第90話 怒らないよ。かなたが何を言っても


 結衣さんの家の、バスタブは広い。


 二人で入ってもまだ、足を伸ばす余裕があるくらい。

 初めてこの家に来た時、一番驚いたのがお風呂の広さだった。

 いつも一人で入っていたあの頃は、このバスタブの広さのありがたみをあまり理解できていなかったけれど、私のアパートで結衣さんと一緒にお風呂に入ったとき、初めてわかった。


 広いお風呂って、本当に素晴らしい。


 勢いのまま結衣さんの家に押しかけて、暖房の効いたリビングのソファで、ベッドまで辿り着けないままにお互いの熱を分け与えあった、その後。


 あれだけ寒かったのが嘘みたいに、気付けば二人とも汗だくになっていて、まだ夕飯を食べていなかったけどどうしても先に汗を流したくてお風呂を優先した。

 こうなったのも全部、「暑い」って言ったのに暖房の設定温度を下げてくれなかった結衣さんが悪いと思う。


 お腹は空いていたけれど我慢ができないほどではないから、この空腹はお風呂から上がった後で、結衣さんにどうにかしてもらうことにする。


 密着した背中から伝わる温もりと、私をぎゅっと抱き寄せる腕が心地いい。


 ベッドだろうが、ソファだろうが、お風呂だろうが、お家にいるときは、いつだって結衣さんは私をこうして抱きしめたがる。


 もともと結衣さんはスキンシップが多いタイプだし、学生の頃からそれは変わらないけれど、いつしかそれが当たり前になっていて、もはやそうされないと落ち着かなくなっている。


 ホイップクリームみたいなモコモコの泡を両手で掬って遊んでいると、彼女の柔らかい唇が、髪を纏めているせいで無防備な私のうなじに優しく触れた。

 驚いて、びくりと背筋をのばす。

 

「わっ! 結衣さん、もう、いたずらしないでくださいよ。くすぐったいです」


「ごめんごめん。だってかなたのうなじ、綺麗なんだもん。なんかこう、ぐっとくる」


 さっき、ソファであれほどお互いを求め合ったのに、まだ満足してないんだろうか。

 からかってるんだか本気なんだか、結衣さんってやっぱりよくわからない。

 特に色気があるわけでもない私の身体を好いてくれているのなら……それはそれで、嬉しい気持ちはあるけれど。


「……結衣さんの、すけべ」


 照れ隠しに、お腹に回った彼女の長い指を軽くつねりながら、ちょっとだけ咎めるように言う。

 別に嫌じゃないけれど、そういうイタズラは心臓に悪いから。


「下心があってしたわけじゃないよ?」


「本当ですか? なんか、あやしい」


「本当だよ。でも、かなたがもう一回っておねだりしてくれるなら、何回でも頑張っちゃうけど」


「……やっぱり、あるじゃないですか、下心」


 一日中働いた後だって言うのに、結衣さんって、私と違って本当に体力があると思う。

 望めばたぶん、なんだって際限なく与えてくれるし、それはすごく嬉しいことではあるけれど。

 もう一回なんて、今日はもうねだったりしない。

 物足りないなんて、私は一度も思ったことない。いつだって、じゅうぶんすぎるくらいに愛情を感じている。



 北上さんと対面したせいで削られたメンタルは、もうすっかりと元通りになっていた。


 好きな人に抱きしめられるだけで、心が急速に充電されていくから不思議だと思う。

 この人のためなら、私は文字通りなんでもできるような気がしてくる。


 振り返ると、その黒い瞳が優しく細められたから、甘えるように正面からその首に腕を回して抱きついた。


 お風呂で温められた素肌が密着すると、それだけで溶け合っていってしまうんじゃないかと思うほどに安心する。

 こんなふうに触れ合いたくて、ただその一心で今日は結衣さんの元に来た。


 明日も仕事だけど、ちょっと朝早起きしてアパートに帰ってから出社すればいいだけの話だ。

 明日のことは、明日の私がなんとかする。

 それよりもどうしても今日、私は彼女に抱きしめて欲しかった。


 それに、私は結衣さんに、話さなければいけないことがある。――北上さんの、こと。


 できることは全てした。もう黙っている必要もない。

 明日はイヴだから。北上さんのことは、そんなロマンチックな日にするような話じゃない。

 だから今日のうちに、伝えておかないと。


 意を決して、唇を開く。


「……結衣さん、あのね」


「うん?」


 優しく、私の背を撫でる手のひらの熱を感じる。


「私、結衣さんに謝らなきゃいけないことがあるんです。今から……何を言っても、怒らないで聞いてくれますか?」


 一応、先手を打っておこうと思って告げれば、彼女はきょとんとして首を傾げた。


 なんとなくだけど、結衣さんは私が黙っていたことを、あまりよく思わないのではないかと思っていた。

 ずっと隠すつもりなんて毛頭なかったけど、伝えるべきタイミングには、迷っていた。

 そしてそれは多分、今が一番ベストだと思う。


 結衣さんは何度か瞬きをして私を見る。


「……んー、それを事前に言うってことは、私が怒るようなこと?」


 察しのいい彼女は、私の質問には即答せずにそんなことを聞いてくる。


「……たぶん」


 本気で怒りはしないだろうけど、叱られそうな気はしてる。


「私が怒るかもって、わかっててしたの?」


 うん、と小さく頷く。


 正直なところ、すぐに言うべきかはすごく迷った。でも、自分でどうにかしたかった。彼女に頼ってばかりでいることは、嫌だった。

 二十歳の私にはできなかったことでも、二十四歳になった今の私なら、できることもあると信じたかった。


 私を甘やかしてくれる結衣さんが大好きだ。でも……ただ守られるだけでは、だめだと思う。


 いざという時ぐらい、あなたのために闘える人間でありたかった。ずっと弱虫ではいたくない。

 それが私なりの愛のかたちであることを、結衣さんには知ってほしい。口下手な私が上手にそれを伝えることができるかは、まだわからないけれど。



 私の様子を伺うように見つめるその黒い瞳は、とても落ち着いていた。


「……それ、私のため?」


 優しく子どもを諭すような、そんな声色だった。もう一度小さく頷くと、私を抱きしめる腕に力が籠ったのがわかった。


「わかった。それなら……怒らないよ。かなたが何を言っても」


 ふっと優しく、結衣さんが微笑んだ。


 ――そう言ってくれて、よかった。彼女の首筋に、甘えるように頬を押し付ける。


「……実は、先週から二回ほど、北上さんに呼び出されて、会ってたんです。黙っていて、ごめんなさい」


「え」


 カチンと、音を立てたように結衣さんが固まる。やっぱり、想像していた通りの反応だ。密着していた身体が、少しだけこわばったのがわかった。


「……なんで、かなたが慎二と?」


 聞きたいことなんてきっとたくさんあるだろうに、怒らないと約束した手前、結衣さんは冷静に、でも普段よりも少しぴりついた低い声で言った。

 頭のいいこの人のことだから、想定し得る最悪のシナリオを思い浮かべているに違いない。


「北上さん、私と結衣さんの関係に気付いてます。結衣さんから、離れるように言われました。……ホールディングスの秘書室に、推薦するからって」


 見つめると、一瞬、不安そうにその目が揺れた。いつもだったら弱さを見せない彼女が動揺していると気付いて、胸の奥がきゅっと、狭くなる。


「それで、かなたは……なんて言ったの?」


 もちろん、そんな脅しに屈するわけがない。

 結衣さんは私の反応を伺いながら、少しだけ怯えているように見えた。


 何を言われても私は絶対に結衣さんから離れないから。信じてください――。

 そんな気持ちが伝わるように、左手を取って、ぎゅっと握りしめる。

 彼女が私に何かを伝えようとする時、いつもそうしてくれるみたいに。


「……お断りしました。北上さんは納得していなかったみたいですけど。でも、私と結衣さんが付き合ってる証拠なんて、どこにもないですよね?」


 笑いながらそういうと、固くなっていた結衣さんの表情が、安心したように柔らかくなる。

 強く抱きしめられて、その想いを受け止めるように抱きしめ返した。


「……ごめん、かなた。私のせいで、嫌な思いさせてるよね。慎二がそんな行動に出るなんて、全然想定できてなかった。……甘かった。本当にごめん」


 ぴったりと身体をくっつけて密着しているから、顔が見えない。でも、その声が少しだけ、震えているような気がした。滑らかな背中、少し浮き出た肩甲骨を、ちょっとでも安心してくれるようにとそっと手のひらで撫でてみる。


 それから、いいんです、って首を振った。


「……私は大丈夫ですから、今まで通り、北上さんには、何も言わないでください」


「でも、それでまた慎二がかなたに何かしてきたら……」


「春までなんて、もうすぐですよ。私は待てます。三年で結果を出すって、お父さんと約束したんですよね? あとたったの三ヶ月じゃないですか。最後までやり切りましょう。結衣さんが胸を張って、北上さんがいなくても大丈夫だってお父さんに伝えることができるように、私も精一杯お手伝いしますから」


 相当の覚悟を持って結衣さんは、この三年間を乗り越えてきた。

 辛いことも、苦しいことも、あったと思う。その努力を、こんなところで台無しにしたくない。


 結衣さんは少しだけ迷った様子を見せたけど、私の意志が変わらないことを察すると、こくりと一度、頷いた。


「……わかった。でも、もし何かあったら、次はすぐに教えてね。お願い」


 そう言われて、うん、と力強く頷いた。胸の内に澱んでいたもやもやが、晴れていくような気がした。

 

「でも、私……びっくりしちゃいました。八年も婚約してたのに、北上さんって結衣さんのことなんにも知らないんですね」


「え?」


「結衣さんのこと、初心だって言ってましたよ。一体、誰の話してるんだろって思っちゃいました。結衣さんって、こんなにすけべなのにね」


 からかうようにそう言えば、結衣さんは力が抜けたように微笑んだ。


「……今はかなただけだから、許してよ」


 泡に隠れてすりすりと私の太ももを撫で上げる手を慌てて叩いて止めると、ぱしゃりと水が跳ねた。じろりと睨むと、結衣さんはいたずらを嗜められた子供のように笑う。


 本当、結衣さんって、油断も隙もないんだから。


 真剣な話をしたら、なんだか急にお腹が空いてきた。


 今日はいっぱい頑張ったし、北上さんと会ったせいですごく疲れた。だから、思い切り甘えちゃえ。


 「お腹が空いた」っていつもみたいに甘えて言えば、結衣さんは嬉しそうに笑った。


 お風呂から上がって、いつものように髪を乾かしてもらったら、何か美味しいものを作ってもらったあと、一緒にお酒を飲んで、映画を観よう。


 今夜は抱き合って眠ったら、明日の朝は早めに起きて、一緒に朝食を食べる。


 学生時代は当たり前だった毎日がどれだけ幸せな日々だったのか、あの時はちゃんと理解していなかった。でも、今ならわかる。


 そんな毎日を、絶対に手に入れる。もう一度、当たり前にしてみせる。



 明日はクリスマス・イヴだ。


 きっと素敵な一日になる。


 また結衣さんにとってのサンタクロースになれる日を、私はずっとずっと楽しみに、待っていたんだから。






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