第9話
……名前? そこで、初めて彼の名前を知らないことに気がついた。
何故なら、ずっとクローバーの君で通していたのだ。呼ぶときも手紙の宛先もクローバーの君で……出すのはいつもお母様に任せていた。
そして、大流行した病でお母様が亡くなった後、お父様に手紙をお願い用としたけれど、母を亡くしたお父様のうちひしがれた姿に頼みそびれてしまった。
そして、一年が過ぎた頃だろうか、彼も流行り病で両親ともども亡くなったとお父様から聞かされたのは。
「名前は……」
今更ながらどうしようもなかった。
「名前は? 婚約したのだから名前ぐらいは言えるだろう? それともそれもまた嘘なのか?」
大公閣下は冷たい声で続けた。
その言葉に私もいい加減やけになって、
「私は嘘なんて言っていません! 彼の名前は、本当に知らなくて……」
その言葉に彼は少々呆れたように返してきた。
「名前も知らない相手などいるのか?」
「クローバーの君と……そう呼んでいたの。だから……」
そう言って恥ずかしくて顔を伏せた。
確かに小さかったこともあるけれどそれはあまりにも幼稚な話だた。
彼が何か皮肉なことをいうだろうと思っていたが、それはいつまでたっても返されることが無く、沈黙したままだった。
勇気を振り絞って私は彼を見上げるようにして指輪を取り返そうとした。
「返して!」
呆然としていた様子の彼はその声に我に返ったようだった。
「……今度こそ悪い嘘だ」
彼の凍てついたグレイの瞳は憎しみと悲しみに満たされていた。
そう言うと縋りついていた私を振り払うかのようにした。
その反動でよろめいた私はせめてもの抵抗をと無茶苦茶に手を振りまわした。
それを避けようと彼もしたところ、私の振り回した指先が彼の首元をかすめた。
それはほんの偶然だった。しかし、それは私の指先に引っかかった。
ちゃりと金属音がして金鎖のものが彼の服の下から引き出された。
その先のものが眼前にぶら下がっていた。それを見て私は動きを止めた。
「……まさか!? どうしてあなたがこれを?」
「もう、忘れたのか……。君が私にくれたのに」
「だって、これは……」
私は食い入るように自分と同じように金鎖に通されている指輪と彼の顔を見つめた。
あの思い出の少年の面影を探そうとして。
しかし、まだ、幼さの残っていた淡い金髪とエメラルドの瞳の少年と眼前の冴え凍るような銀髪とグレイ瞳の厳しい顔の青年では共通なものを探す方が難しかった。
「嘘よ。……死んだはずよ。彼は!」
私はそう叫んで、大公閣下に迫った。
彼の方の指輪を掴んで確かめた。
確かにそれは昔クローバーの君に渡したものだった。
指輪を離すと今度は彼の顔を両手で挟むとまじまじと見入った。
いつも優しげに笑っていた彼とは何もかも変わっていた。面影も探せない。
彼は眉根をよせたまま私を冷たいグレイのま眼差しで射抜いた。
「私が、死んだと?」
「お父様が……、いつもはお母様が手紙を出してくれていたから、そして、お母様が亡くなって、お父様にクローバーの君に手紙を出していただこうとしたら、そう、おっしゃったわ。だから……」
「それは、いつのことだ?」
「……たしか、お母様が亡くなって一年くらいだったかしら、あの流行病で……」
あの時、お父様の嘆きようも大変だった。
慰めるのもなかなか大変だったので覚えている。
だから、クローバーの君に励ましてもらおうと手紙を出そうとしたのだ。
大公閣下は私の言葉に押し黙ったままだった。
「一体、どうして?!」
悲鳴に近い声とともに思わず瞳から次々に透明な滴が流れ落ちた。
指輪は少しも変わらない。
だけど、髪の色や瞳の色が変わるほどの何かが彼にあったのだ。
そして、彼はここを離れて父を助けてくれる前に旅立つ時に家族はもういないと言ったその意味は……。
初めから彼が自分に向けていた憎悪と悲しみの瞳の意味は……。
今まで抵抗していたけれど思わず彼を抱きしめていた。
「……確かに、あの流行病で、私も両親を亡くした。そして、自分もそれで生死の境を彷徨った」
彼を間近で見上げた。
彼は私を見るのではなくどこか遠くを見据えたように話を続けた。
「一時は、私も、医者に死んだものと判断された。あの時は最悪の流行で、多くの死者が出ていた。実際に両親も亡くなってしまったし、噂が錯綜していたようだった。あの時の病を経て私も瞳も髪の色も変わってしまった」
「それでも、お父様が間違いに気づかないはずがないわ。どうして……」
きっとそのまま自分に教えなかったのだ。それは、彼のせいではない。でも、自分も彼の名さえきちんと確認していたら、どうにかして確かめることもできたであろう。
「……生き延びて病床から起き上がっても暫く手足に力も入らず、やっと君に手紙を書いたら君の父上からはもう手紙を出さないようにという返事をもらった」
「嘘よ……」
私は力なく首を左右に振った。
自分はそんなことは知らなかった。
父のせいだと責めたかったが、それは、もう今更どうしようもないことだった。
それでもそんな仕打ちを受けた彼は父を助けてくれたのだ。
彼はゆっくりと立ち上がった。
そしてあの机の鍵の掛かっていた引き出しを開けて何かを取り出した。
「君からもらっていた手紙だ」
黄ばんだ手紙の束を見せられた。
それは身近なとりとめのない話題を書いた自分の子どもの頃の字だった。
何度も読まれていたかのように擦り切れて黄ばんでいた。
それはローズ色のリボンで束ねてあった。
「あと、これも……。ずっと見ていた。君に会えない時に」
そう言って彼が出して来たものは、幼い頃の自分と母と父の細密画(ミニアチュール)だった。子どもの頃、確かに自分が彼に贈ったものだった。
「だから、私が君を見間違う訳がない。いつだって……」
「ご、めんなさい」
そう言って泣き崩れるしかなかった。精一杯謝罪をするしかない。
彼はそんな私にゆっくりと手をまわして、そしてぎゅっと抱き締めた。
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