第91話 かなたは何着てもかわいいから、迷っちゃう


 いつもよりもずっと早く起きた、イヴの朝。


 アラームが鳴ってもなかなか起きてくれない結衣さんをゆすり起こして朝食を一緒に済ませた後、一度アパートまで送ってもらって、慌てて支度を整える。

 今夜こっそり枕元に用意するつもりのプレゼントは忘れずにバッグの中へ。


 今日の仕事が終わったら、待ちに待った結衣さんとのクリスマスデートだ。


 クローゼットを覗き込む。

 本当は、結衣さんに少しでもかわいいと思って欲しいから、ちゃんとした服を着たかった。

 でも、今日みたいな日にあまり気合を入れた服を着ると、きっと会社で浮いてしまうから、仕方なくいつもと同じような仕事用のスカートを選んで、鏡の前で合わせてみる。


 諦めきれない思いに蓋をして、自分を納得させる。今日は仕事だし、これは仕方ないことだ。

 それにきっと結衣さんは、私が何を着ていても絶対に「かわいい」って言ってくれると思う。


 でも、特別な日くらいは私だってもっとおしゃれしたかった。

 美人な彼女に少しでも釣り合うような女性になりたいと、いつだって思っているから。


 あーあ、今日が休日だったらよかったのに。


 結衣さんを車で待たせているから、服を選ぶのにも時間をかけていられない。

 結局、普段と変わらない服装に、昨日と同じブラウンのコートを羽織って、私は家を飛び出した。




***





 別に一緒にいるところを誰に見られたからと言って、どうということはない。


 社長と秘書。しかも女性同士。誰に見られたって問題ない。


 とは思うけれど――でも今、この車の運転席には秘書の私ではなく社長本人が座っていて、これは社有車ではなく社長個人の私有車だ。


 秘書が社長を送り迎えするのはおかしくはないけれど、その逆となると話は別だ。

 一般的に、社長は秘書を送り迎えしたりしない。そう考えるとやっぱり誰かに見られたら不思議に思われてしまいそうな状況だった。


 だから、仕方なくオフィスから少し離れた場所で、きょろきょろと周りを見回して人がいないことを確認してから、私だけひとり降車する。

 今日はイヴだから、自社のホテルやレストランは予約でいっぱいだ。結衣さんはこのまま巡回に向かう予定だから、朝はここでお別れだ。

 退勤後に、待ち合わせする予定でいる。


「じゃあ、結衣さん、またあとで」


「うん。気をつけてね」


 走り出した彼女の白いセダンに手を振って見送ると、私もオフィスまでを歩き出す。


 冬の朝の澄んだ空気は嫌いじゃないけれど、やっぱり今日は寒すぎる。かじかむ手をコートのポケットに突っ込んで、白い息を吐きだした。




 このまま何事もなくものごとが進んで行って、無事に結衣さんが北上さんと婚約破棄ができたとしても、私たちの関係を社内で公表するつもりは初めからない。

 私はただ結衣さんがいれば良くて、身内以外の不特定多数に認めてほしいとか、そういう気持ちはいっさいない。

 結衣さんもきっと同じだと思う。


 それでもこんな風に、こそこそとしなくていい日々が早くやってくればいいとは思う。


 いつか、誰の視線も気に留めずに、愛している人をただ愛していると言えるような、そんな世の中になればいい。


 秘密の関係も悪くはないんだけど――私の恋人は綺麗で優しくて、男女問わずモテてモテて仕方ないから、心配のタネが多すぎる。


 結衣さんはそれを私が察することのないように上手い具合に誤魔化しているようだけど、私だって社内での結衣さんの評判を知らないわけじゃなかった。


 結衣さんがモテちゃうのはもう仕方ない。だって学生の頃からそうだったし、もともとそういう人だから。そんなあなたに恋をした。

 とは言え……できる限り余計な心配はしたくない。


 愛されていると理解していても不安になってしまう恋心はどうしようもならない。一種の病気みたいなものだと思う。

 もっと素直に言えたらいいけれど、あんまりヤキモチを妬いて「めんどくさい」と思われちゃうのも怖いしなあ。


 誰にどう思われたって何とも思わないけれど、結衣さんにだけは、かわいいって思っていて欲しい。できるなら、何年経ってもずっと。


 そう思うと――せっかくのクリスマスデートなのに、いつも通りのこんな格好じゃ、なんだか味気ない気がしてくる。

 やっぱり、もっとかわいい服を着てくればよかったと肩を落とす。今更後悔しても、もう遅いんだけど。




 セキュリティゲートを抜けて、出退勤システムの端末にIDをかざす。

 オフィスは、いつもよりも閑散としていた。管理部門はいつも通りだけど、営業の方のデスクはもぬけのからで、応援や巡回に出払っているようだった。


 本社スタッフは準備期間が一番忙しいけれど、いざ繁忙期を迎えれば現場の方が圧倒的に忙しくなる。今日が一番の山場かな。


 クリスマス・年末年始を超えてしまえば、この慌ただしさも落ち着いてくるだろう。


 ちらりと予算管理課のデスクに目を向ける。私が座っていたデスクには、秋から異動してきたという新人の若い女の子が座っていた。


 そのうち、古巣の予算管理課にでも挨拶しに行ってみようかな。そんなことを思いながら、誰もいない社長室へと向かった。


 クリスマスを終えたらすぐ、長期休暇を控えている。今年は久しぶりにロンドンに帰る。年末年始、結衣さんと一緒にいられないのは寂しいけれど、大事なことだから仕方がない。

 不在時に迷惑をかけないように、できる限りの準備を済ませておかないと。そう思って、コートを脱いで、PCモニターに向き合った。




***




 「ついたよ」って結衣さんから連絡が来たのは、ちょうど私がオフィスを出た時だった。外はすっかり暗くなっている。

 昨日も一晩中一緒にいたのに、今から会えると思うだけで不思議とトクトクと心臓が高鳴る。


 すぐに向かいます、ってメッセージを返して約束の場所へ足早に向かう。頬を撫でる冷たい風も、全然気にならなかった。


 待ち合わせた駅に向かうと、すぐに結衣さんを見つけて駆け寄った。

 黒いウールのコートに、青いチェック柄のマフラー。長身でスタイルのいい彼女は遠巻きに見てもすぐにわかる。


「結衣さん、待たせちゃってすみません。お疲れ様です」


「ううん、全然待ってないよ。かなたも、お疲れ様」


 私を見下ろすその黒い瞳が愛おしそうに優しく細められる。キュッと心臓を掴まれたような気持ちになる。


 街中がクリスマスの雰囲気に包まれている、今日はそんな特別な夜。

 私の手をそっと繋いでポケットの中に引き込むと、結衣さんは優しく微笑んだ。


「じゃ、いこっか」


 うん、と頷いて歩き出す。

 さっきは結衣さんのことしか頭にないくらい急いでいて、目にも留まらなかったけれど、大きなクリスマスツリーが視界の横に映る。

 淡い橙色の光の粒が輝いていて、唐突に、目を奪われた。


 クリスマスは毎年やってくる。日本に帰ってきてからはひとりで冬を乗り越えてきたはずだし、多分こんなイルミネーションだって何度も目にしてきた。


 今更だけれどクリスマスツリーって、こんなに大きかっただろうか。

 不思議だ。好きな人が隣にいるだけで、こんなに輝いて見えるものだったんだ。


 ふたりでいる心地よさを知ってしまうと、ひとりでいることが苦しくなる。ぼやけていた「孤独」の輪郭が浮き彫りになって、明確に寂しさを認識してしまうようになる。


 身を焦がすような恋を知らないままでいれば、きっと人はひとりでも生きていけるんだと思う。


 でも、ふたりでいる心地よさを知ってしまうと、途端にひとりでは生きていけなくなる。


 強くもなるけど、弱くもなる。私はもう、結衣さんがいない人生なんて考えられない。


 思い出したくもないけれど、ふと北上さんの顔が脳裏に過ぎった。

 彼はきっと知らないんだろうな。こんなに胸が熱くなるような強い感情がこの世界には存在するんだってこと。

 願わくばいつか彼にもそんな人ができたらいいと思う。そしたらきっと、私の気持ちがわかると思う。


 人にはどうしても、譲れないものがあるってこと。


 ポケットの中で繋いだ手を、ぎゅっと握りしめる。どうしたの、って結衣さんが私に問いかけるから、「なんでもない」って、私はただ首を横に振った。




***




 デートプランは任せておいてって結衣さんが言うから、私は今日結衣さんがどこに連れて行ってくれるつもりなのかは知らない。


 学生の時は確か「ベタなデートをしよう」って言って、プラネタリウムを見に行った。


 いつか星が綺麗に見えるところに二人で行こうって、約束したのを覚えている。

 チラチラ雪が降ったり止んだりを繰り返している今日の空は、分厚い雲に覆われていて星一つ見えない。


 あの約束はまだ有効なんだろうか。そうだといいなって思いながら、手を引かれて歩いた。


「ところで、今日はどこに行くんですか?」


「一日仕事してたから、お腹空いたでしょ? ホテルのディナー予約してるよ」


「えっ? ドレスコードとか大丈夫ですか? 私、普段着で来ちゃったんですけど……」


 そうならそうと最初に言ってくれたらいいのに、意地悪。そう思ってむっと頬を膨らませると、結衣さんがにっこり笑って私の顔を覗き込んだ。

 そんなことは最初からお見通しだって顔をしている。


「大丈夫。今から服も買いに行くつもりだから」


「へ……?」


「いいから、ついてきて」


 服も、買いに行く? どういうこと?


 頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。わけもわからぬまま結衣さんについていくと、連れてこられた店舗に掲げられた、私もよく知るブランドの名前に思わず息を飲んだ。


「あの、結衣さん? 服買うって、ここで……ですか?」


「うん。来店予約してるから、早く入ろ」


「あっ、ちょっと、結衣さん……!」


 ぐいぐいと手を引っ張られて、真っ白い床が光を反射するほどに眩しい店内に連れ込まれる。


 どうしよう、例に漏れずまた結衣さんの「貢ぎ癖」が発動している。


 予約をしていると言っていた通り、結衣さんが店員さんにさらりと名乗ると、すぐに奥の個室に連れて行かれてしまう。

 緊張で、背筋がぴしりと伸びた。こういうの、慣れていないからそわそわする。


「事前に何着かピックアップして貰ってるから」


 結衣さんの言うとおり、個室にはすでに何着か高級そうなフォーマルなドレスが並べられていた。

 思わずゴクリと息を飲む。こういうとこの商品って、値札なんてついてないよね、やっぱり……。


 値段なんて全く気にしてもいなさそうな結衣さんは、呑気に黒い小さなバッグを手に取って、「これかわいいね、かなたに似合いそうだよ」なんてにこにこと笑っている。


「ねえ、結衣さん、本当に、ここで買うんですか?」


 店員さんに聞こえないように、つんと袖を引っ張って小声で言うと、その黒い瞳がきょとんと丸められた。


「あ、ごめん。このブランドいやだった?」


「そうじゃなくって……だって、ここのブランド、高いですよね……?」


「そんなの気にしないでよ。これもクリスマスプレゼントだと思って、好きなの選んで」


「で、でも……」


 結衣さんってば、本気なの? こんなの映画の世界みたい。ここまでしてもらって本当にいいんだろうか。なんか、年々結衣さんの貢ぎ癖が加速していってる気がする。


 確かに、並べられたドレスはどれもかわいい。でもそれを選べなんて言われると迷ってしまう。

 結衣さんにとっては痛くも痒くもない値段なんだろうけど、庶民の私は、どうしても気になって選べない。


 唇を尖らせると、結衣さんが私の気持ちを読み取ったのか、笑って私の頭を撫でた。


「んー、じゃあ、私が選んであげる。それでもいい?」


 そう言うと、有無を言わさず、並べられたドレスを嬉しそうに手に取って、私の身体に重ね始めた。

 その表情があまりにも楽しそうに見えて、胸の奥がきゅんと、締め付けられる。


「どうしようかなぁ。かなたは何着てもかわいいから、迷っちゃう」


 思った通り結衣さんは、いつだって私の望む言葉をくれる。

 何着ても、かわいいって。やっぱり言ってくれた。ふっと、肩の力が抜ける。


「……結衣さん」


「ん?」


「……さっきの、それがいい。黒いほう」


 普段私は黒い服はあまり着ない。でもそのドレスは素敵だと思った。夜の海みたいな、結衣さんの瞳の色に似てる。

 甘えるようにぼそりと言うと、結衣さんは嬉しそうに微笑んだ。


「これがいい? わかった。じゃあ、靴も選んでよ」


 結衣さんはきっと値段なんてどうでもよくて、私を喜ばせたいだけなんだ。

 プレゼントは、長く使える、いいものを。その気持ちはよくわかる。


 店員さんがみていてもお構いなしに、その腕にぴったりと寄り添うようにくっついて、パンプスを覗き込んだ後、こっちがいいって指差した。


「うん、これもかわいいね。一回、着て見せて。絶対かなたに似合うから」


 そう思って、このお店を選んでくれたんですよね。私に似合うと思って。

 その気持ちがすごくうれしくて、たまらなくなる。


 うん、と頷くと、結衣さんがまた、嬉しそうに微笑んだ。


 

 今朝、適当な服を選んだことをすごく後悔していたけれど――思い直す。


 だって結衣さんにプレゼントしてもらった服の方が、絶対に素敵に決まっているから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る