第8話

それは、大公閣下が出発して四日目のことだった。


 夜中に馬のいななきが聞こえた気がした。


 眠れないでいた私は廊下に出てみることにした。


 まさか、こんな早くに戻って来た? 自分たちの半分の時間で往復して帰って来た。やはりお父様を助けるなんて無理だったのかもしれない。


 やや落胆しつつ、階下の玄関を覗き見してみた。


 やはり帰って来たのは大公閣下であった。


 彼は目敏く私見つけるとため息をついた。


「起きていたのか……」


 そう言って彼は酷く疲れた様子であった。


 そして私の前を無言で通り過ぎた。


「あ、あの」


 声を掛けるが待たずにどんどん歩いていく。


 彼が立ち止まった先にはあの豪華な寝室だった。


「どこまで、ついてくるつもりだ。その気もないのに」


 苛立たしげな声で彼は言い放った。


 私はその言葉に息を飲んだ。


「流石だったよ。君にはまた騙された。いい加減、私も気をつけるべきだった」


「……何のことでしょう?」


 私の言葉に忌々し気な声で返してきた。


「ああ、君の父君はお元気だった。私が行ったときは軟禁状態だったけど救いだして、今は王都へ向かっているところだ」


「お父様が、ああ、良かった!」


「そうだな。君には……、私は君達親子に振り回されてばかりだ」


「……」


 そう言って、彼は一枚の紙を取り出した。


 そこには、父の字で、無事で、とりあえず自分が迎えに行くまで不本意だがこの男の側でいるようにと書いてあった。


 父の自筆のサインも入れてある。それを見てやっと安心した。


「くっ、まんまとやられたよ。伯爵家の印章は信頼できるものに持たせてあると伯爵が言っていた。つまり、君は最初からそのことを知っていたのだろう? 書類に印章が押せないことを……」


 彼は鋭い視線を投げかけてきた。


 それに私は視線を逸らせた。


 それは事実であったし、あの時お父様が渡してくださって、今は夜着の下に隠してあるのだ。


「……ピーター賢者(サージュ)殿か?」


 それは詰問口調だった。ピーター様に迷惑をかけてはいけないと押し黙って首を振った。


「まあ、本人に聞くだけだ。どんな手を使ってもな」


「止めて下ださい! ピーター様は関係ないわ!」


 思わずそう叫んで彼に詰め寄った。


 だが彼も本当にそこまでするつもりはなく、セーラローズを少し困らせるつもりで言っただけだった。


 何せほぼ貫徹で彼女の父親を助け出して本来の半分の時間で王都と伯爵領を往復したのだ。


 つい反射的にセーラローズのその身体を振り払ってしまった。


 思わぬ力であったので私はふらついて床に倒れ伏してしまった。


「あっ……」


「すまない」


 その衝撃で私の胸元から鎖に繋がれていた指輪が零れた。


 彼は私を抱き起そうと近寄ってくれていた。


「それは?」


「あ!」


 隠そうとする私の手より早く彼はそれを掴んで引き千切っていた。


 伯爵家の印章の指輪の方が大きくて先に目に入ったので、それは彼の手に入らなかった。


 引き千切った弾みでそれも一緒に外れてどこかに飛んでいってしまった。


 小さな金属音のみ私の耳に届いただけだった。


「ああ!」


「こんなところに持っていたのか」


 彼は立ち上がると契約の紙に印章を押し付けた。


「これで君との契約は……、どうした? 何を探している?」


 零れ落ちたそれを私は必死で探していた。


 お父様が無事ならこの身を捧げても良いと思っていた。


 だけど、あれを無くすのは耐えられなかった。


「どこ? どこにいったの?」


「なんだこれは……」


 それは彼の足元に落ちていた。彼がそれを拾い上げた。


「返してください。それは私の大切な物なのです!」


 慌てて私は彼に駆け寄った。


 彼はそれを私の手の届かないところに掲げた。


「大切? これが?」


「それは婚約の証なのです」


 私の言葉に彼は奇妙な顔で押し黙った。


「……婚約だって?」


「この身はお好きにしてください。でも、それは私のものなのです。どうか、お返しください」


 とうとう泣きそうになって彼に懇願した。


「婚約しているのか?」


「……」


 でも、相手はもう亡くなっている。でも、それを彼にいう必要はない。


 私は頷いた。


「……その相手の名は?」


 彼が擦れた声で聞いてきた。今までとは違う口調で。

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