2.遊佐 尋

 夜風が体をすり抜けるようだった。寒さもようやく和らいだ季節の宵の口、遊佐 尋は自転車を押す堀部 周平と並んで歩いている。車輪のカラカラという音が聞こえるくらいには沈黙が続いていた。口を開いたとしても数分おきに頭上を通り過ぎる東横線の音で会話が途切れる。中目黒駅に近づくにつれて、高架下が賑わってきた。

「あ、あそこのおでん屋、こないだ雑誌の特集に載ってました」

視線の先を追うと、洒落たおでん屋が若い客でごった返している。

「へー……、うまいのかな」

なんとなく、漂う出汁の香りを感じたが気のせいかもしれない。路地に窮屈そうに納まる家の灯り、あの家の夕餉の匂いの可能性もある。少しの間、暖かそうなオレンジ色の漏れる窓を見つめていた自分に気づく。

「どうなんですかね、入ってみます?」

客層を見ると男女がカウンターにも、テーブル席にも規則正しく並んでいて、自分の場所じゃないように思えた。

「……いや、いいや。サイゼ行こ」

「オッケーです!」

高架下沿いの細い道を抜けて山手通りに出ると、ちょうど信号が青になったところだった。横断歩道の両側に居た人の群れが一斉に動き出す。交通量の多い道路では信号もせっかちだ。行き交う人の間を縫って反対側に渡り終えると、クラクションの音が聞こえた。振り向くと堀部が何度も車に頭を下げながらこちらに近づいてくる。

「すみません、まだ人多いの慣れなくて」

照れたような笑顔が少しだけひきつっている。耳が赤い。うっすら額に汗をかいているようにも見える。

「東京出てきて、もう1年経つのになあ」

何か声をかけたいと思ったのだが、通り過ぎる電車の音が数秒続くうちにタイミングを逃してしまった。どんな表情をしているんだろうと思い視線を向けると、口元をぎゅっとしめて、目元には優し気な笑みが浮かんでいる。まつげが長いな、と思った。

「ちょっと駐輪場に停めてくるんで、先に入っててもらっていいですか?」

駆け足でビルの裏に消えていく背中からなんとなく目が離せず、エスカレーターが2階に到着したとき、つまずいてこけそうになった。


「お待たせしました」

メニューから顔を上げると、堀部の隣にもう一人、あご髭の男が立っている。

「尋さーん、めちゃくちゃ真剣な顔で間違い探ししてるじゃないですか」

ボックス席の対面、向かって左に男は座った。席につくなりスマホで注文を済ませる。

「さっき目黒川沿い歩いてたら、堀部くんにばったり会って」

身を乗り出すようにして、尋が見ていたキッズメニューをのぞき込む。さっそくいくつかの間違いを指さすが、すでに尋も見つけていたものだ。

「自転車停めて出てきたら、大上さんにいきなり後ろから羽交い絞めにされて、びっくりしました」

困ったような笑顔で話しながら、お冷の入ったグラスを3つテーブルに置くと、向かって右側に堀部が座った。

「お前らって、学年違うんだっけ?」

メニューに書かれた料理の番号をスマホに打ち込みながら訊ねる。

「俺が3年、堀部くんは2年です。でも歳は一緒なんで、敬語も使わなくていいって言ってるんですけど」

大上は抱き寄せるように堀部の肩に腕をまわす。

「まあ、一応、サークルの同級生はみんな大上さんに敬語使ってるし、僕だけ使わないのも変なんで……」

両手で大上の左手を掴み丁寧に払いのけ、スマホで自分のドリアを注文すると、堀部が思い出したように自分のリュックを開けた。

「大上さん、お菓子いりません?」

ファスナーを大きく開いて、大上のほうに向ける。

「え? いいの?」

「もちろん。僕これ全部食べると百貫デブになっちゃうんで」

「えー、んじゃもらうわ。てか百貫デブって何」

大容量のチョコレートや缶入りクッキーを取り出すと、自分のバッグに詰めていく。

「あ、でも尋さんの分は?」

二人のやり取りを黙って見ていた尋に視線が向けられる。

「俺はもう、もらったから」

食糧ではちきれそうになっている自分のリュックをポンポンと叩く。

「あ、そうだったんですね。なんだ俺へのプレゼントかと思ったのに」

ハハハと笑う声にどうリアクションするか、尋が面倒そうな表情を見せたそのタイミングでちょうど料理が運ばれてきた。

「あれ先輩、ワイン頼んだんですね」

赤ワインの入ったグラスを手に取ると、尋は一気に飲み干す。

「うん、消毒」

ガシャン! と音が鳴って店内の視線が隣の席に向かう。

「ごめんなさーい」

女性四人組の一人がデカンタを倒してしまったようで、テーブルの上に白ワインが広がっている。申し訳なさそうに誰に向けてでもなく謝っていた。

「びっくりした……、すみません先輩、今なんか言いかけてました?」

「いーや、なんも言ってないよ」

「尋さんって酒飲むんでしたっけ?」

不思議そうな顔でトマトスパゲティをクルクルと巻き、口に運ぶ。

「飲むよ、たまには」

「だったら俺も飲もっかな。え! ワインやっす!」

メニューを広げながら大げさにアピールすると、スマホを手に取る。

「あ、堀部くんも飲むよな?」

「僕は自転車だからやめときます」

「そっか、そうだな……、まあ、んじゃ……、俺もやめとこかな」

少し乱暴にスマホを置くと、またスパゲティを巻く。

「ところで、尋さんって今何してるんですか? 大学辞めて」

「髭」

「ひげ?」

「お前、髭、ついてる。ソース」

尋に指摘されて手を当てると、指に赤いソースがついた。紙ナプキンを数枚つかむとガシガシと顎を拭う。

「とれました?」

「うん、とれた」

「つかなんで原始人みたいな喋り方なんですか」

汚れた紙ナプキンをテーブルに置くと、その側に赤ワインが置かれた。それもマグナムボトルで。

「あれ? 俺さっき頼むのやめたはずなんだけど、あれ? おかしいな? しかもなんでマグナム?」

首を傾げる大上を横目に、堀部が自分のスマホで履歴確認すると、確かに注文されていた。店側の間違いではない。

「えー、俺こんなに飲めないよ。堀部くんも飲んでよ」

グラスも、ちゃんと3つ運ばれてきている。

「でも自転車あるし、飲酒運転になっちゃいますから」

「自転車、俺んちに置いとけば? なんならうちに泊まってもいいし」

大上が差し出したグラスを、横から尋が奪う。

「無理に飲まなくていーよ」

「んじゃあ、尋さん、一緒に飲んでくださいよ」

そう言いながら尋が掴んだグラスに並々とワインを注ぐ。

「こぼれるだろ、加減しろよ」

慎重に口元に運んで、ゴクゴクと喉を鳴らし飲み干すと、ドリアを食べている堀部が少し、心配そうな表情をしているのに気づいた。

「先輩、なんでまた一気なんですか。酔っぱらっちゃいますよ」

グラスを置いて、紙ナプキンで口元を拭いながら尋が答える。

「なんでって、酔っぱらうために飲んでるからだよ」

尋の首元、白い肌が少し薄紅色になっている。

「桜……」

ぽつりとつぶやくと、堀部は尋の目を見て

「桜みたいな色になってます、先輩」

と続けた。目黒川にはまだ、春は来ていない。

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