4.山下 エティエンヌ
夕暮れの国道246号、ノイズキャンセリングイヤホンで喧騒から逃れても、鼻をつく排気ガスは防ぐことができない。喉に違和感を覚えながら足早に三宿交差点を曲がると、下校途中の小学生の群れに遭遇した。歩道いっぱいに広がって、にぎやかにお喋りする集団のわきをすり抜けようとすると、通行人に気づいた小学生の一人が「ほら! 人通るよ!」そう言って周囲の児童を避けさせる。
「ありがとう」
ほんの少し口元に笑みをたたえながら通り過ぎる。背後から「あの人すごいかっこよかったね!」と興奮気味の声に、「たぶんあれはモデルだよ」と利いた風な返しが続き、「なんかいい匂いした、ケーキ屋さんかな」と聞こえた。山下 エティエンヌは実際、容姿に恵まれている。手足の長い180㎝越えの身長に鼻筋の通った端正な顔立ち、肩まで伸びた髪も普段はマンバンにしており、よく似合っていた。本人も自分の美しさに自覚がある。三宿交番前の横断歩道を渡り、ジョギングする人たち数人とすれ違いながら歩いていると、花屋の隣に香水の店ができていた。このあたりは駅からも遠く、近所の住民くらいしか行き来していないにもかかわらず、小洒落た店がちらほら姿を現す。もっともその多くがほどなく消える。一方、定期的に閉店セールの幕を垂らしている洋品店はずっとそこにある。よそから来た者が安住するのはたやすくない。世田谷公園の入り口には手入れされた花壇に黄色や橙色、青色の花が咲いていて、側を通ると、春を感じる潤った空気に混じって爽やかな植物の香りがした。
「おつかれ」
広場の中央に据えられた噴水を囲むようにベンチが並んでいる、その一つに座っていた遊佐 尋がエティエンヌの呼びかけに気づいて手を挙げる。
「今日はすごくいい天気だね。僕は洗濯物を干してきたよ」
にこやかに空を指さしながらエティエンヌが言うと、
「Trop tard, ça sèche pas.」
琥珀色に照らされた雲を見上げながら尋が返す。エティエンヌは返事をせず、ただ小さく笑って隣に腰を下ろした。
「来るの思ったより早かったな」
「早歩きしてきた。排気ガスくさいから」
両手を広げて目を閉じ、深呼吸をする。
「ここは空気がきれい、花の匂いがしていいね」
「そんなに変わるか? 公園出たらすぐそこ道路だろ」
「変わるよ。公園の植物が空気をきれいにしてくれるからね。道路のそばは車の排気でNOxとかが多くて、それが健康に悪いんだ。でも公園は、樹木がその汚れを吸い取って、きれいな空気を提供してくれる。あの、あれ、Comme un purificateur d'air.」」
「へー、空気清浄機の中にいる感じか」
「そうそう」
頷きながら、エティエンヌの目が売店の幟をとらえた。
「あ、ソフトクリーム。食べようかな」
誰に言うわけでもなくつぶやくと、軽やかに駆けていく。ベンチに浅く腰掛けたままの尋の瞳に、売店をのぞき込んで、何やら会話をして、とぼとぼと戻ってくるエティエンヌの姿が映る。
「16時半で閉店なんだって。残念」
スマホを見ると、10分ほど過ぎている。店員らしき人物が幟を片付けながら、申し訳なさそうにこちらを見て会釈した。気づいていないエティエンヌの代わりに、尋が頭を下げる。
「今から仕事だし、どうせゆっくり食べる暇ないだろ。そろそろ時間だ」
揃って公園内を下馬方面に歩き始める。国道沿いの歩道では溶け切っていた雪が、公園内ではまだ残っていた。昨日東京では5年ぶりの大雪警報が発表されたが、大方の予想通り建物の屋根がうっすら白くなる程度で、凍結した路面で転倒する事故が都内で数件、起きるにとどまった。みぞれ状になった雪を踏むと靴の周りに湿った冷気がまとわりつく。ジャリジャリと靴の底から雪の鳴き声が響くのを楽しむように、エティエンヌはみぞれの上を踏み進む。
「転ぶぞー」
背中にかけられた声には返事をせずペンギンのようにペタペタと歩いていたが、やがて前方から同じ挙動で歩いてきた幼児と対峙すると、ひょいと横にジャンプして道を譲った。優しげな笑顔を向けると、幼児のみならず、その母親からも笑みがこぼれる。
「あ、尋、待ってよ」
いつの間にか置いて行かれていたことに気づくと、母子に手を振りながら小走りで追いつく。公園を抜けると店舗もまばらになり、住宅が立ち並ぶ。手入れされた庭の戸建ての間を進み、低層のマンションにたどり着いた。三回のオートロックを通過し、指定された階にのみ停止するエレベーターを降りると、内廊下を進む。エティエンヌはふと立ち止まると、周囲を見回す。ケミカルな方法で手入れされた絨毯の匂いが気になった。子供のころ、区民センターだったか区役所だったか、無機質な建物のベンチに座っていたのを思い出す。あるいは空港だったかもしれない。
「どうしたー」
「なんだか、空港の匂いしない?」
「俺空港行ったことないからわからん」
「そっか」
目的地に到着すると、おもむろにドアノブに手をかけようとするエティエンヌを制止し、尋がインターホンを押した。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「どっか具合でも悪いのか?」
ドアのロックが開く音がして、二人は中に招き入れられた。
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