平の目をまっすぐ見る。ヘーゼルナッツのような瞳の色に見とれていると、もう一度

「堀部?」

と訊かれた。

「あ、はい、僕です堀部。大丈夫です僕はもう飲めないんで」

そう言って声のした方に手を振る。もうすでに集団はどこかへ向かって歩き始めているようだった。

「もう飲めないのかー、俺は一杯行こうかなと思ってたんだけど」

山手通りから路地に入ると、ビル風に背中を押される。

「いや、あの、一杯くらいなら飲めると思うので、よかったらご一緒させてください」

尋は横目で周平を見ると、息が漏れるように笑った。

「お前、酔っ払ってる?」

実際、酔っているか酔っていないかといえば、周平はそれなりに酔っていた。それでも足元がおぼつかないほどではなかったし、ただほんの少し、思い切った行動を抑制する脳のどこかが、鈍くなっていたかもしれない。

「酔っ払ってないです、ぜんぜん」

そう言い切った瞬間、後ろからきた自動車にクラクションを鳴らされる。目黒川沿いの道は路側帯も狭く、歩きづらい。

「おー、気をつけろよ」

車道側を歩いていた周平の肩を抱くと、歩道側に寄せた。

「すいません……。あの、僕、堀部といいます」

「うん、知ってるよ。さっき知った」

「あの、先輩はお住まいこの辺なんですか?」

「うーん、まあ、いろいろ」

目黒川の流れとは逆方向に歩き、やがて赤く塗られた橋が見えてくる。自動車の往来を確認し反対側にかかる橋を渡る。

「この橋、よくドラマとかに出てきますよね」

「そうなの? なんのドラマ?」

「僕、すごく好きなドラマがあって、それに出てきてて、それで、まだ地元にいたとき、まだ中学生のときだったんですけど、それを憶えてて、上京してきて実際見てうわーってなりました」

尋は興奮気味に話す周平を優しく見下ろすように眺めて、

「地元、東京じゃないんだ? 俺も」

と言った。


 スマホが震える。

『ちょうど暇だった! ごはんでも行く?』

周平は返信して、ペダルを踏みこみ山手通りを南に進む。翳り始めた太陽の方向に視線を向けると、今、尋がどこで何をしているのかが無性に気になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る