東京の、夜の空気をめいっぱい吸って

teran

1.堀部 周平

駅のロータリーをぐるっと回り込んで駅舎の正面の道に滑り込むように入る。自転車に乗るには少し薄着過ぎたかもしれない。冷えた空気が肺に入る前、近くの寺で焚かれている線香の匂いがした。この寺が見えてきたらもうすぐ目的地に到着する目印だ。家を出たときにはまだ青空に少し夕焼けが混じり始めたくらいだったのに、ずいぶん暗くなってしまった。路地の角のパン屋では、外のベンチでカップルがコーヒーを飲みながら犬をなでている。(犬、いいなあ。できれば大きな犬を飼いたい)と堀部 周平は思っていた。とはいえ今住んでいる1Kの部屋はペット飼育禁止だし、学生の身分ではペット可物件なんてとても住めない。本当はもっと郊外に住むのが分相応だとわかっていたので、大学まで乗換なしの一本という意味では、いっそのこと市が尾あたりに住んでもいいかなと思っていた。周平には特に仲がいい友達もいなかったし、渋谷や新宿に頻繁に遊びに行くわけでもないから、郊外で多少広くて新しい部屋の方がコスパはいい。でもそうはしなかった。それに、池尻大橋から祐天寺までは自転車で十五分もあれば着く。本当は祐天寺に引っ越してきたいくらいだったが、それはさすがに気味悪がられるかもしれないと思った。それにこの自転車での道程で少しずつ昂ぶる気持ちを感じるのも好きだった。

「あ、尋先輩だ」

周平は自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。古いマンションの四階、ところどころ塗装が剥がれ、錆びが目立つベランダの手すりに寄りかかってタバコを吸っている男がいる。こちらに気づいているのかいないのか、けれど声をかけるには遠すぎる距離で、しばらく視線を逸らさずにいると、フーっと煙を吐いた後、手すりに肘をつく左手をゆらゆらと振った。周平はうれしくなってハンドルから両手を離しそうになったが、軽く会釈するにとどめた。それが遊佐 尋に見えたかどうかはわからない。

コンクリートのひびから雑草が伸びている駐輪場に自転車を駐めて、エレベーターのないマンションの外階段を上がっていると、西の空に紺と橙のグラデーションが見える。沈む前の鋭い光が眩しい。もうすぐ完全に日が落ちてしまう。ドアノブに手をかけようとして、慌てて呼び鈴を押す。少し間をおいてガタンと開く音が鳴るとドアが外側に開いた。ドアから吸い込まれた風が、尋の指先のタバコの煙を部屋の奥へ流していく。掃き出し窓は全開で、カーテンがベランダ側にたなびいた。

「お邪魔します」

「どーぞ」

キッチン兼廊下を通り抜けて居間に入ると、タバコとシャンプー、それに少し湿ったような匂いがした。周平は二泊の旅行に行くときのようにパンパンになったリュックを下ろし、一息つく。思ったよりも呼吸が乱れている。階段を二段飛ばしにしたからかもしれない。リュックの脇に差し込んでいたペットボトルのお茶を一口飲んでからファスナーを開き、米、レトルト食品、お菓子などを取り出した。

「え、そんなに? お前の分あんの?」

ベランダの手すりにもたれて西日に照らされた尋の顔は、無精ヒゲの生えた彫りの深い顔の陰影が強調されて、耳の下まで伸びる濡れた黒髪がキラキラと光っている。

「全然ありますよ、毎回すごい量送ってくるから食べきれないんで」

「そーなんだ、いい親御さんだな」

薄暗い部屋は隅に置かれている間接照明だけが灯っていて、ローテーブルに整然と並べられた食料品がぼんやりと影をつくる。ベランダからくしゃみが聴こえたと思うと、尋が後ろ手に掃出し窓を閉めながら部屋の中に入ってきた。フローリングに座り込んだ周平の横を通り過ぎると、ベッドに無造作に置かれたバスタオルを頭にかぶる。

「髪、乾かさないと風邪ひくんじゃないですか?」

心配そうに見上げる周平を見つめ返しながら、尋はガシガシとタオルで髪を揉み込む。

「ここのドライヤー壊れてるから」

黒いフェイクレザーのソファにバスタオルを投げると、尋は素肌の上にTシャツを着て、その上に黒い厚手のパーカーを頭からかぶった。壁際に置かれた自分のリュックを開けると食料品を放り込んでいく。いつの間にか体操座りになっていた周平はその様子をじっと見つめながら、今日こそは言おうと決めていた言葉を胸の中で反芻していた。

「あー、全部は入んないなこれ……」

レトルト食品と2キロの米袋でスペースが埋まったリュックを見つめながら尋がつぶやく。

「せっかく持ってきてもらったのに悪いんだけど、お菓子は持って帰ってもらっていい?」

周平は間接照明を眺めたまま、返事をしない。

「堀部? 聞いてる?」

尋が手を離したリュックが、ゆっくりと倒れて間接照明に被さると、部屋が一気に暗くなり、かすかに入る西日が周平の横顔を照らした。やわらかそうな髪は短く切り揃えられていて、褐色の肌に長いまつげが影を落としていた。

「あの……、先輩……」

ゴクリと喉が鳴った。喉仏の下まで出かかっている言葉が出てこない。なけなしの金をさっき、コンビニのATMで下ろしてきたのに。

「何? なんでそんな怖い顔してんの」

髪をかきあげると、断りもなく周平のリュックを開けて、お菓子を次々に詰め込んでいく。その間も様子を伺うように見ていたが、視線の先の後輩はまるで石像のように硬直したままだ。

「飯、行く?」

ギュッと閉まったファスナーの音にふと我に返った周平は、

「あ、はい、行きます」

と答えた。もしかしたらあり得たかもしれないことが期待外れになった虚しさと、この部屋の外でも普通に時間を過ごせる自分の立場への高揚した気持ちが混ざり合って頭の中はぐちゃぐちゃだったが、右肩にリュックを背負って玄関に向かう尋の背中を追いかけることが、今噛み締められる最高の幸せだと思った。

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