君は怠惰 4
今日はもう帰れ、とヤグラに忠告された僕たちは、歴史館に人が一番多くなる時刻に、歴史館をあとにした。
お父さんも、昼過ぎに電話がかかってきたことにはとても驚いた様子だったよ。「何かあったのか」って訊いてきたんだけど、詳しくは車の中で話すってことで、すぐに電話を切った。
というのも、ヒダカはさっきのことでひどくショックを受けたみたいでね。ヤグラと別れてからも、ずっと俯いたっきり僕と口を利いてくれそうにないんだ。でもそんなんじゃあまりに危なっかしいから、僕が監視してないといけないでしょ? だから、とりあえず僕たちは歴史館の駐車場の自販機で、一息つくことにしたんだ。
「ヒダカ、どれ飲む? 好きなのなんでも言ってごらん」
「……大丈夫」
「とりあえず、水でも飲みなよ。落ち着いて、状況を整理してみよう」
自販機で五百ミリリットルの天然水を僕とヒダカの分、二本買う。僕が手渡したペットボトルを、ヒダカは一度は受け取るのを拒否したんだけど、二回目僕が手渡したときには意外と素直に受け取ってくれた。
ステンレス製の車止めの一つに、僕たちは寄りかかって話をした。
「……ごめん、エイト。私のせいで」
「ヒダカのせいじゃないよ。これは、誰も悪くない」
「ほんとに……ごめん」
相手の自責を止めるってのは、こんな気持ちなんだね。さっきのヒダカの気持ちも、今なら痛いほど分かる気がするよ。
その言葉がどれだけ核心をついているかとか、その人がどれだけ自分のことを分かってくれているのかとか。そんなことは、この際どうでもいいのかもしれない。今傷ついているヒダカに必要なのは、ただ単に寄り添ってくれる誰かの温もりだってことを、僕はようやく理解したんだ。
「『勤勉』ってのはね、実はすごく曖昧なものなんだ」
「……どういうこと」
「例えばさ、『正義』とか『価値観』ってのは、人によって異なるでしょ?」
それは幸福だって、怠惰だって、勤勉だって同じなのさ。
「人によって勤勉の基準は異なるんだよ。だからさ、ある人にとって勤勉なことが、ある人にとっては怠惰だって感じちゃうこともあるよね」
「うん」
「さっきのヤグラのことも、そうだったんじゃないかな。ヤグラにとっての勤勉が僕たちとは違っただけで、少なくとも僕たちは僕たちなりに勤勉に過ごしてたはずだよ」
人によってその基準が変わる「怠惰」を罪として平等に罰則の対象にするってのは、簡単に出来ることじゃない。それはこの世界でも、実際に社会問題として近年浮き彫りになってきていることなんだ。
「ヒダカは、ヒダカなりに頑張ればいいんだよ。そのあとのことは、誰も責めることはできない」
「僕はね、ヒダカはそのままでも十分勤勉だし魅力的だと思ってるよ」
ヒダカは、ずっと握りしめていたペットボトルの蓋を開けて、ゆっくりと水を飲み始めた。
* * *
コンコン、コンコン。
夜の勉強も切りのいい所まで終わって、そろそろ寝ようかと僕があくびをしていたときだった。静寂に包まれた部屋の中に、突然扉をノックする音が響く。いかにも人為的なリズムだった。
もしかして。いや、まさかね。
「……夜遅くにごめん」
僕はね、ちょっと嬉しくなった。恐る恐る扉を開けて見えたそこにいたのが、ほんとにヒダカだったから。いつものお気に入りの部屋着に身を包んでいて、前髪には薔薇色のヘアピンを留めてる。いつも見慣れてるはずの姿だったけど、距離も近いせいか僕は少しドキドキしてしまったよ。
「まだ寝てなかったの、ヒダカ」
「うん、ちょっと眠れなくて」
「今日なんか寒いもんね」
「ん、まあ、そう。寒くて寝れなかったんだ」
僕にはヒダカの強がりが、すぐに分かった。ちょっとだけ震えて聞こえる声は、なんとなく弱々しさとか儚さを感じさせる。寝付けないのは、寒さのせいじゃない。多分、まだ今日の昼のことを少し気にしてるんだ。
「大丈夫?」
「んー、ちょっと大丈夫じゃないかも」
だからさ、とヒダカは控えめに微笑んで続ける。
「今日はさ、エイトの部屋で、寝てもいい?」
「ええっ」
「もちろん、無理にとは言わないよ。別に、もしエイトがダメって言ったとしても、私は一人で寝れないわけじゃないから」
「さっきのはちょっと驚いただけ。僕のほうは何の問題もないよ」
嘘です。今にも心臓が張り裂けそうです。
「ほんと?」
「もちろん」
「やったぁ」
そう言って小さく微笑んだヒダカは、やっぱり可愛かった。
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