3.大上 和人

 大上 和人には、好きな男がいる。やわらかそうな髪は光に当たるといっそうしなやかさを増し、茶髪なんて表現では言い表せない品の良さ、それは琥珀色とでも形容した方がしっくりくる。その美しい髪の毛をバッサリと切った姿を見たときは息を吞んだ。先月のことだ。まだ雪がちらつく季節の只中、西郷山公園のベンチに一人、肩をすくめて佇んでいるのを見て、思わず声をかけてしまった。

「堀部くん?」

西の方角をまっすぐ見つめていた瞳が、ゆっくりと視線を移して大上の姿をとらえる。長いまつげが、濡れているような気がした。

「やっぱり堀部くんだ~、どうしたの? こんなところで」

声をかけるまで確信がなかったかのような言い回しだが、公園の入り口、ランチをテイクアウトしようとカフェに入ろうとした瞬間、かけている眼鏡のレンズから外れた視界の端に歩く姿を認めたときには、踵を返していた。それほど大上は堀部のことが気になっている。気になっているというより、できれば自分の日常に、いつも存在していてほしいと思っており、街を歩いていても、堀部とバッタリ会えたらいいのに、と夢想するくらいだ。その堀部が、公園のベンチに腰を下ろしたのを見て、衝動的に駆け寄った。

「大上さん……、奇遇ですね」

驚くそぶりも見せずぼそりとつぶやいて、また視線は西の方を向く。曇天の公園で他にベンチに座る人はなく、散歩する犬も足早に通り過ぎる。大上は手のひらでベンチを軽く払ってから、堀部の隣に座った。体が勝手にぶるっと震えて、体温が奪われていくのを感じる。堀部と同じ方角に視線を向ける。木枯らしを受けて少し隙間ができたようだが、生い茂った木々に阻まれて眺望はほぼない。

「てか、なんも見えなくない? あ、でもちょっとドンキ見えるな」

座ったまま背筋を伸ばしてみるが、景色は変わらないし、堀部の返事もない。それでも隣に座っていることを拒まれてはいない。大上は生まれつき楽観的で、ポジティブな思考の持ち主だ。ほんの少しの間に、だいぶ体が冷えた。堀部は寒くないのだろうか、長かった髪もこんなに短くなったのに。

「大上さん、何してたんですか」

視線を合わすわけでもなく、明らかに無関心の塊のような声のトーンだったが、堀部が口を開いた。それが大上にとってはかなり、うれしかった。

「俺? 散歩してて、ちょっと腹減ったから昼飯買おうかなって思って」

後方にあるカフェに顔を向ける。そのしぐさを追うように、堀部も振り返った。頬に短い毛がついている。

「ほっぺた、髪の毛ついてる」

大上はつい手を伸ばしてしまった。脳の指示より身体が先に動いたこの数秒間が、その何倍にも長く感じられた。親指と人差し指が頬に触れるとき、まずい、さすがにこれは嫌がられる、と思ったが、堀部はじっと動かず指先を目で追っている。やわらかい、琥珀色が透けていた。

「あ、すいません……。さっき髪切ってきたから、ちゃんと払えてなかったのかも」

手首をピーコートの袖にひっこめると、自分の顔をゴシゴシと拭った。その様子を眺めながら、大上は指先の感触を反芻する。さすがに冷えてきた。大上は今すぐにでもどこか、あたたかいところに避難したかったが、堀部と二人きりで居られる時間の対価が風邪をひくことくらいなら安いものだ、そう思って耐えている。湿り気のある雪がダウンジャケットに染みを作っても、ただ、堀部とベンチに座っていたかった。

「眼鏡、雪ついてますよ」

「うん」

「寒くないんですか?」

「うーん」

「寒そうですね」

ゆっくりと立ち上がって、堀部はコートに付いた雪を振り落とす。

「帰りますか」

堀部の問いかけに名残惜しさを感じながら、大上も腰を上げた。

「堀部くんは、寒くないの?」

シャツにセーターと着こんでいるとはいえ、コートの前を開けたままの堀部は一見だいぶ寒そうな恰好に見える。

「結構歩いたんで、なんか暑くなっちゃって」

「でも池尻からここってそんなに遠くなくない?」

堀部の自宅がある池尻は大上が公園に入ってきた入り口とは逆方向で、二人は青葉台の方へ降りる階段に向かって並んで歩く。「グ~ゥ」と腹が鳴ってランチをテイクアウトしようとしていたことを思い出したが、ここで引き返すくらいなら、家の近くのコンビニにでも寄ればいい。

「おなか減ってるんですか?」

階段を下りながら、堀部が訊ねる。

「あ、聞こえた?」

音もなく降り続く雪の住宅地では、腹の音もごまかせない。

「昼ごはん、買わなくてよかったんですか」

少しだけ、堀部がにやけているようにも見えた。

「あー、忘れてたわ、まあ、でもいいや、帰るまでに何かあるだろうし」

そう言いながら自分のあご髭を触る。この天気では目黒川沿いも人通りはまばらだ。足早に歩く様子を見るに、地元の住人だろう。二人は山手通りに突き当たるまで並んで歩いたが、そこからは左右に分かれるしかない。そう思うと大上は口数も減ってきて、沈黙が続いていた。誰かと一緒に電車に乗っているとき、相手が降りる駅に近づくタイミングで会話を切り上げる、あの感覚に似ていた。気が利かないやつにはなりたくないのだ。今日は偶然にも堀部に遭遇して、少しの間二人きりで、それも公園のベンチで過ごした。その僥倖を得られただけで十分すぎる。

「……なんか、食べます?」

よほど大上が名残惜しそうに見えたのか、堀部から口を開いた。思わぬことに飛び跳ねそうになったが心を落ち着かせ、しかし嬉しさを態度に表すことはおこたらぬように、返事をする。

「おう、いいよ! 何食べよっか」

流れるように二人は突き当たりを左に曲がる。終電の山手線であてもなく、一緒に降りる高揚感に似た何かを大上は感じていた。

「僕、中目黒あまり知らないんですけど、どっか知ってます?」

大上の実家の住所は目黒区上目黒で、そんなに高い建物がない周辺でひときわ目立つランドマークのマンション、その一室だ。父親は元広告代理店の人間で、母親の父親、すなわち大上の祖父が経営する企業広報を専門にする会社で勤務している。母親も同じ会社でライターとして働いており、要するに実家が太い。

「そうだなー、ちょっとだけ歩くけど祐天寺の方においしいポルトガル料理の店あるんだけど、そことかどう?」

同じ歩幅で歩いていた堀部が少し、スピードを落とす。

「あれ? ポルトガル料理、好きじゃない?」

「いや……、そんなことないです。てかポルトガル料理とか食べたことないんで、行ってみたいです。行きましょう!」

気取ったやつだと思われたかもしれない、大上はそう思った。本当はサイゼに行きたかったのだが、ちょっとかっこつけてしまったことを悔やむ。堀部には失望されたくないのだ。実際その店のポルトガル料理はおいしいし、おすすめなのだけど、大学生がランチに行くには少し値が張る。堀部の経済状況についてはよくわからない。

「よし、じゃあ、そこ行ってみようか。空いてるといいけどなあ」

大上は噛みしめるように幸せを感じていた。噛んで噛んで噛みしだくほどに。それほど好きな男が、大上と並んで歩いているのだ。

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