第89話 そんな人生……虚しくなりませんか
約束の、月曜日。
薄暗いバーの奥。前と同じカウンターで、彼は私を待っていた。
私に気付いて振り返った彼の、黒々とした前髪が揺れる。その奥にある独特な焦茶色の瞳を、私は何も言わずに見つめ返した。
濃紺のスーツの袖口から覗く銀色のカフスボタンひとつ取っても、一般的なサラリーマンの身嗜みとは明らかに違う。
いかにも、エリートサラリーマンの出立ちだ。
身体ごと振り返った彼の胸元にある、一ノ瀬グループの社章が照明を反射して、ぎらりと光る。
「お疲れ様。来てくれてありがとう」
偽りの笑顔の向こうに、鋭い毒牙がチラチラと見え隠れする。
つい一週間前はあれだけ彼を恐ろしいと思ったのに、不思議と動揺しなかった。
いざ覚悟が決まればこんなにも冷静になれるものなのかと自分でも少し驚いている。
引かれた椅子に、黙って腰を落とす。
彼は薄い唇をしならせて笑うと、バーテンダーさんに片手をあげた。そして、ウイスキーグラスを持ち上げる。
「彼女にもこれと同じものを」
すると、カウンターの向こうのバーテンダーさんがちらりと私を伺うように見た。すぐに気付く。前と同じ人だ。どうやら彼は先週、私が渋い顔をしたことを覚えていたのかもしれない。
「ストレートは苦手なので……。ハイボールでいただけますか」
北上さんの提案を無視してそう言うと、バーテンダーさんは「かしこまりました」とホッとしたように微笑んだ。
横目で見ると、北上さんがすっと目を細めた。
「……結衣には、当然何も言ってないよね?」
「そうですね、まだ、何も言っていません」
まだ、という言葉を強調する。今はまだ何も言っていないけど、これから伝えるつもりではいる。
コトリ、と目の前にグラスが置かれる。お礼を言って受け取り、口をつけた。
初めて飲んだけれど、私はこの味を知っている。結衣さんが好んで飲むお酒だから。
だからかな。少し苦味もあるけど、美味しいと感じる。
「……じゃあ、早速だけど答えを聞かせてもらおうか」
彼に視線を向けると、断られるなんて微塵も思っていないような、暖かさのかけらもない笑みを浮かべて私を見ていた。
「身に余るお話、感謝いたします。ですが、やはりお断りさせていただきます」
きっぱりと言い切ると、彼のこめかみがぴくりと動いた。笑顔の仮面の下で彼がどんな顔をしているのかはわからない。
でも、もう怖くはなかった。
彼はふう、と落胆したように深くため息をつく。言いたいことはわかるが、私はこれ以上理由も言うつもりはなかった。
「……俺と結衣は、今年で婚約して八年になる。彼女のことは、子供の頃から見てきたし、大事にして来たつもりだよ」
そんな薄っぺらの八年がなんだと言うんだろう。しらけた気持ちで彼を見る。
「大事に、ですか」
「君も知ってると思うけど、結衣は初心だからな。昔、キスしようとして突き飛ばされたことがあってね。結婚するまではそういうことはしないで欲しいと言われて、そこからずっと手も出してこなかった。それぐらい、俺は彼女を大事にしてきたんだよ」
――え? 初心? いったい誰の話をしているんですか?
と、喉の奥から言葉が滑り落ちそうになる。
やっぱり結衣さんは今まで、上手いこと彼をいなしてきたんだなと思うと同時に、この人は本当に彼女のことを何も知らないんだと思った。
だって結衣さんってキスするの大好きだし、そういうことをしている最中も、苦しいって言っても全然やめてくれないくらいなのに。
彼は見当違いなことを言っている。
むしろ、めちゃくちゃすけべですよ、あのひと。
あんなに綺麗な顔して、いつもえっちなことばっかり考えてるんですから。と、言いたくなるけど、我慢する。それは私だけが知っていればいいことだし。
グラスを、呷る。
私はバカだ。学生の頃、かわいい子となら誰とでもキスできたような人が、突き飛ばすほど嫌がる相手と、婚約しているからってろくに話も聞かずに逃げ出した。
後悔したって遅いけれど、過去の自分を殴り飛ばしてやりたくなる。
「……子供の頃から、結衣さんのことが好きだったんですか。じゃあ、北上さんって、女性経験ないんですか?」
吐き捨てるように言うと、私が言い返してくるなんて思ってもいなかったのか、初めて彼の顔が引きつった。
ほらね、やっぱり。そんなわけないでしょう。北上さんは、たった一人の女性を長年想いつづけられるほど愛情深いようには、とてもじゃないけど見えない。
やっとその仮面が少しだけ剥がれた気がして、気分が良かった。
「……もしも結衣さんが嫌だと言ったら、一生死ぬまで手を出さずに生きていく覚悟はありますか? それぐらい、本当に結衣さんを愛しているんですか?」
彼の本当の目的なんか、知ったことではない。
そんな歪んだ執着を、私は愛とは呼ばせない。
至極真面目に投げかけた問いを、北上さんはあっさりと鼻で笑った。
「それは極論すぎやしないか? 夫婦になったら、子供だって作るんだし……。乗り越えられる課題だよ」
ため息が出そうになる。
結局彼が必要としているのは「都合よく動く操り人形」で、結衣さんの意志も何も尊重する気はないらしい。
苦痛を我慢することは愛ではないと、結衣さんは私にはっきりと言い切った。その言葉に、十九の私はどれだけ救われたことか。
こんな人に、彼女が抱かれるなんてぞっとする。――想像もしたくない。
「この際だからはっきり言う。君と一緒にいることが結衣にとって有益であるとは思えない。それに君は一度逃げ帰ったんだろ。あきらめてくれ。例え結衣が君を好きだったとしても、俺たちの結婚には関係ないことだ。君が身を引けば全て丸く収まる」
「……彼女が私を好きだと、誰が言ったんです? 少なくとも私は、そんなこと知りません」
「何をいまさら。しらをきるつもりか」
雪哉さんの言う通り、証拠なんてないはずだ。彼はかまをかけて私を脅しているだけだ。揺さぶられてはいけない。
「それ以前に……北上さんと結衣さんは、価値観が違うと思います。絶対に、合わない」
断言できる。
よかった。彼が、彼女が望むならそれでもいいと言わなくて。心置きなく私はあなたから彼女を奪うことができる。
理解もない人と結婚して、幸せになれるはずがない。
「……結衣の考えていることは想像できる。三年前、取締役に俺ではなく雪哉を選んだ時点で、おかしいと思っていた。グループに、なぜ離れたあいつを引き込んだ? 理由は簡単だ。俺との婚約を破棄しようとしてるんだろ。雪哉さえいれば、俺は不要だからな」
雪哉さんとは幼馴染だと聞いていたけど――なんだか目の敵にしているのではと疑ってしまうほど、北上さんが雪哉さんの名を呼ぶ声には怒気が孕んでいた。
「君のせいで結衣は変わった。自分の意志を持つようになった。でも、俺がそう簡単に引き下がるなんて思わないでほしい。俺だってこの会社に、人生を賭けているんだ」
睨みつけるように私を見る彼の瞳はぎらぎらとした野心に燃えていた。
「……そういうことは、ご本人に直接お伝えしては如何ですか。私はただの秘書ですので、プライベートのことについてはお答えできかねます。この件については、社長に報告いたしますので」
ぴしゃりと言い切って、ぐっとお酒を飲み干した。
「……北上さん」
名前を呼ぶと、怒りで赤く充血した瞳が、私を捉えた。
なんだか――可哀想なひと。
「誰かを愛したり、愛されたりすることもない人生を選んで、それであなたは本当に幸せなんですか? そんな人生……虚しくなりませんか」
心からの言葉だった。でも、言ってから、彼にとっては辛辣な言葉を投げかけてしまったことに気が付いた。
北上さんが、すっと無表情になる。それがあなたの本当の顔か。やっとその仮面の奥にある素顔を、見れたような気がした。
もう心が揺らぐことはない。私は彼女と一緒に生きていくと決めた。
ふたりの未来を諦めない。結衣さんがそばにいてくれる限り、絶対に。
世間からしてみれば――私の方が悪い人間なのかもしれない。でもそんなことどうでもよかった。
結衣さんの心を守れるなら、私は誰に石を投げられたって構わない。
バッグから財布を取り出すと、お札をカウンターに叩きつける。
「この間のお酒の分も、お返しします。それでは」
カウンターの上で握られた彼の拳が、わなわなと震えているのがわかった。
全部無視して、踵を返す。
気がきくバーテンダーさんがいる素敵なバーだったけど、もうここに来ることはない。彼と二人きりで会うことも。
ホテルを出ると、分厚い空を見上げる。ちらちらと雪が舞っていた。吐く息は白い。底冷えするような寒さだった。
イヴは明日なのに、サンタさんはプレゼントだけじゃなく低気圧までも運んで来るらしい。雪を降らすのを、待てなかったのかな。
襟を寄せて、駅へと向かって歩き出す。
この世界は、社会は、理不尽なことだらけだ。
失敗をしても時間は決して巻き戻すことができないし、泣いて喚いてもどうにもならないことだってある。
それでも、信じたくなる。
愛情には、どんな困難な壁であっても乗り越えるだけの力があるって。
改札をくぐる前に、ポケットが震えた。スマートフォンを引っ張り出してディスプレイを確認すると、結衣さんからメッセージが届いていた。
タップすると、画像が添付されていた。
キッチンカウンターの上にちょこんと乗せられた、小さなクリスマスツリーの写真。
見覚えがある。
これ、学生の時に、私がバイト先の近くの雑貨屋さんで買ったものだ。まだ持っていてくれたんだ。もしかして毎年飾ってくれていたのかな。
だとしたら、結衣さんは、毎年これをどんな気持ちで――。
キュッと、唇を噛み締める。
――雪降ってるから、帰りは気を付けてね。必要があればいつでもお迎え行くから連絡して。
退勤間際に今日は用事があると結衣さんに言ったから、心配して連絡してくれたのだろう。
なんだか無性に会いたくなって、気付けば、改札を抜けて自身のアパートとは真逆に向かう電車のプラットホームに立っていた。
銀色のボディを輝かせて、小さな雪の粒を巻き上げながら電車がホームに入ってくる。開いたドアから身体を滑り込ませた時には、もう迷いなんてなかった。
大学時代、飽きるほど通り過ぎた、結衣さんの家の最寄駅の改札を抜け、通話履歴の一番上の名前をタップする。
駅を出ると、道路にはうっすらと白く雪が積もりかけていた。
『もしもし、かなた?』
大好きなその声を左耳に感じて、頬が緩む。
「結衣さん。今からお家に行ってもいいですか?」
『今から? いいけど……かなた、今どこにいるの?』
電話越しに、嬉しそうな声がする。
「……実はもう、最寄駅まで来ちゃいました」
『えっ? 雪降ってるし、迎えに行くから駅で待っててよ』
「もう駅を出て向かってます。すぐに着くと思うので、また」
そう言って電話を切る。
はやる気持ちが背を押して、風を切りながら私の身体は結衣さんの元へと向かう。
一刻も早く会いたくて、気付いたら、駆け出していた。
「かなた!」
先を急いでいると、道路の向こう側から、結衣さんが慌てて私の元に駆け寄ってくるのが見えた。
距離が縮んで、大好きなその胸に思い切りダイブする。支えるように、結衣さんは強く私を抱き留めてくれた。
「駅で待っててって言ったのに……。寒かったでしょ」
そう言って、結衣さんは私があげた青いチェック柄のマフラーを私の首に巻いてくれた。あったかい。結衣さんの甘い匂いがする。
ぱっぱっと私の肩に積もった雪を手のひらで払って、心配そうに私を見る。
「突然どうしたの? 何かあった?」
「急にごめんなさい。会いたくなっちゃって。……今日、雪降ってるし、ひとりで寝るのはちょっと、寒いかなって」
照れ隠しに視線を逸らしてそういえば、結衣さんがふふっと笑った。優しい黒い瞳を細めて、愛おしそうに私を見つめる。
「……そうだね。今夜はひとりで寝るにはちょっと、寒いよね」
握られた手が、暖かい彼女のコートのポケットの中へ吸い込まれていく。
「……帰ろっか」
うん、と頷いて、肩を並べて歩き出す。
分厚い雪雲に覆われた空を見上げる。街中を白く覆うように、雪はただ静かに降り続いていた。
***
招き入れられた室内は暖かくて、寒さに耐えようと固くなっていた身体がゆっくりと溶けだして行くようだった。
自分が脱ぐよりも先に私のコートを脱がしてくれた結衣さんは、私のコートをラックにかけてくれる。
二人きりになってやっと、張り詰めていた緊張の糸がほぐれていく。
どうしようもなく触れたくなって、待ちきれなくて、その手を取ってぎゅっと引く。振り向いた結衣さんに、少しだけ背伸びして、顔を寄せる。
驚いたようにその黒い瞳が揺れたけど、構わずに唇を押し当てた。
ひんやりと冷たくて、やわらかい。
一瞬ぴくりと、握った手の指先が震えたけれど――微笑んだ結衣さんは私の腰に手を回して、少し強引に抱き寄せてくれる。
何度も角度を変えて唇を触れ合わせているうちに、いつの間にか感じていた冷たさはどこかに行っていた。
「……かなたからキスしてくれるなんて、珍しいね」
嬉しそうに笑って言うから、少しだけ気恥ずかしくなる。
「……だめですか?」
「ううん。だめじゃないよ、嬉しい」
視線が合うと、愛おしさが込み上げてくる。
お酒しか飲んでいないからお腹はぺこぺこのはずなのに、それよりも、結衣さんと触れ合いたいと思う気持ちが勝ってしまった。
「……ねえ、結衣さん」
「ん?」
「……もっと、キスして」
その唇を見つめてねだるように言えば、結衣さんが笑った。そっと私の頬を撫でて、瞳を覗き込んで悪戯に微笑む。
「……キスだけでいいの?」
意地悪なひと。私が何を求めているか、もうわかっているくせに。
言わせたくて問いかけて来ているんであろう彼女の思う通りに言うのも悔しくて、唇を尖らせて俯くと、そっと顎を持ち上げられる。
熱のこもった獰猛な黒い瞳と視線が合えば、ぞくりと背が震えた。
親指が、優しく私の唇をなぞっていく。
「……かなた、ちゃんと教えてあげたでしょ? そういう時は、なんて言えばいいんだっけ」
じくじくと胸の奥が熱く燃えている。
北上さんの、せいだと思う。
誰にも渡したくない。この人に触れられるのは、ずっと私だけの特権であって欲しい。
独占欲が、まるでマグマのように吹き出して、波のように押し寄せてくる。
軽く口の中に割り込んでくる親指に誘うように甘く歯を立てて、彼女をじっと見上げた。
言葉にして言って欲しいのはわかっているけど……まだ恥ずかしいから、それは私がもう何も考えられなくなってからにしてほしい。
その指に舌を絡めて軽く吸えば、私の思惑に気付いたのか、結衣さんが笑う。
親指を引き抜いた後、私の身体を掻き抱くと――結衣さんは、噛み付くような、とびきり甘いキスをくれた。
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